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濡れた米

最後に見たのは、崩れてくる荷物だった。


     *


「その便、まだ出さないでください!」


 夜十一時過ぎ。


 台風の影響で道路が止まり、物流倉庫には行き場を失った荷物が積み上がっていた。


「明日の朝までに届けるんだろ?」


「だからです。今出しても途中で止まります。冷蔵品だけ別便を探します」


 俺は食品会社で物流の調整をしていた。


 荷物が届けば、誰にも気づかれない。


 届かなければ怒られる。


 道路が止まろうが、車が足りなかろうが、人と荷物をどうにか動かす。


 そういう仕事だった。


「一台なら出せるそうです!」


「よし。冷蔵から積み替えて――」


 その時だった。


 倉庫の奥で、積み荷が大きく傾いた。


「危ない!」


 若い作業員が逃げ遅れていた。


 反射的にその腕を掴み、外へ押し出す。


 直後。


 足元が滑った。


 頭上に大きな影が落ちる。


 ああ。


 これは駄目だ。


 そう思ったところで、意識が途切れた。


     *


 次に目を開けると、知らない女が泣いていた。


「元気な男の子じゃ」


 知らない男の声も聞こえる。


 身体を動かそうとして――俺は固まった。


 手が、小さい。


「……」


「おぎゃあ!」


 声まで赤ん坊だった。


 意味が分からなかった。


 だが、その意味を理解する時間だけは嫌というほどあった。


     *


 それから十二年。


 俺はようやく、この状況を受け入れていた。


 ここは日本。


 ただし、俺が知っている日本ではない。


 電気もなければ、車もない。


 水道もない。


 人は着物を着て、腰には刀を差している。


 そして今年は天文(てんぶん)十九年。


 西暦にすれば、一五五〇年。


 場所は紀伊国(きいのくに)。


 十ヶ郷(じっかごう)、平井(ひらい)の舘


 そして俺の名は――


「孫一!」


 庭の向こうから父の声が飛んできた。


「聞こえておるぞ!」


「今行きます!」


 返事をしながら、小さく息を吐く。


 そう。


 俺の名前は、鈴木孫一(すずきまごいち)。


 紀伊。


 雑賀(さいか)。


 根来(ねごろ)。


 紀ノ川(きのかわ)。


 そこまで揃えば、さすがに偶然では済まない。


 どうやら俺は、戦国時代の雑賀孫一として生きることになったらしい。


 ただ、一つ大きな問題がある。


 俺は歴史学者ではない。


 前世では歴史が好きだった。


 戦国ものの本も読んだし、ゲームもやった。


 だが、雑賀孫一について覚えていることは恐ろしく曖昧だ。


 重秀(しげひで)だったか。


 重朝(しげとも)だったか。


 そもそも同一人物だったのか。


「雑賀孫一」と呼ばれた人物が何人もいた、なんて話まで読んだ気がする。


 確実に覚えているのは、


 雑賀衆(さいかしゅう)。


 鉄砲。


 本願寺(ほんがんじ)。


 織田信長


 そして最後には――豊臣秀吉


 紀州征伐


 根来。


 太田城


 水攻め。


 紀州は、やがて巨大な軍勢に攻め込まれる。


 何年だったか。


 誰がどこで何をしたのか。


 そんな細かいところまでは覚えていない。


 未来年表を丸暗記して転生したわけではないのだ。


 それでも、一つだけ分かる。


 このままでは、ろくな未来にならない。


 だから、何かをしなければならない。


 そう思っている。


 思っているのだが。


「孫一」


 背後から低い声がした。


 ゆっくり振り返る。


 父が立っていた。


 腕を組み、こちらをじっと見ている。


「何をしておる」


「何、と言われましても」


「蔵の戸に手を掛けて、何をしておる」


 自分の右手を見る。


 しっかり蔵の戸を掴んでいた。


「……確認を」


「何の確認じゃ」


「鍵が掛かっているかどうかを」


「掛けたのはわしじゃ」


「よく掛かっております」


「開けようとしたな?」


「少しだけ」


 父が額を押さえた。


「何をするつもりだった」


「米を借りようかと」


「誰に」


「昨日、浜に来ていた船の者たちです」


 父の表情から、呆れが消えた。


「話せ」


     *


 前の日。


 紀ノ川近くの荷揚げ場で揉め事が起きていた。


「全部そっちで引き取れ!」


「冗談じゃない!」


 船頭と荷主が怒鳴り合っている。


 原因は、米だった。


 船で運んできた俵の一部が雨にやられたらしい。


 縄までぐっしょり濡れている。


「こっちは銭を払っておるんじゃ!」


「荒れた中をここまで運んできたのは誰じゃ!」


「濡らしておいて威張るな!」


「なら自分で運べ!」


 俺は、そのやり取りを聞きながら妙な懐かしさを感じていた。


 時代が変わっても、物流事故の後に始まる話はあまり変わらないらしい。


 誰が悪い。


 誰が払う。


 誰の責任だ。


 もちろん大事な話だ。


 ただ、そればかりやっていると荷物そのものが駄目になる。


 俺は濡れた俵を見た。


「それ、先に開けた方がいいんじゃないか」


 つい口を挟んだ。


 二人が揃ってこちらを見る。


「何じゃ、鈴木の童(わらべ)」


「中まで濡れていたら腐るぞ」


「そんなことは分かっとる!」


 船頭が怒鳴る。


「なら開ければいい」


「勝手に開けてみろ。中身を抜いたと言われるわ」


 なるほど。


 俺は荷主を見る。


「じゃあ二人で開ければいい」


「子供は黙っておれ」


 一蹴された。


「だが――」


「孫一」


 一緒に来ていた男に肩を掴まれる。


「鈴木の名で余計な揉め事を増やすな」


 結局、その日は何もできなかった。


 帰り際。


 船頭は一人で濡れた俵を見ていた。


 少し離れたところには、荷主もいる。


 怒鳴り合っていたくせに、どちらも帰らない。


 当たり前だ。


 腐れば、困るのは二人とも同じなのだから。


 ただ。


 どちらが先に動くのか。


 誰が銭を出すのか。


 そこが決まっていない。


 だから米だけが、濡れたまま残されている。


 前世でも、似た話はいくらでもあった。


     *


「それで、うちの米を勝手に持っていこうとしたのか」


 父が言った。


「勝手には持っていきません」


「蔵を勝手に開けようとした者が言うな」


 正論だった。


「米を干す人を集めたいんです」


「誰を使う」


「村の者を」


「皆、暇なのか」


「……忙しいです」


「田仕事は?」


「あります」


「漁に出る者もおる」


「はい」


「網を繕う者も、薪を割る者もおる」


「……はい」


 言葉が詰まる。


 父は蔵の戸を軽く叩いた。


「それとな」


「はい」


「この米も、全部がうちの物ではない」


「え?」


「預かっておる米がある。貸す約束をした米もある。秋に返さねばならぬ分もある」


 その言葉が、胸に刺さった。


 考えてみれば当たり前だった。


 前世だってそうだ。


 倉庫に荷物がある。


 だから使っていい。


 そんなことが許されるわけがない。


 預かっている商品。


 予約済みの商品。


 行き先の決まった在庫。


 同じ倉庫に置かれていても、全部扱いは違う。


 そんなことを、俺は何年も仕事でやってきたはずだった。


「孫一」


「はい」


「何をしたい」


「濡れた米を助けたいです」


「なぜ」


「腐らせるのは勿体ないから」


「それだけか」


「船頭も荷主も困るでしょう」


「そのために、うちが損をしてよいのか」


「駄目です」


「なら、考え直せ」


 腹が立った。


 父にではない。


 自分にだ。


 未来を知っている。


 現代人の知識がある。


 どこかで、それだけで何とかできる気になっていた。


 だが俺が持っているのは、便利な道具の作り方でも、画期的な兵器の設計図でもない。


 人と物を、どう動かすか。


 前世で身につけたのは、それくらいだ。


 その「それくらい」すら、今の俺はまともに使えていない。


「父上」


「何じゃ」


「浜へ行ってきます」


「何をしに」


「頼まれてきます」


 父の眉が上がる。


「誰に」


「船頭と荷主の両方にです」


 しばらく父は黙っていた。


 やがて、顎で門を示す。


「行ってこい」


「はい」


「ただし」


 背を向けた俺に声が飛ぶ。


「鈴木の名を勝手に使うなよ」


「分かりました」


「本当に分かっておるか?」


「たぶん」


「そこは分かったと言え」


     *


 船頭は俺を見るなり、顔をしかめた。


「また来たのか」


「昨日は悪かった」


「何がじゃ」


「知らないくせに口を出した」


「……」


 船頭の眉が少し動く。


「それで?」


「教えてほしい」


「何を」


「濡れた米をどうすればいい」


 船頭は俺を見て、それから俵へ目を向けた。


「まず開ける」


「うん」


「乾いたところと濡れたところを分ける」


「うん」


「使える物は筵(むしろ)に広げる。臭いが出た物は混ぜるな」


「全部助かる?」


「無理じゃ」


 即答だった。


「昨日なら?」


「今日よりは助かった」


 それも即答だった。


 胸が重くなる。


 正しい方法が分かっていても、一日遅れれば駄目になるものがある。


「人を集めたい」


「好きにせい」


「銭がいる」


「わしに出せと?」


「半分」


「残りは」


「荷主」


 船頭が吹き出した。


「向こうが出すと言ったのか」


「これから聞く」


「お前な……」


「嫌ならいい」


「誰が嫌と言った」


 船頭の口元が少し緩んだ。


「向こうから半分取れたら、わしも出す」


「分かった」


「取れたら、じゃぞ」


「取ってくる」


「鈴木の童」


「何?」


「変な奴じゃな」


「よく言われる」


 前世を含めても、初めて言われた気がする。


     *


「なぜこっちが銭を出す!」


 荷主との話は、予想通り難航した。


「船が濡らしたんじゃぞ!」


「なら、船頭だけに払わせればいい」


「そう言っておる!」


「話がまとまるのはいつ?」


「何?」


「今日? 明日?」


 荷主が黙る。


「決まるまで待ったら、米はもっと腐る」


「だから船が――」


「誰が悪いか決める話と、今日米を干す話を分けませんか」


 荷主の口が止まった。


「今日必要な人足代だけ、半分ずつ出す」


「なぜ半分じゃ」


「全部腐るより、二人とも損は少ないでしょう」


「米そのものの損はどうする」


「それは後で決めればいい」


「そんな都合のいい話があるか」


「じゃあ、全部腐ってから決めます?」


 言った瞬間、しまったと思った。


 少し強すぎた。


 荷主の眉間に皺が寄る。


「お前」


「すみません」


「……」


「でも、今日やらないと駄目なのは本当です」


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて荷主が言う。


「立ち会いは」


「え?」


「後になって、どちらかが数をごまかしたと言い出したらどうする」


 そこまで考えていなかった。


 少し考える。


「うちの父を呼びます」


「鈴木では船側に肩入れすると言われるぞ」


 当然の指摘だった。


「なら、そちらからも一人出してください」


 また沈黙。


 荷主は、やがて鼻を鳴らした。


「筵はこっちで出す」


「え?」


「人足代は半分じゃ。それ以上は知らん」


 胸が一気に軽くなる。


「分かった」


「お前が分かってどうする!」


「あ」


「船頭を呼んでこい!」


「はい!」


     *


 結局、父も浜へ来た。


 荷主側からも年嵩(としかさ)の男が立ち会う。


 皆が見ている前で、最初の俵を開いた。


 嫌な臭いがした。


 少し酸っぱい。


 船頭の顔が強張る。


 荷主も黙った。


 何俵かは、もう駄目だった。


 完全には救えなかった。


 その現実を目の前にすると、思っていた以上に堪えた。


 どこかで。


 話さえまとめれば、全部何とかなる。


 そんなふうに思っていたのかもしれない。


 だが、世の中はそんなに都合よくできていない。


「孫一!」


 船頭の声が飛んだ。


「ぼうっとするな! そこの筵を押さえろ!」


「はい!」


 そこからは忙しかった。


 俵を開く。


 濡れた米を分ける。


 筵に広げる。


 筵が足りなくなれば借りに走る。


 人足に水を運び、昼飯を配る。


 十二歳の身体にはきつかった。


 腕が痛い。


 腰も痛い。


 夕方には、足まで重くなっていた。


 それでも。


 浜には何枚もの筵が並んでいた。


 その上には、助かった米が薄く広げられている。


 全部は救えなかった。


 だが、全部を腐らせずには済んだ。


「孫一」


 父に呼ばれた。


「はい」


「今日、何が分かった」


 俺は筵の上の米を見る。


 少し考えてから答えた。


「蔵に米があっても、俺が勝手に使っていいわけじゃない」


 父が頷く。


「そうじゃ」


「人も同じでした」


「ほう」


「飯を出せば働いてくれる、なんて簡単じゃない。皆、自分の仕事がある」


「少しは分かったようじゃな」


「あと……」


「まだあるのか」


「物があって、人がいても、それだけじゃ動かない」


 父がこちらを見る。


「誰の物なのか。誰が使うのか。誰が銭を出すのか。誰が損を引き受けるのか」


 言葉にしながら、自分の中でも整理されていく。


「そこを決めないと、何も動かない」


 父はしばらく何も言わなかった。


 やがて、鼻で笑う。


「十二の童が、随分と偉そうなことを言う」


「駄目ですか」


「いや」


 父が少しだけ口元を緩めた。


「忘れなければな」


「はい」


 俺は再び、米を見る。


 米。


 人。


 船。


 道。


 銭。


 その全部を。


 後になって俺は、何千、何万という単位で動かすことになる。


 そして向こうは、それ以上を動かしてくる。


 織田信長。


 羽柴秀吉(はしばひでよし)。


 そんな名前は、この時の俺にはまだ遠かった。


 今日できたことなんて。


 他人の米を何俵か救った。


 ただ、それだけだった。


     *


 夕飯の後。


 父が一冊の帳面を持ってきた。


「孫一」


「はい」


「読むか」


 思わず目を瞬く。


「いいのですか」


「今日くらいはな」


 灯明(とうみょう)の横へ座る。


 父が帳面を開いた。


 紙には墨で文字がびっしりと書かれていた。


 米。


 銭。


 貸した物。


 借りた物。


 預かり。


 返す日。


 読めない字も多い。


「これは?」


「去年貸した米じゃ」


「これは」


「船代」


「これは?」


「お前、全部聞くつもりか」


「はい」


「夜が明けるぞ」


「では明日も」


「欲張りな童じゃな」


 父が呆れたように頁をめくる。


 その時だった。


 知っている字が目に入った。


 俺の指が止まる。


「父上」


「何じゃ」


「これは?」


 父が帳面を覗き込む。


「ああ」


 そして、何でもないことのように言った。


「土橋(つちばし)じゃ」


 息が止まった。


「……土橋」


「どうした。知っておるだろう」


「名前は」


「この米は、秋に返す約束じゃ」


 父は次の頁をめくろうとする。


「待ってください」


「何じゃ」


 もう一度、その名を見る。


 土橋。


 雑賀。


 鈴木孫一。


 そして――内紛。


 曖昧な歴史の記憶の中でも、その名だけは残っていた。


 いずれ。


 鈴木と争うことになる家。


 たしか、そうだった。


 だが。


 目の前の帳面には、貸した米の数が書かれている。


 父も何でもない顔をしている。


 そうだ。


 今は、敵ではない。


 同じ土地で暮らし。


 米を貸し借りし。


 顔を合わせれば言葉を交わす。


 俺は未来を知っているつもりでいた。


 敵も。


 味方も。


 これから起きる戦も。


 だが、その未来はまだ来ていない。


 今、目の前にいるのは。


 未来の敵ではない。


 秋になれば米を返してくれる相手なのだ。


「孫一?」


 父が怪訝そうに俺を見る。


「どうした」


「……何でもありません」


 俺は灯明の近くへ膝を寄せた。


「父上」


「何じゃ」


「最初から教えてください」


「全部か?」


「全部です」


 父は面倒そうに鼻を鳴らす。


 それでも、帳面を最初の頁へ戻してくれた。


「では、まずここの米からじゃ」


「はい」


 俺は帳面に目を落とした。


 信長も。


 秀吉も。


 石山(いしやま)も。


 雑賀の内乱も。


 まだ遠い。


 土橋だって、まだ敵ではない。


 なら。


 今ならまだ、何かを変えられるかもしれない。


 未来を知っているからではない。


 この土地の人間を。


 物を。


 銭を。


 道を。


 一つずつ知っていけばいい。


 そう思った。


 この時の俺は、まだ知らなかった。


 この小さな帳面に並ぶ名前の一つ一つが。


 やがて味方になり。


 敵になり。


 時には同じ陣で戦い。


 時には銃口を向け合い。


 そして最後には。


 紀州そのものを揺らす戦へと、俺を連れていくことを。

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