笑っている自分が見えなくなった日、仕事を辞めようと思った
この作品は、仕事を辞めようと思った日の夜のことを書いた短編です。
大きな事件は起きませんが、心が少しだけ傾く瞬間を描いています。
静かな話が好きな方に読んでいただけたら嬉しいです。
仕事を辞めようと思ったのは、
特別な出来事があったからではない。
ただ、ある日ふと、定年を迎えたときに笑っている自分が、
どうしても想像できなかった。
その瞬間、胸の奥で小さな棘のようなものが引っかかった。
すぐに消えたが、あとに残った静けさのほうがはっきりしていた。
続ける理由が、どこにも見当たらなかった。
パソコンの画面を見ながら、指だけが動いていた。
文字は打っているのに、文章として頭に入ってこない。
キーを打つ音だけが、やけに正確に耳に残った。
定時が来て、周りが少しずつ帰り始める。
椅子の脚が床を擦る音が、ひとつずつ離れていく。
僕は座ったまま、その音の数をなんとなく数えていた。
最後の一人になる少し前に立ち上がった。
これ以上残ると、何かが決まってしまいそうだった。
会社を出ると、夜の空気は思っていたよりも薄かった。
駅までの道を歩きながら、スマートフォンを取り出す。
誰かに連絡をするつもりはなかった。
ただ、画面を見ていると、
自分がどこかに繋がっているような気がした。
通知は何も来ていなかった。
電車に乗ると、座席はほとんど埋まっていた。
目の前の人のスーツの皺を見ていると、
そこだけ時間が溜まっているように見えた。
窓に映る自分の顔は、思っていたよりもぼんやりしていた。
家に着く。
部屋の電気をつけると、朝と同じ空気がそこにあった。
何も変わっていないはずなのに、
どこかだけ位置がずれているように感じた。
靴を脱ぎ、上着を椅子にかける。
そのまましばらく動かなかった。
冷蔵庫を開ける。
中には、昨日買った卵と牛乳が入っていた。
作るつもりもないのに、卵のパックを取り出す。
透明なふた越しに並ぶ白い殻。
どれも同じはずなのに、ひとつだけが妙に目についた。
理由はわからなかった。
パックを開けて、そのひとつを手に取る。
思っていたよりも、少しだけ温かかった。
冷蔵庫に入れていたはずなのに、
その温度だけが外に取り残されているようだった。
割ろうと思えば、すぐに割れる。
それでも、しばらくそのまま持っていた。
落としたら終わる——そのことだけが、はっきりしていた。
明日、会社に行くかどうかは、まだ決めていない。
ただ、行かないほうへ、わずかに傾いている。
その傾きは小さいが、一度つくと戻らない種類のものに思えた。
卵をゆっくりとパックに戻す。
さっき目についたそれが、どれだったのかは、もうわからなかった。
冷蔵庫のドアを閉める。
小さな音が、部屋に残る。
その音で、今日が終わったとわかった。
僕はしばらく動かなかった。
動けないのではなく、
どこへ動いても同じ場所に戻ってくる気がしていた。
読んでくださり、ありがとうございました。
大きな出来事は何も起きない夜でしたが、
自分の中で何かが静かに傾いた瞬間を書きました。




