卒業式の練習
二月の廊下には、数字がいくつも貼ってあった。
委員会の生徒が作ったのだろう、厚紙に大きく書かれたカウントダウン。今日の数字は、十四。
俺はその前で、毎日のように立ち止まる。立ち止まって、数字を見て、胸の奥で何かが軋む感覚を覚えてから、また歩き始める。それが、二月の俺の習慣になっていた。
放課後。部室の扉を開けると、小山田くんと相沢さんがすでにいた。
小山田くんは机に肘をつき、手元の漫画の背表紙をぼんやり眺めている。相沢さんは窓の外に視線を向けていた。二人とも、珍しく無言だった。
「先輩、まだですか」
俺が椅子を引きながら言うと、小山田くんが顔を上げた。
「まだです。でも……最近、先輩どうですか」
「どうって?」
「なんか……明るくないですか。前より」
俺は少し考えた。
確かに、そうかもしれない。京都から帰って以来、黒瀬先輩は変わった。相変わらずコミュ障で、視線は合わないし、声は小さい。でも、どこかが確かに違う。硬さが、少しだけほぐれた、というか。
「言いたいこと、言えたからじゃないですか」
相沢さんが、窓の外を見たまま静かに言った。
小山田くんが「ああ」と短く頷く。俺も、心の中で同意した。
清水寺の欄干で、先輩が言った言葉。
——寂しい、というのが、それだ。
あの声の重さを、俺はまだ胸の奥で引きずっている。
扉が開いた。黒瀬先輩が入ってきた。いつも通り視線は斜め下、いつも通り足音は静かだ。けれど、その顔には先週まで張り付いていたような強張りがない。
先輩は椅子を引いて座り、手帳を開いた。
「今日の議題を言う」
「はい」
「卒業式の研究を始める」
部屋が、一瞬だけ静かになった。
小山田くんが漫画を置く音がした。相沢さんが窓から視線を戻した。俺は手の中のシャープペンを握り直す。
誰も、反射的に笑わなかった。
設計の話になると、小山田くんの目が輝き始めた。
「卒業式の定番シーンは、データ収集済みです!」
「聞かせてくれ」
「まず答辞。次に全員での合唱。そして校門での別れです!」
「抜けがある」
先輩が手帳に目を落としたまま言う。小山田くんが「えっ」と首を傾げる。
「『泣かない約束』のシーン」
小山田くんが「ああ!」と頭を打った。
「それも外せません。涙をこらえながら笑い合う……青春物語の見せ場ですよ」
全員がわずかに沈黙した。
相沢さんが、落ち着いた声で言う。
「今日は、何を再現するんですか」
「全部だ」
俺は思わず先輩を見た。
「……全部?」
「答辞。退場。校門での別れ。一通りやる」
「今日一日で?」
「二週間しかない」
反論しようとして、できなかった。その通りだからだ。
まず、答辞の練習をすることになった。
部屋の前方、黒板の前が卒業生の壇上に見立てられる。残り三人は椅子を並べ、在校生と保護者に扮して座った。
黒瀬先輩が前に立って、手帳が開かれる。あらかじめ用意された原稿が書かれているのだろう。
先輩が口を開いた。
「三年間を振り返ると——正直なところ、あまり思い出がない」
最初の一文で、全員が気づいた。
これは、定型文ではない。
「友人と呼べる人間もなく、部活もなく、放課後は一人で帰る日々だった」
自分の三年間を、そのまま読んでいる。
淡々とした声だった。読み上げているのではなく、ただ事実を告げているような声だった。
「それが変わったのは、三年の春だった。馬鹿げたポスターを一枚貼って、来るはずのない人間を待っていたら——来た」
俺の膝の上で、手が固まった。
掌の中に、汗が滲む。
「屋上でパンを食べた。ホースで濡れた。京都に行った。それだけのことだが、俺にとっては、それが全部だった」
先輩の声が、微かに揺れた。気のせいかもしれない。でも俺は、それを確かに聞いた。
「この三年間は、最初の二年半と、残りの半年でできている。前者は長く、後者は短い。重さは当然等しくない。重い方が分かる人間には、分かるだろう」
手帳のページが、めくれる音がした。
「以上です」
先輩が顔を上げた。
誰も拍手できなかった。
小山田くんが、袖で目元を押さえていた。相沢さんは膝の上で手を組んだまま、真っ直ぐに先輩を見ていた。
俺は何も言えなかった。言う必要がなかった。
先輩が手帳を閉じて、視線を落とした。少し経ってから、いつものように右斜め下の床を見て言った。
「……続けていいか」
「はい」
相沢さんが、静かに答えた。
次は退場の練習だった。
廊下を使う。卒業生が歩いて、両脇に在校生が並んで見送るシーンを再現する。BGMは小山田くんのスマホから「蛍の光」を流すことになった。
「音量、どのくらいにしますか」
「それらしい感じで」
「了解です」
小山田くんが画面を操作する。か細いスピーカーから、聞き覚えのある旋律が流れ始めた。
廊下に出ると、放課後の喧騒が迎えた。他のクラスの生徒が行き交い、遠くから運動部の声が聞こえてくる。
黒瀬先輩が廊下の奥に立った。相沢さん、小山田くん、俺が両脇に並ぶ。BGMが流れ続けている。
先輩が歩き始めた。
三歩目で、向かいから男子生徒が二人歩いてきた。俺たちを一瞥し、一人が「……何やってんの」という顔で首を傾げ、もう一人は気づかないまま通り抜けていった。
黒瀬先輩が、固まってしまう。
足が止まる。両手が、ぎこちなく揺れる。
「……見られた」
「大丈夫ですよ、先輩」
「無理だ。もう一回最初から——」
「先輩、続けましょう」
俺は静かに言った。
先輩がこちらを向く。一瞬だけ目が合って、すぐに逸らされた。でも、今日の先輩の「逸らし方」は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「……ああ」
先輩がまた歩き始めた。
スマホのスピーカーから「蛍の光」が流れている。チープな音だった。廊下の照明に照らされた先輩の背中は、大きくも小さくもなかった。ただそこに在る背中だった。
誰も笑わなかった。
先輩が廊下の突き当たりまで歩ききった。振り返らなかった。それでよかった。
最後のシーンだけは、最初から屋外でやると決まっていた。
校門の前に、四人で立った。夕方の光が、鉄の門扉を斜めに照らしている。行き交う帰宅中の生徒たちが、俺たちの脇をすり抜けていく。
黒瀬先輩が、三人に向き直った。
いつも通り、視線は三人の中間の地面に落ちている。それなのに、この場に立つ先輩は、どこか正しく見えた。
「……お前たちと過ごした時間は、良かった」
練習の台詞なのか、本音なのか。もう判別できない。たぶん、区別に意味はない。
相沢さんが答えた。
「先輩がいなくなっても、部は続けます」
迷いのない声だった。ずいぶん前から、この言葉は決まっていたのだと思う。
小山田くんが答えた。
「絶対また会いましょう」
声が少し震えていたけれど、彼は俯かなかった。
俺の番だった。
何か言おうと思った。締まる言葉を。記憶に残るような言葉を。何度か探して、何度か空振りして、結局俺が口にしたのは一言だけだった。
「……先輩」
呼んだだけだった。
黒瀬先輩が、少しの間こちらを向いていた。今日一番長く、こちらを向いていた。それからゆっくりと、一度頷いた。
言葉はなかった。でも、それで十分だった。
部室に戻ると、日が傾いていた。
黒瀬先輩が机に座り、手帳を開いた。ペンを持ち、今日の研究成果を書こうとして——
止まった。
ペンが紙に触れたまま、動かない。
「……何を書けばいい」
天井を向くでもなく、床を見るでもなく、ただ手帳の白い紙を見ながら先輩が言った。
誰も答えなかった。
「研究成果、って書こうとしたんだが。何も思い浮かばない」
「研究じゃなかったからじゃないですか、今日は」
口をついて出た言葉だった。先輩が俺を見る。
「最初からそうだったんじゃないですか。研究って言わないと、踏み出せなかっただけで」
先輩は何も言わなかった。
俺も、それ以上は言わなかった。言い切ったのではなく、これ以上は余計だと思ったからだ。
相沢さんが、静かに言った。
「記録しなくていいと思います。今日のことは」
小山田くんが隣で頷く。
「覚えてますから。全部」
黒瀬先輩は、しばらく手帳を見つめていた。
それからペンを置いた。手帳を閉じた。机の上に、そっと置いた。椅子の背もたれに体重を預けるように、ゆっくりと深く座り直した。
初めて、先輩が力を抜いたような気がした。
小山田くんと相沢さんが先に帰り支度を始めた。荷物の音、椅子を引く音、「お疲れ様でした」という声。扉が閉まった。
部室に残ったのは、俺と黒瀬先輩だけだった。
廊下の足音が遠ざかり、部室は静かになった。窓の外はもう暗い。蛍光灯の白い光だけが、机の上の手帳と、二人分の影を照らしている。
どちらも、しばらく何も言わなかった。
先輩が口を開いたのは、俺が荷物をまとめ始めた頃だった。
「ポスターを貼ったとき——正直、誰も来ないと思ってた」
先輩の声は、低くて静かだった。
俺は荷物を持つ手を止めて、椅子に座り直した。
「『青春研究部』なんて、馬鹿みたいな名前だ。自分でもそう思ってた」
先輩は手帳を見ていた。閉じたままの手帳を。
「でも……馬鹿みたいな名前じゃないと、貼れなかった」
研究という名目。その正体を、先輩は最後に自分で解いた。
俺は先輩の横顔を見ながら、一度だけ静かに息を吐いた。
「来てくれて、ありがとう」
その言葉は、どこか答辞の続きのようだった。
俺は少しの間、床の模様を見ていた。
「俺、あのポスター見たとき、馬鹿げてると思いましたよ」
「知ってる」
「それでも来たのは……たぶん、先輩と同じ理由だったと思います」
先輩は黙っていた。
「馬鹿げた名前じゃないと、動けなかった」
窓の外で、風が鳴った。
誰かが廊下を歩く足音が遠くに聞こえて、消えた。
黒瀬先輩が立ち上がった。椅子を引く音がした。
「帰るか」
「はい」
俺も立ち上がった。蛍光灯を消すと、廊下の光が扉の隙間から細く差し込んできた。
廊下を並んで歩く。いつもより少しだけゆっくりと。俺が意識して歩幅を小さくしているのか、先輩が遅くしているのか、どちらでもあるような気がした。
昇降口で靴を履き替え、校門を抜ける。カウントダウンの掲示が貼られた廊下を最後に通ったとき、今日の数字はまだそこにあった。十四。
道が分かれるところで、先輩が足を止めた。
俺もつられて止まった。先輩は歩みを止めたまま、俺の方を向かずに言った。
「次の部長は、お前だ」
俺は答えなかった。
しばらく、夜道に二人で立っていた。遠くで車の音がして、信号が青に変わる音がした。
俺は答えなかった。でも否定もしなかった。
それが答えだと、二人ともわかっていた。
「じゃあな」
先輩が歩き始めた。
背中が、夜の中に遠ざかっていく。
俺は少しの間、その背中を見ていた。
見えなくなってから、俺も歩き始めた。
夜道を一人で歩きながら、考えていた。
次の部長、か。
その言葉は、重くもなく、軽くもなかった。ただそこにある、という感じがした。荷物を受け取った、というよりも、最初からずっと持っていたものの名前がついた、というような。
ポケットのスマホが振動した。
グループチャットへの通知かと思ったが、違った。黒瀬先輩からの個人メッセージだった。
『答辞、本番では読まない。でも書いてよかった』
俺は立ち止まって、その文字を読んだ。もう一度読んだ。
『それがよかったと思います』
返信を送ると、しばらくして既読がついた。返事はなかった。
それでいいと思った。
俺は夜道を歩き続けた。頭の中に、先輩の答辞が断片的に浮かんでくる。
——屋上でパンを食べた。ホースで濡れた。京都に行った。それだけのことだが、俺にとっては、それが全部だった。
それが全部だった。
全部、というのは少なすぎるという意味じゃない。全部、というのは、それがすべてだったという意味だ。
十四日後に先輩は卒業する。そうしたら部室に先輩の席は残るけれど、先輩はそこにいない。それは変えられない。
でも今日、先輩は答辞を書いてきた。誰に頼まれるでもなく、一人で書いてきた。本番では読まないと言って、それでも書いてきた。
馬鹿げたポスターを貼った人間が、最後に自分のために書いた答辞。
——来てくれて、ありがとう。
その言葉は、俺に向けられたものだった。でも同時に、先輩が自分自身に向けて書いたものでもあった気がする。自分の半年間を、自分で肯定した言葉。
俺は、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
泣きたいわけでも、叫びたいわけでもない。ただ、熱い。
街灯の下を歩きながら、俺は空を見上げた。二月の夜は澄んでいて、星がいくつか見えた。
十四日後。
カウントダウンが終わる日に、俺は部室に戻る。相沢さんも、小山田くんも戻ってくる。そして先輩がいない部屋で、俺たちは次の研究テーマを話し合う。
それが、俺の青春研究部の、次の一ページになる。
馬鹿げた名前の部活は、続く。
先輩が作って、俺たちが引き受けた、この場所は続く。
俺は前を向いて、歩き続けた。
夜道は長く続いていた。




