カゴの鳥
キリ。キリ。キリリ。
もうすっかり、耳になじんだ音。この音が終わると、私はやっと目を開けられる。
キリ。キリリ。
ゆっくりと、のんびりと。焦らすように、音はまだ続いていく。
キリリリ。
一段音が高くなって、カシャン、と鳴る。
後に続くのは、無音。
「さあ、朝だよ。おはよう、僕の小さな姫君」
大好きな、大好きな声が聞こえる。その声に誘われて、私はゆるゆると目を開けた。
まず目に入るのは、木の枝でできた、大きな鳥カゴ。私はこのカゴの中にいる。カゴの出入り口はひとつだけ。鍵は外からかかるけど、中からは開けることができない仕組みなんですって。
足下は、木の板や土の地面じゃなくて、フカフカでフワフワした白い絨毯。寝転がると、気持ちよくてすぐ眠くなっちゃう。
鳥カゴが邪魔する向こう側に、大好きな人。
お日様の光を浴びると、キラキラ光る金色の髪も。いつも穏やかに微笑んでいる、緑色の瞳も。両端が優しく持ち上がっている、薄めの唇も。
何もかも大好き。
「おはよう、ショラール」
ニコニコ笑みを浮かべて、彼をジッと見つめる。ちょこんと首を傾げて、可愛らしく朝の挨拶。
これだけでも、ショラールはすごく喜んでくれる。
「ああ、アマンテ。今日も君は愛らしいね」
ほらね。
あんなふうに、ちょっと締まりのない顔をするショラールも、やっぱり好きよ。
「さあ、出ておいで」
ヨロヨロと、私は動きの悪い体で立ち上がる。一歩踏み出すにも、かなり苦労させられる、不自由で役立たずで重たい体。
でも、ショラールが「好きだよ」「愛しているよ」と言ってくれるから、私はこの体が嫌いじゃない。
巨大な鳥カゴの出入り口から、のそのそと外へ出る。
頭を下げなくても、当たるわけじゃないけど。何となく、いつも頭を下げてしまう。
「今日は何をしようか」
「騎士様のお話を読んで欲しいわ」
「アマンテは、本当にあの物語が好きだね。じゃあ、今日はアマンテが満足するまで、物語を読もうか」
「ありがとう! 大好きよ、ショラール!」
ヨタヨタしながら、私はショラールの首に腕を回してギュッと抱きつく。そうすると、私が持て余す重たい体を、いつもショラールは軽々と抱き上げてくれるの。
「ふふっ、ずいぶん甘えん坊の姫君だね」
笑うショラールは、私の額にひとつ、右の頬にひとつ、左の頬にひとつ。そっと触れるだけのキスを落としてくれる。
くすぐったくて、私は身をよじって逃げようとするけど、ショラールは絶対に逃がしてくれない。逃げようとした分だけ、またキスがどこかに降ってくるの。
「さあ、僕の小さな姫君。君の好きな騎士様の物語を読もうか」
ショラールは、書棚の前に連れていってくれる。必要な本を取り出した後、膝に乗せて読み聞かせてくれるのよ。
優しく響くショラールの声は、いつも私を眠りに誘うの。
眠っちゃったら、物語はおしまい。また今度になっちゃうから、一生懸命目を開けていようとするんだけど。
今日も、気がついたらカゴの中。悔しいけど、眠っちゃったみたい。
真っ暗になって、人の気配のない部屋で。私はカゴの中から窓を見る。
黒い空には、キラキラした小さな光がいっぱい。遠くにザアザアと波の音が聞こえて、風が時々、申し訳なさそうに窓をコトコト叩くだけ。
星空を眺めながら、私はぼんやりと、ショラールと初めて会った日を思い出していた。
その頃は、もうずっと、目覚めの音を聞いていなかった。
ずいぶんと、深い眠りについていたみたい。私は、カシャン、という音がするまで、人がいることに全然気がついていなくて。
「初めまして、アマンテ! 僕はショラールだよ」
大きな緑の瞳を、髪と同じくらいキラキラさせて。ショラールは、私の後ろでニコニコ笑っていた。
「初めまして、ショラール」
首を大きく後ろに傾けて、カゴにゴン、と頭をぶつけながら、ショラールに挨拶する。
「そのドレス、アマンテによく似合ってるよ。今度は、もっとレースがいっぱいついた、ふわふわのドレスにしようね。それに、亜麻色のクルクルした髪も、ブルーグリーンの大きな瞳も、何もかも綺麗だよ」
まだ小さな子供なのに、いっぱしの口を利くなんて。
可愛らしさとくすぐったさで、私はなぜか曖昧に微笑んだ。
この子は、どうなるのかしら?
ショラールの前に会った青年を、ふと思い出して。私は、ほんの少しだけ悲しくなった。それから、漠然と不安を覚える。
きっと、ショラールもいつか、私を置いてどこかに行ってしまう。
金の髪と、緑の瞳。顔立ちはあまり似ていないけれど、雰囲気がそっくりな、かつての彼のように。
ショラールとは、積み木をしたり、絵本を読んだり、お絵かきをしたり。大きくなってくると、ボードゲームや読書、単なるおしゃべりもするようになった。
何をしても、どんなことを話しても。ショラールと一緒なら、全部楽しくて。時間が経つのも、うっかり忘れてしまいそうだったけど。
初めて会った日から、もうすぐ十年。
もう、顔も名前も思い出せない恋しい人が、私の前からいなくなった。その頃の恋しい人とショラールが、もうすぐ同じくらいの年齢になる。
ショラールも、私の前からいなくなるのかしら? それとも、ずっとずっと、そばにいてくれるの?
わからない。わからない。
明日、思い切って問いかけたら……ショラールは、ちゃんと答えてくれるかしら?
キリ。キリ。キリリ。
いつもと変わらない音がする。
もうすっかり耳になじんだ、私が目覚めるための音。
キリリリ。
音がヒュッと一段高くなってから。カシャン、と、不思議な音がする。
「おはよう、アマンテ。愛しい僕の姫君」
にこやかに笑って、こう言ってくれるショラールだけど。
「おはよう、ショラール。ねえ、ショラール。ショラールは、いつまで私のそばにいてくれるの?」
よっぽど驚いたのかしら。ショラールは目を大きくして、息を止めたわ。
「……君が、僕を好きだと言ってくれるうちは、ずっとそばにいるよ」
「本当に? ショラール、大好きよ!」
「アマンテ……君を誰よりも、愛しているよ。僕の心は、君と初めて会った時からずっと、変わらない」
できるだけ急いでカゴから飛び出して、私はショラールにギュッと抱きついた。ショラールも、ギュッと抱き締め返してくれる。
「君をここから連れ出して、ずっと僕のそばに置けたらいいのに……」
同じような台詞を、もう何度も聞いている気がして。囁かれた吐息混じりの言葉は、私の耳をスルッと通り抜けた。
「ねえ、アマンテ……どんなことがあっても、僕は君を、君だけを、愛しているよ」
「私も、ショラールが大好きよ」
囁き返すと、強く強く、壊れそうなくらいギュッと抱き締めてくれる。
体のあちこちで、キシキシと何かがきしむ音が聞こえて。
──このまま、壊れてしまったらいいのに。
私は、そんなふうに考える。
そっとショラールの背中に腕を回す。昔は簡単に手が触れたのに、今はもう、指先すら触れられない。
あまり変わらなかった昔と違って、今のショラールは、私よりうんと背が高いの。体の幅も、手の大きさも、全然違う。
きっと、ショラールは大人になりつつあるのね。
大人になったら、現実を知るわ。厳しくて、時にはやりきれない現実を。そうして、私のところには来なくなる。
でも、それでいいの。それで、いいはずだから。
∮
目覚めの音はしない。でも、私は目を開ける。だけど、やっぱり体は動かない。
視界の端に映る窓の外は、どんよりした重い雲が広がっていて。ザアザアと、激しい雨が木々や地面を叩く音がした。
目だけで下を向けば、ドレスが見える。部屋の中も、少しだけ見回せる。
ドレスは、汚れて色あせてきたわ。真っ白だったレースが、ちょっと茶色くなってる。真っ白なはずの絨毯も、何だか薄汚い。
部屋の中も、湿っぽくてかび臭いの。
鳥カゴの枠が、ない場所がある。よく見たら、絨毯の上に、大小さまざまな木片がいっぱい散らばってる。
あれから、どれくらい、ショラールは来ていないのかしら。
私はぼんやりと、目を閉じる。
次に目が開いた時は、窓の外は明るかった。真っ青で、雲ひとつない空が、どこまでも広がっていて。
かすかな、波の音がした。
『アマンテ、愛しているよ』
ショラールの、声が聞こえる。
『君は僕の、僕だけの、愛しい小さな姫君』
気のせい。気のせいよ。
耳をふさぎたいのに、腕は上がらない。
『君を、君だけを、僕は愛し続けるよ』
嘘つき。嘘つき、嘘つき!
『僕が死ぬまで永遠に、君を僕のそばに置けたらいいのに……』
だったら、連れていって。
言葉だけじゃなくて、そうしてよ!
『ああ、君を僕の屋敷に閉じ込めたいよ。綺麗な部屋に、外から鍵をかけて。僕だけが君に会える、特別な部屋を作って』
それは、できないことなの? 私は、ショラールがいつもそばにいてくれたら、それでいいのに。
他の人なんて、いらないわ。
『お願いだよ。僕を、僕だけを、愛していると言って』
そう言ったら、戻ってきてくれる?
もう一度、私を愛していると、言ってくれるの?
『アマンテを愛しているよ。どんなに時が流れても、僕の心は変わらない』
じゃあ、証拠を見せて。
今すぐここに来て、私を愛していると言って。
いつもみたいに、ギュッと抱き締めて。
──ショラール!
叫んだつもりだけど、声は出なかった。
私の体は、目覚めの音を聞いてからじゃないと、指一本動かせない。ため息ひとつ、涙ひと筋、出てこない。瞬きするのも、ただただ億劫で。
不自由で役立たずで、ひたすら重いだけの邪魔な体。
こんな想い、したくなかった!
どうして目が開いてしまったの? いつだって、目覚めの音がした時だけ、私は起きていたのに。
どうして、こんなにはっきりショラールの声が聞こえるの? 今ここに、ショラールはいないのに。
……どうして、私はショラールに会いたいの? 会って、ギュッと抱き締めて欲しいのは、どうして?
答えのない疑問ばかり。まるで泡のように浮かんでは、パッとはじけて消える。消えたと思ったら、またフワフワと浮かんでくる。
ねえ、ショラール。私は、ショラールのお願いだったら、どんなことでも叶えるわ。たとえ私が、二度と動けなくなっても……。
だから、私をちゃんと目覚めさせて。もう一度、私の名前を呼んで。ショラールの名前を呼ばせて。
愛していると、囁いて欲しいの。
もし、もう一度がないのなら。
心だけ、ここに置いていかないで。私の記憶に、ショラールを残さないで。空にも、風にも、波にも。私を愛していると、絶対に伝えないで。
動かない体を抱えて、ショラールを想って。あなたが心に生き続けることが、壊れるよりも寂しくて苦しいの。
ただ寂しくて苦しいだけの時間は、もう、過ごしたくないわ。
∮
キリ。キリ。キリリ。
懐かしい音がする。
キリリリ。
それまでより一段、音が高くなって。
カシャン、と何かがはまったような、不思議な音が響く。
私はゆるゆると目を開ける。ゆっくり、何度か瞬きをしてみた。
しっかりした、巨大な鳥カゴ。真っ白な絨毯。私の着ているドレスは、真っ白なレースがたっぷりついた新品で、淡くて可愛らしいピンク色。
「…………」
私は、誰かの名前を呼ぼうとした。でも、声は出てこない。言いたいはずの言葉も、頭にちっとも思い浮かばなくて。
「初めまして、アマンテ」
後ろから聞こえた声に、私は首を大きく反らせる。頭がゴン、と鳥カゴの枠に当たったけれど、そんなことは気にしない。
「僕はキエトだよ」
「初めまして、キエト」
私はニッコリ微笑んで、キエトを見上げながら挨拶をする。
キラキラ光る金色の髪に、勝るとも劣らない、キラキラ輝く緑色の瞳。
何だか、とっても懐かしい気がする。
ああ、きっと、私が大好きだったあの人に、何となく似ているからなのね。
「アマンテは綺麗だね。ねえ、ずっとずっと、僕のそばにいてくれる?」
この子もやっぱり、今までと変わらないのかしら?
それとも、今度こそ、違うの?
「キエトが望むなら、私はずっと、そばにいるわ」
「約束だよ? 君は僕と、ずっとずっと一緒だからね?」
今度の『約束』は、いつまで続くのだろう。
そんな疑問を覚えながら、私は素直にこくんと頷く。
「僕は君を、絶対に手放さないからね?」
キエトは確かに微笑んだのに。なぜだか、体が勝手に震えてしまうくらい、彼の笑顔は怖かった。
月日の流れは本当に速いもの。キエトと初めて会った日から、もうすぐ十年。キエトはすっかり、大人の装いがよく似合うようになってきた。
昔の約束なんて忘れてしまって、キエトはいつか、ここへは来なくなるだろう。
「ねえ、キエト。キエトはいつまで、私のそばにいてくれるの?」
こんなこと、聞かなければいいのに。
そう思いながらも、私は何気なく問いかける。
キエトの顔色が、スッと悪くなった。だけど、すぐにいつもどおり。
「僕が望むなら、ずっとそばにいるって言ったよね? だから僕は、君のそばにいるよ。ずっとずっとそばにいて、君を絶対に手放さない。たとえ、どんな邪魔が入っても」
ニッコリ微笑むキエトは、昔と変わらず、怖い。
「ねえ、アマンテ。今夜は、ここで一緒に寝ようよ。君が眠るまで、僕はちゃんと手をつないでるから。それで、明日の朝、僕は一番におはようを言うよ」
「え……」
ここで寝る、なんて。
この部屋はベッドもないのに。私は、この鳥カゴにもたれて眠るのに。
第一、この鳥カゴは、今のキエトじゃ、真っ直ぐ体を伸ばして寝られないわ。
「大丈夫。君が僕に、ここにいて、って思っててくれるなら、僕はどんなことでも耐えてみせるよ」
キエトは絶対に、私をギュッと抱き締めてはくれない。代わりに、私の両手をキエトの両手で、ギュッと包み込んでくれる。
くすぐったいキスも、してくれない。でも、いつも唇同士をしっかり重ねてくれる。
それから、キエトは「愛してる」も言ってくれない。言ってくれないけど、私はキエトが好き。大好き。
いつもそばにいて、ずっと一緒にいたい。そう願うくらい、大好き。
「だからアマンテ。僕を愛していると言って」
「……キエトを、愛してるわ」
そっと呟いたとたん、頬がふわっと熱を帯びる。
「僕も、アマンテを、誰よりも愛しているよ。君以外の何もかもを、捨ててもいい」
囁き返されて、全身がカッと熱くなった。
真っ白な絨毯をたくさん重ねた場所を、ゆっくり歩いているような気分。何だかフワフワして、足を取られて転びそうだわ。
何もしていないのに、バラバラに壊れてしまいそう。
鳥カゴに二人で並んで、窓の景色を眺めている。青かった空は、だんだん黄色っぽくなってきて、今度は燃えるような赤。
赤色が怖くて、私はキエトの腕にギュッとつかまる。そうしたら、キエトに腕をほどかれて、ギュッと抱き締められていた。
「アマンテは、夕焼けが怖い? ああ、だから、いつも早く寝ちゃってたのかな? これからは大丈夫だよ、僕がそばにいるからね」
体が変なふうにドキドキして、窓を見る余裕なんてなくて。気がついたら、外は暗くなっていた。
「暗くなったね。もう、寝ようか」
促されて、私はいつもの場所に行く。鳥カゴの枠にもたれてしゃがんで、足を伸ばして座る。腕は、自然に床へ下ろす。
私の右側に、キエトがやってきた。横向きにコロンと転がって、両手で私の右手をそっと包み込む。
温かいキエトの手が、あんまり心地よくて。
私はいつの間にか、ぐっすり眠ってしまったみたい。
キリ。キリ。キリリ。
今日もまた、私を目覚めさせる音がする。
キリリリ。
一段上がった音は、不意に消えて。カシャン、と何かがかみ合う音に変わった。
私はゆっくり目を開けて、いつものように、キエトの声を待っている。
「……キエト?」
声が、しない。
いつもは真っ先に、少ししゃがれた声で「おはよう、アマンテ」って、笑顔で優しく呼びかけてくれるのに。
「キエト?」
ヨロヨロと立ち上がって、鳥カゴの周りを見回してみる。
部屋の中にも、鳥カゴの中にも。
どこにも、キエトの姿がない。
太陽みたいにキラキラした金色の髪も、綺麗な緑色の瞳も。
どこにも、見当たらない。
「ねえ、キエト。どこ?」
ちょっと意地悪なキエトだから、隠れているのかも? でも、この部屋に、隠れられる場所なんてない。
じゃあ、部屋の外? だけど、私は外に出たことがない。この部屋しか知らないから、一人で外に出るのは怖い。無理。
「ねえ、キエト! どこにいるの!?」
精一杯声を張り上げるけど、キエトからの返事はない。
昨夜も、手をつないで寝たのに。
まだ、私の手に、キエトの手の感触が残ってるのに。
キエトだけが、どこにもいない。キエトだけが、消えてしまった。
「キエト!」
もう一度、キエトに会えるなら。役立たずで重たいこの体が、バラバラになって壊れてもかまわない。
絶対に、後悔しない。
だから私は、全身を使って、キエトの名前を呼ぶ。
「キエト──っ!」
鳥カゴから這い出て、私は真っ白な絨毯に突っ伏して。キエトの名前を叫びながら、ただひたすら、キエトを待っていた。
いつもよりうんと長く一緒にいたけど、きっともう、キエトは来ない。
∮
私は、真っ白だった絨毯に、うつぶせたまま転がっている。重くて役立たずの体は、指一本動かせない。
静かな波の音が聞こえる。風が、窓を叩いていく。
でも、キエトは来ない。
時々、ふと目を開けるたびに、キエトを思い出す。思い出すと、キエトの声が聞こえる。
『僕は君とずっと一緒だよ。絶対に、手放さないからね』
『僕がそばにいるよ』
『もう夜だよ。そろそろ寝ようか。ほら、手を出して?』
『ねえ、アマンテ。僕を愛していると言って』
まるで、すぐそこにいるような。どこまでも穏やかで、近い囁き。
会いたくて、恋しくて、寂しくて、苦しくて……気が狂いそう。
──ねえ、キエト。私、ずっと待ってるのよ。
もう一度、キエトが私を起こして、おはようと言ってくれるのを。
あなたの腕に、ギュッと抱き締められる幸せな瞬間を。
ニコニコ笑って、愛していると言ってくれる至福を。
しんしんと、埃が降り積もるだけ。誰も訪れることのない、この場所で。
ただひたすら、待っているの……。
∮
たぶん、生まれた時からずっと、僕の心には誰かが住んでいる。
一度も会ったことがないはずなのに。僕はその誰かに会いたくて、会いたくて、たまらなかった。
『……キエト。これが、鍵だ。お前なら、何も言わなくともわかるはずだ』
すっかり年老いた僕のオリジナルから渡された、小さな鍵。
手のひらに乗せた瞬間、僕の心も体もブルッと震えた。
昔からずっと、これが欲しかったんだ。これが欲しくて、たまらなかったんだ。
受け取ってすぐに、僕は夢中で駆け出した。
急がないと、どこかへ消えてしまうかも。なんて、絶対にあり得ないことを考えて。
海の見える丘に立つ、小さな家。この家には、玄関と着替えを置く部屋、それから彼女の部屋があるだけ。
来たことなんてないのに、僕はこの家の構造が完璧にわかっている。
鍵を開けるのももどかしくて、何度も開け損ねた。
飛び込んだ彼女の部屋は、真っ白な絨毯と、巨大な鳥カゴ。小さな本棚があるだけの、思い描いていたとおりの部屋だった。
部屋のほぼ中心にある鳥カゴに、もたれて眠っている小さな女の子。
大昔に、最初の『僕』(オリジナル)が彼女を作った。鍵を持つ者だけを、ひたすら愛するよう設定さ(プログラム)れた、機械仕掛け(オートマティック)のお姫様。
僕の、恋人。
「アマンテ……会いたかったよ」
早速、彼女の背中のネジを回す。
キリ。キリ。キリリ。
キリリリ、と音が上がったら、巻ききった合図。手を放すと、歯車がかみ合い始める。
ゆっくりと、彼女は目を開けた。
「初めまして、アマンテ。僕はキエトだよ」
鳥カゴにゴン、と頭をぶつけた彼女は、パッと笑う。
今すぐ、彼女を抱き締めたい。
そんな衝動が我慢できなくて、僕は急いでカゴを開ける。出てくるのを待てずに、僕がカゴの中へ入って。
愛しているよ、アマンテ。
君は僕の、僕だけのものだ。他の誰にも……たとえ、僕のコピーでも、渡さない。
コピーを作ると、君は僕を忘れてしまう。僕のコピーを、必ず愛してしまうから。
だから僕は、コピーを作らずに、君のそばに居続けた。
時の止まったこの場所で、体が耐えきれずに朽ちてしまうまで。
これでもう、君は僕を忘れられない。
君は永遠に、僕だけのもの。