表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

コバルト短編小説新人賞への投稿作

カゴの鳥

作者: 日咲ナオ

 キリ。キリ。キリリ。

 もうすっかり、耳になじんだ音。この音が終わると、私はやっと目を開けられる。

 キリ。キリリ。

 ゆっくりと、のんびりと。焦らすように、音はまだ続いていく。

 キリリリ。

 一段音が高くなって、カシャン、と鳴る。

 後に続くのは、無音。

「さあ、朝だよ。おはよう、僕の小さな姫君」

 大好きな、大好きな声が聞こえる。その声に誘われて、私はゆるゆると目を開けた。

 まず目に入るのは、木の枝でできた、大きな鳥カゴ。私はこのカゴの中にいる。カゴの出入り口はひとつだけ。鍵は外からかかるけど、中からは開けることができない仕組みなんですって。

 足下は、木の板や土の地面じゃなくて、フカフカでフワフワした白い絨毯。寝転がると、気持ちよくてすぐ眠くなっちゃう。

 鳥カゴが邪魔する向こう側に、大好きな人。

 お日様の光を浴びると、キラキラ光る金色の髪も。いつも穏やかに微笑んでいる、緑色の瞳も。両端が優しく持ち上がっている、薄めの唇も。

 何もかも大好き。

「おはよう、ショラール」

 ニコニコ笑みを浮かべて、彼をジッと見つめる。ちょこんと首を傾げて、可愛らしく朝の挨拶。

 これだけでも、ショラールはすごく喜んでくれる。

「ああ、アマンテ。今日も君は愛らしいね」

 ほらね。

 あんなふうに、ちょっと締まりのない顔をするショラールも、やっぱり好きよ。

「さあ、出ておいで」

 ヨロヨロと、私は動きの悪い体で立ち上がる。一歩踏み出すにも、かなり苦労させられる、不自由で役立たずで重たい体。

 でも、ショラールが「好きだよ」「愛しているよ」と言ってくれるから、私はこの体が嫌いじゃない。

 巨大な鳥カゴの出入り口から、のそのそと外へ出る。

 頭を下げなくても、当たるわけじゃないけど。何となく、いつも頭を下げてしまう。

「今日は何をしようか」

「騎士様のお話を読んで欲しいわ」

「アマンテは、本当にあの物語が好きだね。じゃあ、今日はアマンテが満足するまで、物語を読もうか」

「ありがとう! 大好きよ、ショラール!」

 ヨタヨタしながら、私はショラールの首に腕を回してギュッと抱きつく。そうすると、私が持て余す重たい体を、いつもショラールは軽々と抱き上げてくれるの。

「ふふっ、ずいぶん甘えん坊の姫君だね」

 笑うショラールは、私の額にひとつ、右の頬にひとつ、左の頬にひとつ。そっと触れるだけのキスを落としてくれる。

 くすぐったくて、私は身をよじって逃げようとするけど、ショラールは絶対に逃がしてくれない。逃げようとした分だけ、またキスがどこかに降ってくるの。

「さあ、僕の小さな姫君。君の好きな騎士様の物語を読もうか」

 ショラールは、書棚の前に連れていってくれる。必要な本を取り出した後、膝に乗せて読み聞かせてくれるのよ。

 優しく響くショラールの声は、いつも私を眠りに誘うの。

 眠っちゃったら、物語はおしまい。また今度になっちゃうから、一生懸命目を開けていようとするんだけど。

 今日も、気がついたらカゴの中。悔しいけど、眠っちゃったみたい。

 真っ暗になって、人の気配のない部屋で。私はカゴの中から窓を見る。

 黒い空には、キラキラした小さな光がいっぱい。遠くにザアザアと波の音が聞こえて、風が時々、申し訳なさそうに窓をコトコト叩くだけ。

 星空を眺めながら、私はぼんやりと、ショラールと初めて会った日を思い出していた。


 その頃は、もうずっと、目覚めの音を聞いていなかった。

 ずいぶんと、深い眠りについていたみたい。私は、カシャン、という音がするまで、人がいることに全然気がついていなくて。

「初めまして、アマンテ! 僕はショラールだよ」

 大きな緑の瞳を、髪と同じくらいキラキラさせて。ショラールは、私の後ろでニコニコ笑っていた。

「初めまして、ショラール」

 首を大きく後ろに傾けて、カゴにゴン、と頭をぶつけながら、ショラールに挨拶する。

「そのドレス、アマンテによく似合ってるよ。今度は、もっとレースがいっぱいついた、ふわふわのドレスにしようね。それに、亜麻色のクルクルした髪も、ブルーグリーンの大きな瞳も、何もかも綺麗だよ」

 まだ小さな子供なのに、いっぱしの口を利くなんて。

 可愛らしさとくすぐったさで、私はなぜか曖昧に微笑んだ。

 この子は、どうなるのかしら?

 ショラールの前に会った青年を、ふと思い出して。私は、ほんの少しだけ悲しくなった。それから、漠然と不安を覚える。

 きっと、ショラールもいつか、私を置いてどこかに行ってしまう。

 金の髪と、緑の瞳。顔立ちはあまり似ていないけれど、雰囲気がそっくりな、かつての彼のように。

 ショラールとは、積み木をしたり、絵本を読んだり、お絵かきをしたり。大きくなってくると、ボードゲームや読書、単なるおしゃべりもするようになった。

 何をしても、どんなことを話しても。ショラールと一緒なら、全部楽しくて。時間が経つのも、うっかり忘れてしまいそうだったけど。

 初めて会った日から、もうすぐ十年。

 もう、顔も名前も思い出せない恋しい人が、私の前からいなくなった。その頃の恋しい人とショラールが、もうすぐ同じくらいの年齢になる。

 ショラールも、私の前からいなくなるのかしら? それとも、ずっとずっと、そばにいてくれるの?

 わからない。わからない。

 明日、思い切って問いかけたら……ショラールは、ちゃんと答えてくれるかしら?


 キリ。キリ。キリリ。

 いつもと変わらない音がする。

 もうすっかり耳になじんだ、私が目覚めるための音。

 キリリリ。

 音がヒュッと一段高くなってから。カシャン、と、不思議な音がする。

「おはよう、アマンテ。愛しい僕の姫君」

 にこやかに笑って、こう言ってくれるショラールだけど。

「おはよう、ショラール。ねえ、ショラール。ショラールは、いつまで私のそばにいてくれるの?」

 よっぽど驚いたのかしら。ショラールは目を大きくして、息を止めたわ。

「……君が、僕を好きだと言ってくれるうちは、ずっとそばにいるよ」

「本当に? ショラール、大好きよ!」

「アマンテ……君を誰よりも、愛しているよ。僕の心は、君と初めて会った時からずっと、変わらない」

 できるだけ急いでカゴから飛び出して、私はショラールにギュッと抱きついた。ショラールも、ギュッと抱き締め返してくれる。

「君をここから連れ出して、ずっと僕のそばに置けたらいいのに……」

 同じような台詞を、もう何度も聞いている気がして。囁かれた吐息混じりの言葉は、私の耳をスルッと通り抜けた。

「ねえ、アマンテ……どんなことがあっても、僕は君を、君だけを、愛しているよ」

「私も、ショラールが大好きよ」

 囁き返すと、強く強く、壊れそうなくらいギュッと抱き締めてくれる。

 体のあちこちで、キシキシと何かがきしむ音が聞こえて。

 ──このまま、壊れてしまったらいいのに。

 私は、そんなふうに考える。

 そっとショラールの背中に腕を回す。昔は簡単に手が触れたのに、今はもう、指先すら触れられない。

 あまり変わらなかった昔と違って、今のショラールは、私よりうんと背が高いの。体の幅も、手の大きさも、全然違う。

 きっと、ショラールは大人になりつつあるのね。

 大人になったら、現実を知るわ。厳しくて、時にはやりきれない現実を。そうして、私のところには来なくなる。

 でも、それでいいの。それで、いいはずだから。


         ∮ 


 目覚めの音はしない。でも、私は目を開ける。だけど、やっぱり体は動かない。

 視界の端に映る窓の外は、どんよりした重い雲が広がっていて。ザアザアと、激しい雨が木々や地面を叩く音がした。

 目だけで下を向けば、ドレスが見える。部屋の中も、少しだけ見回せる。

 ドレスは、汚れて色あせてきたわ。真っ白だったレースが、ちょっと茶色くなってる。真っ白なはずの絨毯も、何だか薄汚い。

 部屋の中も、湿っぽくてかび臭いの。

 鳥カゴの枠が、ない場所がある。よく見たら、絨毯の上に、大小さまざまな木片がいっぱい散らばってる。

 あれから、どれくらい、ショラールは来ていないのかしら。

 私はぼんやりと、目を閉じる。


 次に目が開いた時は、窓の外は明るかった。真っ青で、雲ひとつない空が、どこまでも広がっていて。

 かすかな、波の音がした。

『アマンテ、愛しているよ』

 ショラールの、声が聞こえる。

『君は僕の、僕だけの、愛しい小さな姫君』

 気のせい。気のせいよ。

 耳をふさぎたいのに、腕は上がらない。

『君を、君だけを、僕は愛し続けるよ』

 嘘つき。嘘つき、嘘つき!

『僕が死ぬまで永遠に、君を僕のそばに置けたらいいのに……』

 だったら、連れていって。

 言葉だけじゃなくて、そうしてよ!

『ああ、君を僕の屋敷に閉じ込めたいよ。綺麗な部屋に、外から鍵をかけて。僕だけが君に会える、特別な部屋を作って』

 それは、できないことなの? 私は、ショラールがいつもそばにいてくれたら、それでいいのに。

 他の人なんて、いらないわ。

『お願いだよ。僕を、僕だけを、愛していると言って』

 そう言ったら、戻ってきてくれる?

 もう一度、私を愛していると、言ってくれるの?

『アマンテを愛しているよ。どんなに時が流れても、僕の心は変わらない』

 じゃあ、証拠を見せて。

 今すぐここに来て、私を愛していると言って。

 いつもみたいに、ギュッと抱き締めて。

 ──ショラール!

 叫んだつもりだけど、声は出なかった。

 私の体は、目覚めの音を聞いてからじゃないと、指一本動かせない。ため息ひとつ、涙ひと筋、出てこない。瞬きするのも、ただただ億劫で。

 不自由で役立たずで、ひたすら重いだけの邪魔な体。

 こんな想い、したくなかった!

 どうして目が開いてしまったの? いつだって、目覚めの音がした時だけ、私は起きていたのに。

 どうして、こんなにはっきりショラールの声が聞こえるの? 今ここに、ショラールはいないのに。

 ……どうして、私はショラールに会いたいの? 会って、ギュッと抱き締めて欲しいのは、どうして?

 答えのない疑問ばかり。まるで泡のように浮かんでは、パッとはじけて消える。消えたと思ったら、またフワフワと浮かんでくる。

 ねえ、ショラール。私は、ショラールのお願いだったら、どんなことでも叶えるわ。たとえ私が、二度と動けなくなっても……。

 だから、私をちゃんと目覚めさせて。もう一度、私の名前を呼んで。ショラールの名前を呼ばせて。

 愛していると、囁いて欲しいの。

 もし、もう一度がないのなら。

 心だけ、ここに置いていかないで。私の記憶に、ショラールを残さないで。空にも、風にも、波にも。私を愛していると、絶対に伝えないで。

 動かない体を抱えて、ショラールを想って。あなたが心に生き続けることが、壊れるよりも寂しくて苦しいの。

 ただ寂しくて苦しいだけの時間は、もう、過ごしたくないわ。


         ∮ 


 キリ。キリ。キリリ。

 懐かしい音がする。

 キリリリ。

 それまでより一段、音が高くなって。

 カシャン、と何かがはまったような、不思議な音が響く。

 私はゆるゆると目を開ける。ゆっくり、何度か瞬きをしてみた。

 しっかりした、巨大な鳥カゴ。真っ白な絨毯。私の着ているドレスは、真っ白なレースがたっぷりついた新品で、淡くて可愛らしいピンク色。

「…………」

 私は、誰かの名前を呼ぼうとした。でも、声は出てこない。言いたいはずの言葉も、頭にちっとも思い浮かばなくて。

「初めまして、アマンテ」

 後ろから聞こえた声に、私は首を大きく反らせる。頭がゴン、と鳥カゴの枠に当たったけれど、そんなことは気にしない。

「僕はキエトだよ」

「初めまして、キエト」

 私はニッコリ微笑んで、キエトを見上げながら挨拶をする。

 キラキラ光る金色の髪に、勝るとも劣らない、キラキラ輝く緑色の瞳。

 何だか、とっても懐かしい気がする。

 ああ、きっと、私が大好きだったあの人に、何となく似ているからなのね。

「アマンテは綺麗だね。ねえ、ずっとずっと、僕のそばにいてくれる?」

 この子もやっぱり、今までと変わらないのかしら?

 それとも、今度こそ、違うの?

「キエトが望むなら、私はずっと、そばにいるわ」

「約束だよ? 君は僕と、ずっとずっと一緒だからね?」

 今度の『約束』は、いつまで続くのだろう。

 そんな疑問を覚えながら、私は素直にこくんと頷く。

「僕は君を、絶対に手放さないからね?」

 キエトは確かに微笑んだのに。なぜだか、体が勝手に震えてしまうくらい、彼の笑顔は怖かった。


 月日の流れは本当に速いもの。キエトと初めて会った日から、もうすぐ十年。キエトはすっかり、大人の装いがよく似合うようになってきた。

 昔の約束なんて忘れてしまって、キエトはいつか、ここへは来なくなるだろう。

「ねえ、キエト。キエトはいつまで、私のそばにいてくれるの?」

 こんなこと、聞かなければいいのに。

 そう思いながらも、私は何気なく問いかける。

 キエトの顔色が、スッと悪くなった。だけど、すぐにいつもどおり。

「僕が望むなら、ずっとそばにいるって言ったよね? だから僕は、君のそばにいるよ。ずっとずっとそばにいて、君を絶対に手放さない。たとえ、どんな邪魔が入っても」

 ニッコリ微笑むキエトは、昔と変わらず、怖い。

「ねえ、アマンテ。今夜は、ここで一緒に寝ようよ。君が眠るまで、僕はちゃんと手をつないでるから。それで、明日の朝、僕は一番におはようを言うよ」

「え……」

 ここで寝る、なんて。

 この部屋はベッドもないのに。私は、この鳥カゴにもたれて眠るのに。

 第一、この鳥カゴは、今のキエトじゃ、真っ直ぐ体を伸ばして寝られないわ。

「大丈夫。君が僕に、ここにいて、って思っててくれるなら、僕はどんなことでも耐えてみせるよ」

 キエトは絶対に、私をギュッと抱き締めてはくれない。代わりに、私の両手をキエトの両手で、ギュッと包み込んでくれる。

 くすぐったいキスも、してくれない。でも、いつも唇同士をしっかり重ねてくれる。

 それから、キエトは「愛してる」も言ってくれない。言ってくれないけど、私はキエトが好き。大好き。

 いつもそばにいて、ずっと一緒にいたい。そう願うくらい、大好き。

「だからアマンテ。僕を愛していると言って」

「……キエトを、愛してるわ」

 そっと呟いたとたん、頬がふわっと熱を帯びる。

「僕も、アマンテを、誰よりも愛しているよ。君以外の何もかもを、捨ててもいい」

 囁き返されて、全身がカッと熱くなった。

 真っ白な絨毯をたくさん重ねた場所を、ゆっくり歩いているような気分。何だかフワフワして、足を取られて転びそうだわ。

 何もしていないのに、バラバラに壊れてしまいそう。

 鳥カゴに二人で並んで、窓の景色を眺めている。青かった空は、だんだん黄色っぽくなってきて、今度は燃えるような赤。

 赤色が怖くて、私はキエトの腕にギュッとつかまる。そうしたら、キエトに腕をほどかれて、ギュッと抱き締められていた。

「アマンテは、夕焼けが怖い? ああ、だから、いつも早く寝ちゃってたのかな? これからは大丈夫だよ、僕がそばにいるからね」

 体が変なふうにドキドキして、窓を見る余裕なんてなくて。気がついたら、外は暗くなっていた。

「暗くなったね。もう、寝ようか」

 促されて、私はいつもの場所に行く。鳥カゴの枠にもたれてしゃがんで、足を伸ばして座る。腕は、自然に床へ下ろす。

 私の右側に、キエトがやってきた。横向きにコロンと転がって、両手で私の右手をそっと包み込む。

 温かいキエトの手が、あんまり心地よくて。

 私はいつの間にか、ぐっすり眠ってしまったみたい。



 キリ。キリ。キリリ。

 今日もまた、私を目覚めさせる音がする。

 キリリリ。

 一段上がった音は、不意に消えて。カシャン、と何かがかみ合う音に変わった。

 私はゆっくり目を開けて、いつものように、キエトの声を待っている。

「……キエト?」

 声が、しない。

 いつもは真っ先に、少ししゃがれた声で「おはよう、アマンテ」って、笑顔で優しく呼びかけてくれるのに。

「キエト?」

 ヨロヨロと立ち上がって、鳥カゴの周りを見回してみる。

 部屋の中にも、鳥カゴの中にも。

 どこにも、キエトの姿がない。

 太陽みたいにキラキラした金色の髪も、綺麗な緑色の瞳も。

 どこにも、見当たらない。

「ねえ、キエト。どこ?」

 ちょっと意地悪なキエトだから、隠れているのかも? でも、この部屋に、隠れられる場所なんてない。

 じゃあ、部屋の外? だけど、私は外に出たことがない。この部屋しか知らないから、一人で外に出るのは怖い。無理。

「ねえ、キエト! どこにいるの!?」

 精一杯声を張り上げるけど、キエトからの返事はない。

 昨夜も、手をつないで寝たのに。

 まだ、私の手に、キエトの手の感触が残ってるのに。

 キエトだけが、どこにもいない。キエトだけが、消えてしまった。

「キエト!」

 もう一度、キエトに会えるなら。役立たずで重たいこの体が、バラバラになって壊れてもかまわない。

 絶対に、後悔しない。

 だから私は、全身を使って、キエトの名前を呼ぶ。

「キエト──っ!」

 鳥カゴから這い出て、私は真っ白な絨毯に突っ伏して。キエトの名前を叫びながら、ただひたすら、キエトを待っていた。

 いつもよりうんと長く一緒にいたけど、きっともう、キエトは来ない。


         ∮ 


 私は、真っ白だった絨毯に、うつぶせたまま転がっている。重くて役立たずの体は、指一本動かせない。

 静かな波の音が聞こえる。風が、窓を叩いていく。

 でも、キエトは来ない。

 時々、ふと目を開けるたびに、キエトを思い出す。思い出すと、キエトの声が聞こえる。

『僕は君とずっと一緒だよ。絶対に、手放さないからね』

『僕がそばにいるよ』

『もう夜だよ。そろそろ寝ようか。ほら、手を出して?』

『ねえ、アマンテ。僕を愛していると言って』

 まるで、すぐそこにいるような。どこまでも穏やかで、近い囁き。

 会いたくて、恋しくて、寂しくて、苦しくて……気が狂いそう。

 ──ねえ、キエト。私、ずっと待ってるのよ。

 もう一度、キエトが私を起こして、おはようと言ってくれるのを。

 あなたの腕に、ギュッと抱き締められる幸せな瞬間を。

 ニコニコ笑って、愛していると言ってくれる至福を。

 しんしんと、埃が降り積もるだけ。誰も訪れることのない、この場所で。

 ただひたすら、待っているの……。


         ∮ 


 たぶん、生まれた時からずっと、僕の心には誰かが住んでいる。

 一度も会ったことがないはずなのに。僕はその誰かに会いたくて、会いたくて、たまらなかった。

『……キエト。これが、鍵だ。お前なら、何も言わなくともわかるはずだ』

 すっかり年老いた僕のオリジナルから渡された、小さな鍵。

 手のひらに乗せた瞬間、僕の心も体もブルッと震えた。

 昔からずっと、これが欲しかったんだ。これが欲しくて、たまらなかったんだ。

 受け取ってすぐに、僕は夢中で駆け出した。

 急がないと、どこかへ消えてしまうかも。なんて、絶対にあり得ないことを考えて。

 海の見える丘に立つ、小さな家。この家には、玄関と着替えを置く部屋、それから彼女の部屋があるだけ。

 来たことなんてないのに、僕はこの家の構造が完璧にわかっている。

 鍵を開けるのももどかしくて、何度も開け損ねた。

 飛び込んだ彼女の部屋は、真っ白な絨毯と、巨大な鳥カゴ。小さな本棚があるだけの、思い描いていたとおりの部屋だった。

 部屋のほぼ中心にある鳥カゴに、もたれて眠っている小さな女の子。

 大昔に、最初の『僕』(オリジナル)が彼女を作った。鍵を持つ者だけを、ひたすら愛するよう設定さ(プログラム)れた、機械仕掛け(オートマティック)のお姫様。

 僕の、恋人。

「アマンテ……会いたかったよ」

 早速、彼女の背中のネジを回す。

 キリ。キリ。キリリ。

 キリリリ、と音が上がったら、巻ききった合図。手を放すと、歯車がかみ合い始める。

 ゆっくりと、彼女は目を開けた。

「初めまして、アマンテ。僕はキエトだよ」

 鳥カゴにゴン、と頭をぶつけた彼女は、パッと笑う。

 今すぐ、彼女を抱き締めたい。

 そんな衝動が我慢できなくて、僕は急いでカゴを開ける。出てくるのを待てずに、僕がカゴの中へ入って。


 愛しているよ、アマンテ。

 君は僕の、僕だけのものだ。他の誰にも……たとえ、僕のコピーでも、渡さない。

 コピーを作ると、君は僕を忘れてしまう。僕のコピーを、必ず愛してしまうから。

 だから僕は、コピーを作らずに、君のそばに居続けた。

 時の止まったこの場所で、体が耐えきれずに朽ちてしまうまで。



 これでもう、君は僕を忘れられない。

 君は永遠に、僕だけのもの。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ