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笑っている自分が見えなくなった日、仕事を辞めようと思った

掲載日:2026/05/05

この作品は、仕事を辞めようと思った日の夜のことを書いた短編です。

大きな事件は起きませんが、心が少しだけ傾く瞬間を描いています。


静かな話が好きな方に読んでいただけたら嬉しいです。

仕事を辞めようと思ったのは、

特別な出来事があったからではない。

ただ、ある日ふと、定年を迎えたときに笑っている自分が、

どうしても想像できなかった。

その瞬間、胸の奥で小さな棘のようなものが引っかかった。

すぐに消えたが、あとに残った静けさのほうがはっきりしていた。

続ける理由が、どこにも見当たらなかった。


パソコンの画面を見ながら、指だけが動いていた。

文字は打っているのに、文章として頭に入ってこない。

キーを打つ音だけが、やけに正確に耳に残った。


定時が来て、周りが少しずつ帰り始める。

椅子の脚が床を擦る音が、ひとつずつ離れていく。

僕は座ったまま、その音の数をなんとなく数えていた。


最後の一人になる少し前に立ち上がった。

これ以上残ると、何かが決まってしまいそうだった。

会社を出ると、夜の空気は思っていたよりも薄かった。


駅までの道を歩きながら、スマートフォンを取り出す。

誰かに連絡をするつもりはなかった。

ただ、画面を見ていると、

自分がどこかに繋がっているような気がした。

通知は何も来ていなかった。


電車に乗ると、座席はほとんど埋まっていた。

目の前の人のスーツの皺を見ていると、

そこだけ時間が溜まっているように見えた。

窓に映る自分の顔は、思っていたよりもぼんやりしていた。


家に着く。

部屋の電気をつけると、朝と同じ空気がそこにあった。

何も変わっていないはずなのに、

どこかだけ位置がずれているように感じた。

靴を脱ぎ、上着を椅子にかける。

そのまましばらく動かなかった。


冷蔵庫を開ける。

中には、昨日買った卵と牛乳が入っていた。

作るつもりもないのに、卵のパックを取り出す。


透明なふた越しに並ぶ白い殻。

どれも同じはずなのに、ひとつだけが妙に目についた。

理由はわからなかった。


パックを開けて、そのひとつを手に取る。

思っていたよりも、少しだけ温かかった。

冷蔵庫に入れていたはずなのに、

その温度だけが外に取り残されているようだった。


割ろうと思えば、すぐに割れる。

それでも、しばらくそのまま持っていた。

落としたら終わる——そのことだけが、はっきりしていた。


明日、会社に行くかどうかは、まだ決めていない。

ただ、行かないほうへ、わずかに傾いている。

その傾きは小さいが、一度つくと戻らない種類のものに思えた。


卵をゆっくりとパックに戻す。

さっき目についたそれが、どれだったのかは、もうわからなかった。


冷蔵庫のドアを閉める。

小さな音が、部屋に残る。


その音で、今日が終わったとわかった。

僕はしばらく動かなかった。

動けないのではなく、

どこへ動いても同じ場所に戻ってくる気がしていた。



読んでくださり、ありがとうございました。

大きな出来事は何も起きない夜でしたが、

自分の中で何かが静かに傾いた瞬間を書きました。

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