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青春研究部  作者: 琴坂伊織


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6/7

卒業式の練習

 二月の廊下には、数字がいくつも貼ってあった。


 委員会の生徒が作ったのだろう、厚紙に大きく書かれたカウントダウン。今日の数字は、十四。


 俺はその前で、毎日のように立ち止まる。立ち止まって、数字を見て、胸の奥で何かが軋む感覚を覚えてから、また歩き始める。それが、二月の俺の習慣になっていた。


 放課後。部室の扉を開けると、小山田くんと相沢さんがすでにいた。


 小山田くんは机に肘をつき、手元の漫画の背表紙をぼんやり眺めている。相沢さんは窓の外に視線を向けていた。二人とも、珍しく無言だった。


「先輩、まだですか」


 俺が椅子を引きながら言うと、小山田くんが顔を上げた。


「まだです。でも……最近、先輩どうですか」


「どうって?」


「なんか……明るくないですか。前より」


 俺は少し考えた。


 確かに、そうかもしれない。京都から帰って以来、黒瀬先輩は変わった。相変わらずコミュ障で、視線は合わないし、声は小さい。でも、どこかが確かに違う。硬さが、少しだけほぐれた、というか。


「言いたいこと、言えたからじゃないですか」


 相沢さんが、窓の外を見たまま静かに言った。


 小山田くんが「ああ」と短く頷く。俺も、心の中で同意した。


 清水寺の欄干で、先輩が言った言葉。


 ——寂しい、というのが、それだ。


 あの声の重さを、俺はまだ胸の奥で引きずっている。


 扉が開いた。黒瀬先輩が入ってきた。いつも通り視線は斜め下、いつも通り足音は静かだ。けれど、その顔には先週まで張り付いていたような強張りがない。


 先輩は椅子を引いて座り、手帳を開いた。


「今日の議題を言う」


「はい」


「卒業式の研究を始める」


 部屋が、一瞬だけ静かになった。


 小山田くんが漫画を置く音がした。相沢さんが窓から視線を戻した。俺は手の中のシャープペンを握り直す。


 誰も、反射的に笑わなかった。



 設計の話になると、小山田くんの目が輝き始めた。


「卒業式の定番シーンは、データ収集済みです!」


「聞かせてくれ」


「まず答辞。次に全員での合唱。そして校門での別れです!」


「抜けがある」


 先輩が手帳に目を落としたまま言う。小山田くんが「えっ」と首を傾げる。


「『泣かない約束』のシーン」


 小山田くんが「ああ!」と頭を打った。


「それも外せません。涙をこらえながら笑い合う……青春物語の見せ場ですよ」


 全員がわずかに沈黙した。


 相沢さんが、落ち着いた声で言う。


「今日は、何を再現するんですか」


「全部だ」


 俺は思わず先輩を見た。


「……全部?」


「答辞。退場。校門での別れ。一通りやる」


「今日一日で?」


「二週間しかない」


 反論しようとして、できなかった。その通りだからだ。



 まず、答辞の練習をすることになった。


 部屋の前方、黒板の前が卒業生の壇上に見立てられる。残り三人は椅子を並べ、在校生と保護者に扮して座った。


 黒瀬先輩が前に立って、手帳が開かれる。あらかじめ用意された原稿が書かれているのだろう。


 先輩が口を開いた。


「三年間を振り返ると——正直なところ、あまり思い出がない」


 最初の一文で、全員が気づいた。


 これは、定型文ではない。


「友人と呼べる人間もなく、部活もなく、放課後は一人で帰る日々だった」


 自分の三年間を、そのまま読んでいる。


 淡々とした声だった。読み上げているのではなく、ただ事実を告げているような声だった。


「それが変わったのは、三年の春だった。馬鹿げたポスターを一枚貼って、来るはずのない人間を待っていたら——来た」


 俺の膝の上で、手が固まった。


 掌の中に、汗が滲む。


「屋上でパンを食べた。ホースで濡れた。京都に行った。それだけのことだが、俺にとっては、それが全部だった」


 先輩の声が、微かに揺れた。気のせいかもしれない。でも俺は、それを確かに聞いた。


「この三年間は、最初の二年半と、残りの半年でできている。前者は長く、後者は短い。重さは当然等しくない。重い方が分かる人間には、分かるだろう」


 手帳のページが、めくれる音がした。


「以上です」


 先輩が顔を上げた。


 誰も拍手できなかった。


 小山田くんが、袖で目元を押さえていた。相沢さんは膝の上で手を組んだまま、真っ直ぐに先輩を見ていた。


 俺は何も言えなかった。言う必要がなかった。


 先輩が手帳を閉じて、視線を落とした。少し経ってから、いつものように右斜め下の床を見て言った。


「……続けていいか」


「はい」


 相沢さんが、静かに答えた。



 次は退場の練習だった。


 廊下を使う。卒業生が歩いて、両脇に在校生が並んで見送るシーンを再現する。BGMは小山田くんのスマホから「蛍の光」を流すことになった。


「音量、どのくらいにしますか」


「それらしい感じで」


「了解です」


 小山田くんが画面を操作する。か細いスピーカーから、聞き覚えのある旋律が流れ始めた。


 廊下に出ると、放課後の喧騒が迎えた。他のクラスの生徒が行き交い、遠くから運動部の声が聞こえてくる。


 黒瀬先輩が廊下の奥に立った。相沢さん、小山田くん、俺が両脇に並ぶ。BGMが流れ続けている。


 先輩が歩き始めた。


 三歩目で、向かいから男子生徒が二人歩いてきた。俺たちを一瞥し、一人が「……何やってんの」という顔で首を傾げ、もう一人は気づかないまま通り抜けていった。


 黒瀬先輩が、固まってしまう。


 足が止まる。両手が、ぎこちなく揺れる。


「……見られた」


「大丈夫ですよ、先輩」


「無理だ。もう一回最初から——」


「先輩、続けましょう」


 俺は静かに言った。


 先輩がこちらを向く。一瞬だけ目が合って、すぐに逸らされた。でも、今日の先輩の「逸らし方」は、いつもより少しだけ柔らかかった。


「……ああ」


 先輩がまた歩き始めた。


 スマホのスピーカーから「蛍の光」が流れている。チープな音だった。廊下の照明に照らされた先輩の背中は、大きくも小さくもなかった。ただそこに在る背中だった。


 誰も笑わなかった。


 先輩が廊下の突き当たりまで歩ききった。振り返らなかった。それでよかった。



 最後のシーンだけは、最初から屋外でやると決まっていた。


 校門の前に、四人で立った。夕方の光が、鉄の門扉を斜めに照らしている。行き交う帰宅中の生徒たちが、俺たちの脇をすり抜けていく。


 黒瀬先輩が、三人に向き直った。


 いつも通り、視線は三人の中間の地面に落ちている。それなのに、この場に立つ先輩は、どこか正しく見えた。


「……お前たちと過ごした時間は、良かった」


 練習の台詞なのか、本音なのか。もう判別できない。たぶん、区別に意味はない。


 相沢さんが答えた。


「先輩がいなくなっても、部は続けます」


 迷いのない声だった。ずいぶん前から、この言葉は決まっていたのだと思う。


 小山田くんが答えた。


「絶対また会いましょう」


 声が少し震えていたけれど、彼は俯かなかった。


 俺の番だった。


 何か言おうと思った。締まる言葉を。記憶に残るような言葉を。何度か探して、何度か空振りして、結局俺が口にしたのは一言だけだった。


「……先輩」


 呼んだだけだった。


 黒瀬先輩が、少しの間こちらを向いていた。今日一番長く、こちらを向いていた。それからゆっくりと、一度頷いた。


 言葉はなかった。でも、それで十分だった。



 部室に戻ると、日が傾いていた。


 黒瀬先輩が机に座り、手帳を開いた。ペンを持ち、今日の研究成果を書こうとして——


 止まった。


 ペンが紙に触れたまま、動かない。


「……何を書けばいい」


 天井を向くでもなく、床を見るでもなく、ただ手帳の白い紙を見ながら先輩が言った。


 誰も答えなかった。


「研究成果、って書こうとしたんだが。何も思い浮かばない」


「研究じゃなかったからじゃないですか、今日は」


 口をついて出た言葉だった。先輩が俺を見る。


「最初からそうだったんじゃないですか。研究って言わないと、踏み出せなかっただけで」


 先輩は何も言わなかった。


 俺も、それ以上は言わなかった。言い切ったのではなく、これ以上は余計だと思ったからだ。


 相沢さんが、静かに言った。


「記録しなくていいと思います。今日のことは」


 小山田くんが隣で頷く。


「覚えてますから。全部」


 黒瀬先輩は、しばらく手帳を見つめていた。


 それからペンを置いた。手帳を閉じた。机の上に、そっと置いた。椅子の背もたれに体重を預けるように、ゆっくりと深く座り直した。


 初めて、先輩が力を抜いたような気がした。


 小山田くんと相沢さんが先に帰り支度を始めた。荷物の音、椅子を引く音、「お疲れ様でした」という声。扉が閉まった。



 部室に残ったのは、俺と黒瀬先輩だけだった。


 廊下の足音が遠ざかり、部室は静かになった。窓の外はもう暗い。蛍光灯の白い光だけが、机の上の手帳と、二人分の影を照らしている。


 どちらも、しばらく何も言わなかった。


 先輩が口を開いたのは、俺が荷物をまとめ始めた頃だった。


「ポスターを貼ったとき——正直、誰も来ないと思ってた」


 先輩の声は、低くて静かだった。


 俺は荷物を持つ手を止めて、椅子に座り直した。


「『青春研究部』なんて、馬鹿みたいな名前だ。自分でもそう思ってた」


 先輩は手帳を見ていた。閉じたままの手帳を。


「でも……馬鹿みたいな名前じゃないと、貼れなかった」


 研究という名目。その正体を、先輩は最後に自分で解いた。


 俺は先輩の横顔を見ながら、一度だけ静かに息を吐いた。


「来てくれて、ありがとう」


 その言葉は、どこか答辞の続きのようだった。


 俺は少しの間、床の模様を見ていた。


「俺、あのポスター見たとき、馬鹿げてると思いましたよ」


「知ってる」


「それでも来たのは……たぶん、先輩と同じ理由だったと思います」


 先輩は黙っていた。


「馬鹿げた名前じゃないと、動けなかった」


 窓の外で、風が鳴った。


 誰かが廊下を歩く足音が遠くに聞こえて、消えた。


 黒瀬先輩が立ち上がった。椅子を引く音がした。


「帰るか」


「はい」


 俺も立ち上がった。蛍光灯を消すと、廊下の光が扉の隙間から細く差し込んできた。


 廊下を並んで歩く。いつもより少しだけゆっくりと。俺が意識して歩幅を小さくしているのか、先輩が遅くしているのか、どちらでもあるような気がした。


 昇降口で靴を履き替え、校門を抜ける。カウントダウンの掲示が貼られた廊下を最後に通ったとき、今日の数字はまだそこにあった。十四。


 道が分かれるところで、先輩が足を止めた。


 俺もつられて止まった。先輩は歩みを止めたまま、俺の方を向かずに言った。


「次の部長は、お前だ」


 俺は答えなかった。


 しばらく、夜道に二人で立っていた。遠くで車の音がして、信号が青に変わる音がした。


 俺は答えなかった。でも否定もしなかった。


 それが答えだと、二人ともわかっていた。


「じゃあな」


 先輩が歩き始めた。


 背中が、夜の中に遠ざかっていく。


 俺は少しの間、その背中を見ていた。


 見えなくなってから、俺も歩き始めた。


 夜道を一人で歩きながら、考えていた。


 次の部長、か。


 その言葉は、重くもなく、軽くもなかった。ただそこにある、という感じがした。荷物を受け取った、というよりも、最初からずっと持っていたものの名前がついた、というような。


 ポケットのスマホが振動した。


 グループチャットへの通知かと思ったが、違った。黒瀬先輩からの個人メッセージだった。


『答辞、本番では読まない。でも書いてよかった』


 俺は立ち止まって、その文字を読んだ。もう一度読んだ。


『それがよかったと思います』


 返信を送ると、しばらくして既読がついた。返事はなかった。


 それでいいと思った。


 俺は夜道を歩き続けた。頭の中に、先輩の答辞が断片的に浮かんでくる。


 ——屋上でパンを食べた。ホースで濡れた。京都に行った。それだけのことだが、俺にとっては、それが全部だった。


 それが全部だった。


 全部、というのは少なすぎるという意味じゃない。全部、というのは、それがすべてだったという意味だ。


 十四日後に先輩は卒業する。そうしたら部室に先輩の席は残るけれど、先輩はそこにいない。それは変えられない。


 でも今日、先輩は答辞を書いてきた。誰に頼まれるでもなく、一人で書いてきた。本番では読まないと言って、それでも書いてきた。


 馬鹿げたポスターを貼った人間が、最後に自分のために書いた答辞。


 ——来てくれて、ありがとう。


 その言葉は、俺に向けられたものだった。でも同時に、先輩が自分自身に向けて書いたものでもあった気がする。自分の半年間を、自分で肯定した言葉。


 俺は、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。


 泣きたいわけでも、叫びたいわけでもない。ただ、熱い。


 街灯の下を歩きながら、俺は空を見上げた。二月の夜は澄んでいて、星がいくつか見えた。


 十四日後。


 カウントダウンが終わる日に、俺は部室に戻る。相沢さんも、小山田くんも戻ってくる。そして先輩がいない部屋で、俺たちは次の研究テーマを話し合う。


 それが、俺の青春研究部の、次の一ページになる。


 馬鹿げた名前の部活は、続く。


 先輩が作って、俺たちが引き受けた、この場所は続く。


 俺は前を向いて、歩き続けた。


 夜道は長く続いていた。

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