亡き大叔母のようになれと言われましても
グレイリング侯爵家の嫡男アルヴェスに初めて会った時、エレノアは静かに頷いた。
「私が理想とする淑女は、亡き大伯母上だ」
穏やかな声音で、彼は正面からそう告げた。
「聡明で、慎み深く、決して取り乱さず、屋敷と領地を支えた偉大な人だった。君にも、せめてその半分は目指していただきたい」
「承知いたしましたわ」
レーヴェン子爵家の娘であるエレノアに、異論はなかった。
尊敬する年長者を持つのは良いことだ。
婚約者に理想があるのも、貴族としては珍しい話ではない。
それに、アルヴェスは眉目秀麗で、成績も優秀。家格も申し分ない。少々堅物でも、誠実であれば充分だと、当初のエレノアはそう考えていた。
――最初の三日ほどは。
「歩幅が大きい。大伯母上はもっと静かに歩かれた」
「笑う時に歯を見せるな。大伯母上は上品だった」
「その刺繍の色は軽すぎる。大伯母上なら選ばない」
「本を読む時の姿勢も美しくないな。大伯母上は頁をめくる指先まで優雅だった」
さすがに、エレノアも思った。
(わたくしは婚約者であって、大伯母様の再演役ではないのだけれど)
だが表には出さず、彼女は努力した。
歩き方を直し、笑い方を抑え、色味の落ち着いた衣装を選び、所作の教師にも追加で教えを請うた。
婚約とは、互いに歩み寄るものだと思っていたからだ。
それでも、アルヴェスの口から満足の言葉が出ることはない。
ある日、彼は大切そうに古い箱を持ってきた。
「これは、大伯母上が若い頃に好んだ意匠を元に仕立てさせたドレスだ。次の音楽会で着てくれ」
蓋を開けた瞬間、エレノアは無言になった。
深緑とも灰色ともつかない重たい色。首元まで詰まった襟。胸元も袖口もきっちり閉じられ、華やかさは欠片もない。
流行から二十年は遅れている。若い令嬢が着るには、あまりにも沈んだ一着だった。
「……とても、由緒あるお品なのですね」
「分かるか。さすがだ。大伯母上の気高さを理解できる女性は少ない」
理解したのは、気高さではなく趣味の押しつけである。
だが彼の前で争っても意味がない。エレノアはその衣装を受け取った。
家へ戻ると、母は困ったように微笑み、父は言葉を選んでいた。
しかし双子の兄オスカーだけは、ひと目見るなり容赦がない。
「葬送画の額縁から抜け出してきたみたいだな」
「お兄様」
「やめておけ。お前はそんな色に埋もれる娘じゃない」
その言葉に、エレノアは少しだけ救われた。
そう、彼女は元々、明るい青や薄金の似合う娘だった。
春の庭園のようだと褒められることも多かったのに、そのドレスを着ると、まるで夕暮れの壁紙みたいになる。
音楽会の夜。
迎えに来たアルヴェスは、エレノアを見るなり眉を寄せた。
「……やはり君では、あのドレスの格が出ないな」
その瞬間、扇の骨が二、三本、心の中で折れた。
会場に入ると、淡い薔薇色や白銀色のドレスをまとった令嬢たちが談笑していた。
そこへアルヴェスの友人がやって来て、悪気なく笑う。
「どうしたアルヴェス、肖像画でも連れてきたのか?」
周囲にくすりと笑いが広がった。
エレノアはゆっくりと微笑み、優雅にスカートを摘まんだ。
「ご紹介にあずかり光栄ですわ。この衣装は、アルヴェス様が敬愛なさる大伯母様のお好みを再現したものだそうですの。肖像画のようだとお感じになったなら、それだけ忠実に仕立てられたのでしょう」
一拍おいて、さらに柔らかく続ける。
「どうかお笑いになりませんよう。アルヴェス様が最も理想となさるご婦人のお姿ですもの」
笑っていた者たちの顔が、すっと変わった。
アルヴェスの友人は口を噤み、周囲の夫人たちは扇の陰で目を見交わす。
アルヴェスだけが、状況を理解できずに言った。
「君の着こなしが拙いから、誤解を招くんだろう」
「あら。ですが、わたくしにこの装いを求めたのはアルヴェス様ですわ」
その夜を境に、妙な噂が流れ始めた。
グレイリング侯爵家の嫡男は、死者の面影を婚約者に着せたがる。
婚約者を愛しているのではなく、理想化した過去に縋っている。
けれどもアルヴェスは気づかない。
むしろ以前にも増して、エレノアへ「大伯母上なら」を繰り返した。
髪の結い方。
香水の香り。
手紙の文体。
読書の趣味。
好きな花にまで口を出し、「白百合を好め。大伯母上はそれしか飾らなかった」と真顔で言った時、エレノアはようやく確信した。
(この方が欲しいのは妻ではないわ。亡き大伯母様の代用品よ)
決定打は、侯爵家の書庫で訪れた。
壁一面に大伯母の肖像画と遺品が並ぶ部屋で、アルヴェスは古い家政日誌を差し出した。
「結婚後、屋敷の采配はまずこれを手本にするといい。大伯母上の残した記録だ。食事の内容、使用人への指示、来客への返書、その全てが完璧だ」
「……まあ」
「君も筆跡を似せる練習をするといい。書類は整って見える方が美しい」
エレノアは、目の前の男を見た。
本気だった。冗談でも比喩でもなく、本当に彼は、彼女の筆跡まで故人に寄せたがっている。
その日、エレノアは初めて、自分から彼に問いかけた。
「アルヴェス様。わたくしは、どこまで大伯母様に似ればよろしいのですか?」
「どこまで、とは?」
「笑い方も、装いも、香りも、手紙も。ではそのうち、好きな季節も、好きな音楽も、好きな花も捨てて、大伯母様のお好みに合わせれば、ご満足なのですか?」
「それが君のためでもある。侯爵家に相応しくなるのだから」
「わたくしが侯爵家に相応しくなるのではございませんわ」
エレノアは静かに笑った。
「死んだ方に近づくほど、貴方が安心するだけでしょう?」
アルヴェスは絶句した。
それでも彼はなお、「誤解だ」「君のためだ」と言い募ったため、エレノアはそれ以上何も言わなかった。
ただ数日後のお茶会で、夫人たちと令嬢たちの前で、柔らかく事実だけを語ったのである。
「わたくし、婚約者様から大伯母様の筆跡まで真似るよう勧められましたの。愛されるというより、保存されている古い肖像になった気分ですわ」
その場はしんと静まり返った。
年配の侯爵夫人が、低い声で言った。
「それは、故人への敬慕ではなく冒涜ですわね」
別の令嬢が続ける。
「婚約者を人形のように扱うなんて、恐ろしいこと……」
噂は、一日で広まった。
グレイリング侯爵家の嫡男は、生きた令嬢を亡き大伯母の模造品に仕立てている。
その評判が決定的になった頃、侯爵本人からエレノアの父へ、面会の申し出があった。
そして翌日、婚約は穏便に解消された。
後日、人づてに聞いた話によれば、侯爵は息子にこう言ったらしい。
「お前は先祖を敬っていたのではない。先祖の名を盾に、生きた令嬢の尊厳を削っていたのだ。あれほど立派な女性を敬う者なら、まず目の前の女性を一人の人間として尊重すべきだった」
アルヴェスはしばらく社交の場から遠ざけられ、領地の古文書整理を命じられたという。
どうやら、過去ばかり見て生きるのなら、せめて役に立てということらしい。
一方、婚約解消の知らせを受けた日の夕食で、兄オスカーは上機嫌だった。
「良かったな、エレノア。これでお前は肖像画にされずに済む」
「ええ、本当に」
「次はちゃんと、お前自身を見てくれる男にしろ」
「その前に、お兄様もご自分の縁談から逃げるのをおやめになっては?」
「……余計なことを覚えたな」
父は苦笑し、母は優雅に紅茶を口へ運ぶ。
「でも安心したわ。わたくしの娘は、誰かの思い出の器になるために育てたのではありませんもの」
その言葉に、エレノアは心から微笑んだ。
春の光が窓辺に差し込んでいる。
沈んだ緑灰色ではなく、彼女によく似合う、明るく柔らか
女性ものを読んで勉強したがやはり上手くいかないもんですわね。
男の私にとって女性の貴族の気持ちになどなれませんでしたわオホホ。
それではお先に失礼いたしますわね?
執筆活動に忙しいんざますので。




