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短編No.41-60

No.41 夢のつづき

作者: 藤夜 要

 目覚めれば、枕を泪で濡らしていた。慌てて平で拭えば不安げに覗き込む妻と視線が合う。

「大丈夫?」

 妻は少し困った様子でくすりと小さく笑ってそう問うと、いつの間にかぬくもってしまったタオルをしぼって、熱く火照る顔ごと濡れた瞳を拭ってくれた。

「……摩生(まお)の、夢を、見た」

 少し躊躇いを感じたが、正直に前妻の名を口にした。

 現妻はそんな不埒な言葉を咎めることなく、穏やかな瞳で黙って続きを待っていた。

「未練があるわけではないのだが、どうも、熱に侵されると、思い出してしまう」

 すまん、と冷たい妻の手を取り詫びると、彼女は瞳を閉じて小さく首を横に振った。

「私も前の夫との間の子を亡くしたから……普通の奥さんよりは、あなたの気持ちに寄り添えているつもりでいるわ」

 悪い夢を見たの、と妻が言う。泪のわけを聞くのは、決して俗な詮索が理由ではなく。

「弟と摩生さんが巧くいっていない、なんてことの予知夢じゃなければ、私はそれでいいのだけれど」

 妻は、僕が悪夢を見ると怯える。ジンクスを信じて、三日以内に人に話せと、話せない内容ならば、私が聞く、と、いつも僕の夢を気にしていた。

 僕には少し不可解な偶然が重なることがしばしばある。滅多に見ない夢を見た時は、大概その出来事が現実のものとなる。何の法則か知らないが、悪い夢ほど正夢になっていくような気がする。多少夢と実際の出来事に違いが見られることはあるのだが、大筋は夢で見たとおりの最悪の結末になる。摩生との離婚の時も、そうだった。

 その原因となった子供を病で亡くす一ヶ月前、高熱にうなされた僕は、三日続けて娘を亡くす夢を見た。

「決して悪い夢ではないんだが……聞いてもらってもいいだろうか」

 少しばつが悪い気もしないでもないが。

「目を見ては話しにくい、という顔をしているわ」

 機転の働く最愛の妻は、僕の視界を濡れタオルで覆う直前、とびきりの笑顔を見せて、僕に細かいことを気にするなと伝えてくれた。




 夢の中で、僕と摩生は、過去の過ちを繰り返していた。

 まだ幼い娘がインフルエンザを発症し、幼稚園からすぐに迎えに来るよう言われたにも関わらず、互いに仕事を言い訳に、迎えの係を押し付けあった。

『今日はあなたが迎えに行く番の日でしょう。私はこれからお客様を訪問しての会議なのよ』

『お前は母親だろう。俺が迎えに行ったところで、出来ることはせいぜい本当に迎えることだけだ。どうすりゃいいか、なんて解らない。お前が迎えに行くべきだ』

 僕はそう言って一方的に電話を切ってしまったのだ。摩生のように、自分の仕事の仔細を家族に話すなんて愚かなことをしない、というのが当時の僕のポリシーだった。

 その日の僕は、昇進の掛かった物件に関するプレゼンを顧客相手に行う日だった。


 プレゼンは好感触で終わり、上機嫌でオフにしていた個人用の携帯電話を取り出し電源を入れた。別に心配していなかったわけではない。少しでも出世を望むのは、元を辿れば妻や娘に少しでも潤った生活を与えたいという家族愛からだと僕は心の中で豪語した。

 留守番電話が四件。だが、それはアドレス帳に登録してある、娘の通う幼稚園の番号ばかりだった。

『摩生より先生の方がよほど頼りになるな』

 エレベーター脇の窓際の壁に寄りかかり、夕焼け空を眺めながら通話ボタンを親指で押す。最初に摩生からの電話を受けてから、かれこれ四時間は経とうとしていた。

 冬の夕空は、とても赤い。西に半分近く隠れた太陽が、まるで朽ち掛けた線香花火の足掻く光のような朱色を帯びて僕の顔を照りつけた。

「はい、白山幼稚園でございます」

 事務的な応答を確認すると、手早く名を告げ再々の電話の用件を問うた。

『娘がお世話になっております。韮崎百合奈の父ですが。再々お電話をいただき申し訳ありませんでした。会議中だったもので』

 言い終えぬ内に、女性職員は先ほどと打って変わり、口早な金切り声で用件を僕に報告した。

「百合ちゃんのお父さんですか。至急やましな総合病院へ向かってください。今、九里山先生が付き添って病院にいますが、百合ちゃんは、新型のインフルエンザを発症されているそうです。お母さんも三十分ほど前に病院に到着されたんですが、担当医の先生のお話を伺った途端倒れられてしまったそうで、処置室で点滴を受けていらっしゃいます。九里山先生から、承諾書は家族でないと、とのことで再々お電話差し上げていたんですが……あぁ、もうとにかく病院へ向かっていただけますか」

 どちらに関する何の承諾書なのか解らないが、とにかく簡単な礼を述べて電話を切った。

 確かに、脳障害の残る可能性があるインフルエンザは怖いものだが。何をそんなにパニック状態に陥っているのかが、当時の僕には解らなかった。

 ほんの数十分後に辿り着いた病院で、僕はことの重大性を痛感することとなった。

『ワクチンが、ない……?』

 病院へ到着し、付き添ってくれていた九里山と思しき男性保育士への挨拶もそこそこに病棟の受付で名を告げると、すぐにカンファレンス室へ通された。そこで言われたのがその一言と、更に僕を愕然とさせる「親失格」という現実だった。

『百合奈ちゃんの発症は今日ではありません。昨日も幼稚園へ行かせたそうですね。先ほど付き添って来られた担任保育士の先生から聞いたお話によると、昨日もお迎えの電話をしてから半日もあとに迎えに来たのだ、と伺いました。よほど百合奈ちゃんは我慢をしていたのでしょう。搬送された時はすでに意識がなく、今夜が峠かと思われます』

 僕は、摩生が卒倒した理由を、胸の痛みと共に理解した。

 夢の中で、僕はあの苦しみを再び胸を掻きむしりながら追体験する。だがあの時と違うのは、何処かその光景を俯瞰(ふかん)で見ているもう一人の自分がいることだった。




 不意に薄暗い橙の光が僕の目をしばたたかせた。豆電球の光さえ眩さを感じて眉間に皺を寄せさせる。だがそれは本当に一瞬のことで。すぐにひやりと心地よい感触が僕の瞼と額を覆った。

「それであなた、泣いていたの?」

 ちゃぷり、と洗面器の中で氷の入った水が跳ねる音がする。タオルを泳がす音が止まると、再び僕の手はひんやりと心地よい冷気に包まれた。

「いや……そんな自分や摩生や、それに保育士だった君の弟に対しても、何処か滑稽で笑ってしまう気分であの修羅場を眺めていたよ」

 そう、と妻が小さく呟く。その声音は無表情で、どんな思いで僕の話を受け止めているのか、まだよく解らなかった。


 妻より二歳年下の弟は、通う園児の保護者と保育士という間柄でありながら、摩生と男女の関係でもあった。僕は、それに一年以上も気づかずにいた、家庭を顧みない愚鈍な夫というわけだ。

 解ったのは、あの病院の処置室で。僕がカンファレンス室から出て来るのが、彼らの予想よりも早かったらしい。点滴終了のコールが鳴るまで、カーテンで仕切られた処置室に看護師も訪れる心配もないと思っていたのだろう。

 カーテン越しに聞こえて来た声で、僕の手と足はぴたりと止まった。

『摩生さん、ごめん。俺が昨日の内に百合ちゃんを病院に連れて行っていたら』

『ううん、そんなの出来るわけないじゃない。あの子、パパより私に気を遣っていたから、仕事の邪魔をしちゃいけない、って私が頑張らせてしまったのかも知れない』

『本当に、ごめん。保護者面談の時、ご主人にも来てもらうべきだったんだ。百合奈ちゃんが、お父さんのことをどう思っているのか、お父さんを描いた絵を見てもらって、のっぺらぼうな父親であることを担任として伝えて、百合奈ちゃんの心のケアを考えてもらう方法を一緒に考えてもらうべきだったんだ。面談のこと、ご主人に内緒にしていたのは、俺に気を遣ったからなんだろう?』

『……それよりも、私自身が怖かったの。きっと私達のこと、勘付かれると思って……。あと一年なのに、あなたのやっと叶った夢を、こんな理由で奪いたくなんかなかったから』

 何なのだ、こいつらは。百合奈が苦しんでいるこの状況で、何故そんな話をしていられるのだ。僕の耳には、彼らが懺悔の言葉を口にしながら、互いに愛の確認をし合っている様にしか聞こえなかった。

 震える拳がカーテンを開けることはなかった。僕はそっと処置室を出て、娘が病魔と闘っている個室へと足を向けた。

 実は、それからあと、百合奈の四十九日の法要が済んで、摩生から離婚届を突きつけられるまでのことを、僕はあまり覚えていない。発熱の所為で見る夢の中で、今回も同じ光景を俯瞰で眺める僕に、何の感情も湧かなかった。ただ垂れ流される映画を見ているような疎外感を抱きながら、葬儀の席で九里山を殴った場面や、人前で摩生を罵ったことや、自分の惨めさを呪った言葉を吐き出す無様な男を眺めていた。




 まだ娶る前の妻が僕の前に現れたのは、摩生が出て行ってから半年ほど過ぎた長月の雨の夜だった。

『夜分に申し訳ございません。御多忙でお帰りが遅いとお伺いしておりましたので、失礼と思いながらも、お帰りになるのをお待ちしておりました』

 九里山春樹の姉と称して深く頭を垂れて詫びる彼女にも、苛立ちを感じたあの頃の僕は、とても冷たい態度で無言を通し、待ち合わせた自宅近くの喫茶店で、自分の心と同じくらい冷たいグラスの氷を口に含んで噛み砕いた。

『九里山君本人ではなく、何故貴女が私に詫びるのでしょうか』

 もっともな言葉のオブラートに包みながら、僕は彼女に八つ当たりをした。その自覚でくらりと頭が後ろへと引きずられる感覚に陥った。

『私達は、姉一人弟一人で支え合ってここまで生きて来ました。あんな子に育ててしまったのは、姉である私の責任です』

 聞けば六歳年の離れた姉弟だと言う。僕よりも四つも年上とは思えない若々しさと、四つしか変わらないとは思えぬ古風で礼節をわきまえた清楚な立ち居振る舞いが、幾分か僕の気持ちを冷静にさせた。


「あの時僕の許へ謝罪に訪れたのは、春樹君の為に、僕の関心を摩生への憎しみから自分へ向けさせようと思ったからなのかな」

 視線が合わぬことが僕にそう問い掛ける勇気をくれた。あの最悪な出会い以降を、語らずとも妻はもう解っている。逆の僕が妻から答えに窮する問いを返されてしまった。

「そう言うあなたこそ、妻を寝取った男の身内を、どうして部屋へ通してくれたのかしら」

 くすりと笑って、するりとかわす。未だに何処かつかみ所のない妻のそんな不思議な魅力は、あれから四年過ぎた今でも僕を妖しく魅了した。

「……今だから言えますけれど。口では弟と摩生さんを許してやって欲しいと土下座をしながら、心の中ではあなたに共感していたんです」

 妻の言葉が敬語に変わる。ことりと僕の心臓が脈を打つ。不思議なもので、彼女は赤裸々な思いを語るときほど、逆に余所余所しいほどの敬語になる。

「共感?」

「はい。たった一人の弟なのに、私、春樹を初めて憎らしいと思いました」

 ――子供を亡くした姉さんなら、僕らの気持ちを解ってくれるはずだ。

「恋、というのは、時にとても残酷ですね。それの為に、他の人の気持ちが見えなくなってしまう」

 でもそれは、あの子達がまだ若かった所為かしら、と笑う声は寂しげだった。

「娘さんの葬儀の席であなたが春樹にしたこと、春樹や摩生さんから聞きましたの。あの子達は互いが相手を可哀想という気持ちでいっぱいで。あなたがどんな思いで春樹を殴ったのか、摩生さんをなじったのか、全く解っていなかった……心から、思ったんです。そんな育て方をした私の責任だ、と、あなたにお詫びしたかった。許されようとは思っていなかったのですけれどね。両親を事故で亡くして、春樹を社会に送り出すまでと誓って個としての自分を押し殺して来たのに、あなたに何か言わずには、何かせずには、いられませんでした」

 ――私も、娘の死と同時に夫への愛を失くしました。失い過ぎて心が壊れそうなあなたのお気持ちを察し、それが私に償いをしたいと思わせたのです。

 あの時告げた言葉を、妻はもう一度繰り返した。弱味に付け入るように発した僕の卑しい申し出を、あの時妻は無言で受け容れた。

「娘を返して欲しい、という意味を知って、君は僕を軽蔑しているのではないか、とずっと今まで言えなかったんだが……夢の続きを聞いてくれるかい」

 繋いだ手が、彼女のこくりと頷く動作を教えた。冷たかったはずの彼女が僕の熱を吸い取り温まり始めていた。その温もりにも、きゅ、と力がこめられた。




 現実と異なる夢の続き。

「あなた、ごめんなさい。私、自分だけが不幸だと思ってた」

 夢の中で、摩生が僕の許へ帰って来た。その右手には、愛しい百合奈が元気な笑顔を見せて僕を見上げていた。

「ゆ……り……っ」

 夢の中の僕と、俯瞰で眺める僕は、心もすっかりシンクロしていた。仕事にかまけて薄れた愛が、互いに負けないほど持っていた娘への愛情を見い出せないでいただけに過ぎなかったのだ。

『家庭を顧みない父親』

 という摩生の言葉に、僕は最も傷ついていたのだと今更知った。

 同時に彼女の娘への愛にも気づかされた。彼女の求める父親としての娘への愛情と、僕が施していたつもりでいた娘への愛情、その価値の違いが、摩生に誤解をさせていた。そして僕のやり方は、完全に正しいとも言えなかった。

 それを教えてくれたのは、夢の中で膨れた顔をして僕を真っ直ぐ見つめた娘だった。

「パパのきゅう、好き。もう、いっつもきゅうってして欲しいのにっ」

 恥じらいもなく泪が零れる。僕ははかなく消えてしまいそうな娘を逃がすものかと、もう一度懐深く押し込んだ。

「百合奈、パパが悪かったよ。独りよがりだったんだよな。ちゃんと、百合奈のお話を、これからはしっかり聞くからな」

 娘に空気だなんて思われていなかった。その証拠に、僕の大好きなえくぼを惜しみもなく見せて、心からの喜びの笑顔を見せてくれる。

「よかったー。パパ、怒ったらどうしよう、って。ママとね、言ってたんだよ」

 たどたどしい言葉で、百合奈が胸の内を語ってくれる。そして。

「許してくれて、ありがとう」

 と、摩生と口を揃えて礼の言葉を述べた。

「ゆる、す?」

 夢の中で、僕は呆けた顔をして問い返す。百合奈を許すも何も、僕は彼女に許しを乞われるような思いなどさせられていない。

 摩生の言葉については、ひょっとしたら今彼女に対する憎悪の念が、跡形もなく吹き飛んでいる今の僕の顔を見てそう解釈したのだと想像した。

「摩生……僕は、君を許せたことになるのかな。そして僕も、君に許されたと思っていいのだろうか」

 彼女達に「家庭を顧みない」と思わせてしまった、間違った愛情表現という仕打ち。娘への愛情の欠片もなく、若い男に狂った破廉恥で淫乱な薄汚い女という暴言。

「改めて、あなたの許しをもらいに行く決心がついたの。私も、家庭を持っていい?」

 夢と現実が交錯する。妻の弟が妻を通して、謝罪とともに摩生との入籍の許しを乞いに訪れたのを門前で追い払った過去を思い出させられた。

「許すも何も……僕らはもう、他人だ。それに」

 僕の方こそ、すまなかったと詫びた。自分は被害者だと信じ込み、摩生の心を省みることさえ思いつかず、妻を娶って子を成した。改めて、自分勝手な自身を恥じ、夢の中で深々と頭を下げて詫びを告げた。

 娘が僕と摩生の手を取り、かすがいのように二人を繋ぐ。

「よかったぁ。百合奈、いてもいいんだねっ」

 摩生と思わず顔を見合す。僕は、彼女に自然な笑みを零せた自分を誇らしく思え、またそんな自分を少しだけ好きになれた。

 つられたように摩生の唇の端が、少しずつ笑みをかたどっていく。唇の端に、つ、と一筋の雫が伝って行った。

「ありがとう」


 僕の中で、硬くてごろごろと痛んだ塊がころんと音を立てて零れ落ちた気がした。そして僕は夢から覚めた。




「許すことはとても難しいと思っていたが、出来てしまうと、こんなにも心が軽くなるものなんだと思ったら、何だか妙に泣けてしまってね」

 少しだけ、また勇気が必要だった。だが、今を逃すとまた言い損ねてしまうだろう。

「君を妻にしても、すぐに郁夫を授かっても、僕はずっと、君を大事に出来ていないのではないかと不安だった。あんな形で君を手に入れたから、君を縛りつけているのではないかと不安だった。……ずっと、言えなかったんだが……」

 一目で君に心を奪われたのだとわかったのは、随分後になってからなのだ、というのに、かなりの時間を要してしまった。

 握り締めていた彼女の手をようやく僕は解放する。濡れたタオルで目を隠したまま、うわ言のように呟いた。

「本当に愛しているのなら、君を自由にしてあげるべきだと、夢の中で思ったんだ。養育費の心配はしなくていい。四十路になってからの再婚は辛いだろうし、君は、もう自由だと思っていい。……僕を絶望から救ってくれてありがとう」

 言うべきことを伝え終えて、僕は大きく息を吸い、吐いた。目頭に宿った熱いものを優しく吸い取っていく濡れタオルの感触が、不意になくなり驚きで目を見開いた。

「あなたったら……私は既に自由ですよ」

 敬語で妻がそう言って直接僕の瞳を覗き込む。頬が薄紅に染まって見えるのは夕焼け空から差し込んでくる窓からの光が、それを染め上げている所為なのか。

 何もなかったように、彼女は手にしたタオルを再び洗面器の中で泳がせる。ぴちゃりという水音が、乾いた僕の喉と心を潤していくようだった。

「あら、随分ぬるくなってしまったわ。ちょっとお水を取り替えて来ますね」

 洗面器を持って立ち上がると、妻は僕から逃げるようにいそいそと寝室の襖を開けて出て行った。

 開いたままの襖の向こうから、小さな泣き声が聞こえて来た。

「いっくん、起きたの? どぉれ、おむつかなぁ。おなかがペコペコになったのかなぁ」

 甘ったるい妻の声が母の声として漏れ込んで来る。熱はまだ下がっていない、病んだ身体ではあるが、幸せを感じ過ぎて、また目頭が熱くなって来た。

 電話の着信音が居間から聞こえた。

「あらら、いっくん、ちょっとだけ待っていてね」

 慌しげな居間からの声と足跡。ありふれた日常をこんなにも幸せな思いで実感するのは、思えば今日が初めてだった。

「あなた」

 電話の子機を手にして妻が枕元に近づいて来る。子機の通話ボタンは点滅で保留中であることを僕に告げた。

「正夢になるのがよい夢でよかったわ。はい」

 微塵も嫉妬や不安を見せず、妻が子機を僕の手に握らせた。電話の主が誰なのか、妻に告げられずとも彼女の微笑が伝えていた。

「……摩生」

 本人にそう呼び掛けるのは何年ぶりだろう。何度もそう呼び掛けた時期もあったのに、今までの中で、最も穏やかに彼女の名を呼べた気がした。

『お義姉さんから、今話を聞いた。また他の日に掛け直すって言ったんだけど。熱、大丈夫?』

 忘れていた。そうだ、摩生の心配するこんな声を、僕は以前も聞いていた。焼け木杭に火がつく感情はない。ただ感謝の思いが湧いて来る。

「悪寒が消えた。熱は出切ったようだ。大丈夫だよ」

 丁度君の夢を見たんだ、と僕の方から話し出した。摩生もまた知っている。僕の夢にまつわる不思議な偶然。

『そう……何だか、怖いわ。でも、あなたから話してくれた、ってことは、悪い夢ではなかったのね』

 彼女はそう言ってから、僕の返事を待たずに言葉を続けた。

『実はね、私も昨夜、あなたの夢を見たの。百合奈を連れて、あなたのところへ会いに行く夢』

「偶然だな。同じ夢だ。僕も、君が百合奈を連れて会いに来た夢だ」

 奇妙な確信を互いに感じる。夢の話は皆まで語らず、摩生は震える声で僕に告げた。

『春樹に任せてばかりいて、私自身があなたにきちんと謝れなくてごめんなさい。それから』

「もう、いいんだ。全て終わったことだし、僕にも詫びることがたくさんある」

 そう言って摩生が口にしようとしていた数々の過去に対する言葉を遮り、明るい未来を感じさせる一つの予測を口にした。

「子供が出来たんじゃあないのかい。それで改めて僕に許しを、といったところかな」

 暫くの静寂のあと、消え入るような「うん」という声が聞こえた。

「おめでとう。お互いに、今度こそ子供を大事にしよう。先に僕が子宝に恵まれてしまって、申し訳なかった」

 これからは義兄妹になるが宜しく頼むよ、と申し添えると、かつては女として愛しさを感じた子供のような号泣の声が受話器の向こうから聞こえて来た。

 気づけば枕元には、水を替えた洗面器を脇に置いてタオルをしぼりながら微笑んでいる妻がいた。足許を見ればその向こうにある襖がかたかたと動き、小さな息子が伝い歩きでこちらへ入ろうと必死で襖と格闘している様がうかがえた。


 夢のつづきは、夢の中ではなく現実で。

 万感の思いを込めてそれだけ言うと、僕は穏やかな心で子機の「切」ボタンを押した。

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