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青春研究部  作者: 琴坂伊織


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5/7

京都、嘘の修学旅行

 自主修学旅行という言葉は、三週間のあいだ俺の頭の中でくすぶり続けた。


 正式名称は「青春研究部・遠征研究」。実態は、金欠の高校生四人が新幹線で京都まで日帰りするというだけの話だ。それ以上でも、それ以下でもない。


 なのに、どうして俺はいま、始発に近い時刻に家を出ているのだろう。


「おはようございます」


 集合場所の改札前で、相沢さんがすでに待っていた。手提げバッグからは手作りのしおりが顔を覗かせている。始発近くの駅に、きっちり十五分前到着。完璧な優等生はどうやら、旅行の朝も隙がないらしい。


「早いですね」


「しおりを最終確認していたら、そのまま出てきてしまいました」


 言いながら、彼女はしおりを俺に差し出した。表紙には几帳面な文字で『青春研究部 自主修学旅行』と書かれており、その下に小さく『第一回』と添えてある。


「……第一回、ってことは」


「続けるつもりですから」


 さらっと言い切る。俺がその言葉を噛み締める間もなく、背後でけたたましい足音が響いた。


「間に合いましたっ……!」


 小山田くんが、肩で息をしながら駆け込んできた。リュックサックは不自然にパンパンで、明らかに詰め込みすぎだ。


「何入れてきたんですか」


「お菓子です。修学旅行といえばお菓子の交換でしょう」


 誰も異議を唱えなかった。


 黒瀬先輩が姿を現したのは、発車の三分前だった。改札を抜けてくる先輩は、どこかいつもより緊張しているような、逆に妙に穏やかなような、不思議な顔をしていた。


「全員いるな」


「全員います」


「よし。行くか」



 早朝の新幹線は、空いていた。


 四人並びの席。窓側に黒瀬先輩、その隣に小山田くん。通路側に相沢さんと俺が並んだ。


 発車してほどなく、小山田くんがリュックを開け始めた。ガサガサという音が一分ほど続いたのち、彼は両手に大量の駄菓子を抱えて振り返った。


「配ります!」


「いつもどこから出すんですか」


「研究のためです」


 うまい棒、ポテトスナック、小さな袋の飴。次々と手のひらに押し込まれていく。黒瀬先輩がうまい棒を受け取り、窓の外を見ながらかじった。流れ去っていく景色と、先輩のその横顔が、なぜかひどく子どもみたいに見えた。


「しおりを見ていいですか」


 相沢さんに声をかけると、彼女は少し照れたような顔で差し出してくれた。中を開くと、手書きのタイムテーブルと地図が、ページをまたいで丁寧に書き込まれている。


「相沢さん、これ全部手書きですか」


「印刷しようとしたんですが、なんか違うと思って」


「修学旅行のしおりって、手書きじゃないですよね普通」


「でも、雰囲気はこっちの方が出るので」


 俺はしおりを返しながら、表紙の『第一回』をもう一度見た。


「第一回……先輩が卒業しても、続けるつもりなんですか」


「ええ」


 相沢さんの声は、答えるまでに一拍もかからなかった。


 窓の向こうで、朝の光が地平線の縁を染め始めていた。車内に「第一回」という言葉が静かに落ちた。黒瀬先輩は窓の外を見たまま、うまい棒を二口目でかじった。何も言わなかった。


 俺も、何も言わなかった。



 金閣寺は、混んでいた。


 修学旅行生と外国人観光客が混然と流れる参道を、黒瀬先輩は少し歩幅を縮めて歩いていた。人混みの中での先輩は、学校の廊下とは別の緊張をまとっている。相沢さんがさりげなく集団の前に立ち、人をかき分けながら道を作った。俺は先輩のすぐ後ろについて歩く。


 鏡湖池の前で、四人は立ち止まった。


 金色の建物が、水面に静かに映っていた。


 しばらく誰も何も言わなかった。


「……きれいだな」


 黒瀬先輩が、ぽつりと漏らした。


 研究とか、再現とか。そういうものを全部取り払ったような声だった。


 小山田くんも、相沢さんも、俺も、何も返さなかった。ただ四人で並んで、その金色を眺めていた。


 沈黙が気まずいわけじゃない。むしろ、言葉を置かない方がいいような気がした。


 小山田くんが、そっとスマホを取り出した。


「修学旅行といえば記念写真です」


 シャッター音がした。誰も止めなかった。



 嵐山の竹林は、思ったより細い道だった。


 観光地図に載っているメインルートは人が多すぎて、気づいたら少し脇道に入り込んでいた。竹が左右に高く伸び、その隙間から零れる午前の光が、地面に細い影を作っている。


 人がいなくなった。風が通る音だけがした。


「ここでの研究テーマは……」


 小山田くんがしおりをめくる。


「特に書いてないですね」


「書き忘れました」


 相沢さんがあっさりと言う。


 俺は思わず彼女を見た。相沢さんにしては珍しいミスだ。珍しすぎて、逆に何か意図があるのかとも思ったが、彼女の顔に含みはなかった。純粋に書き忘れたらしかった。


「じゃあ、今日一番の想定外ですね」


「そうなりますね」


 相沢さんが、少し笑った。


 台本のない時間。四人はしばらく、ただ竹林の中を歩いた。


 観光地にいるはずなのに、人の声が遠い。足元の砂利が、踏むたびに柔らかく鳴る。黒瀬先輩が先頭を歩いていて、その背中が竹の影に縞模様を作っていた。


 唐突に、先輩が立ち止まった。


「修学旅行で何を話すべきか……調べてきたんだが」


「また将来の夢パターンですか」


 俺が言うと、先輩は首を振った。


「いや。今回は別のものを調べた」


 手帳を開く。そこには、几帳面な文字で一行だけ書かれていた。


「『旅先でしか言えないことがある』。青春作品に繰り返し登場するテーマだ」


 全員が少し黙った。


 竹の葉が揺れる音がして、また止んだ。


「……旅先でしか言えないこと」


 俺が繰り返すと、小山田くんが「なんだろう」と首を傾げた。相沢さんは下を向いて、足元の砂利を見ていた。


 黒瀬先輩は何も言わなかった。


 ただ、手帳を閉じる指先が、少しだけゆっくりだった。



 清水寺の舞台に着いた頃、空がオレンジに染まり始めていた。


 観光客の波が、夕方の空気の中で少し薄くなっていた。四人で欄干に並んで、下を見下ろす。遠くに広がる京都の街が、夕日に霞んでいた。


 小山田くんが「清水の舞台から飛び降りる」の解説を始めようとしたところで、相沢さんに「今はいいです」と静かに制された。彼は「はい」と素直に引き下がった。


 誰かが何かを言おうとする気配が、何度か生まれて、消えた。


 黒瀬先輩が欄干を握ったまま、下を見ていた。その横顔に、夕日が当たっている。


「俺、就職することにした」


 先輩の声は、静かだった。


 全員が先輩を見た。


「大学は……行かない。コミュ障が四年伸びるだけだから」


 笑いにしようとした言い方だったが、笑えなかった。


「就職して、一人暮らしする。それだけ、決めた」


 俺は何か言おうとして、止まった。相沢さんも、小山田くんも。


 先輩は欄干から離れず、ただ下を見ていた。


「高校を出たら……たぶん、お前たちとは会わなくなる」


 事実を、ただ言っている声だった。


「旅先でしか言えないこと、って言っただろ」


 夕風が吹いた。相沢さんの髪が、ゆっくり揺れた。


「……寂しい、というのが、それだ」


 長い沈黙が来た。


 下を流れる人々の声が、遠く霞んで聞こえた。小山田くんが、鼻をすする音がした。相沢さんは欄干を握ったまま、まっすぐに先を見ていた。


 俺は先輩の横顔を見ていた。


 この人は、ずっとこれが言いたかったんだ。


 研究という名目がなければ、もしかしたら卒業まで一生言えなかった言葉を、先輩は今日この場所でやっと吐き出した。


 ホースで雨を降らせても、夕焼けの屋上でパンをちぎっても、言えなかったことが、ここで言えた。


 俺はそれ以上、何も言えなかった。


 ただ、欄干を握る手を、少しだけきつくした。



 定食屋は、細い路地の奥にあった。


 湯豆腐と漬物と白米。しおりには「修学旅行の夜は班行動で親睦を深める」と書かれていた。一応、実践中ということになる。


 黒瀬先輩は湯豆腐を黙々と食べていた。清水寺の話の続きは、誰もしていなかった。それでいい空気があった。


 小山田くんが、場を持たせようとしたのだろう、急に背筋を伸ばした。


「では、今日の研究成果を発表します」


「どうぞ」と相沢さん。


「金閣寺では……感動の共有が生まれました。竹林では台本なしの交流が実現しました。清水寺では――」


 そこで止まった。


 小山田くんは先輩を見て、少し困った顔をした。


「清水寺では……なんて書けばいいですか、先輩」


 黒瀬先輩が湯豆腐を一口食べた。少し考えた。


「……本音の共有、でいい」


 小山田くんがメモした。


 俺は湯豆腐を口に運びながら、先輩を見ていた。


「研究成果じゃなくて、ただの旅行になってますよ、今日」


 先輩は少しの間、考えた。


「……それでいいんだと思う。たぶん」


 卓上の湯豆腐が、静かに湯気を立てていた。誰かがお茶を飲む音がした。


 それきり、四人はしばらく無言で飯を食った。


 悪くない沈黙だった、と俺は思った。



 帰りの新幹線は、夜だった。


 行きと同じ並びの席。窓の外は暗く、ガラスに車内の灯りが映り込んでいる。


 小山田くんは発車してほどなく眠った。リュックを抱えたまま、首を少し傾けて、規則正しく寝息を立てている。相沢さんは開いたしおりに、今日の記録を書き込んでいた。鉛筆が、微かな音を立てる。


 黒瀬先輩と俺だけが、起きていた。


 先輩は窓の外を見ている。夜の風景が流れていく。俺はしばらく、何も言わなかった。


 車窓に俺の顔が薄く映っていた。その向こうに闇が続く。


 言わなければならない、と思った。気の利いたことじゃなくていい。ただ、言わなければならない。


「先輩が卒業しても、部は続けます」


 先輩は窓の外を見たままだった。


「相沢さんが言ってたじゃないですか。第一回、って」


「……聞こえてたよ」


「続けますよ。ちゃんと」


 先輩は何も言わなかった。しばらく、二人とも黙っていた。車輪の音が、一定のリズムで続いている。


 やがて、先輩がぽつりと言った。


「……次の研究テーマ、お前が決めろ」


 俺は少し驚いて、先輩を見た。先輩は引き続き窓の外を向いていた。


「なんで俺ですか」


「部長の権限だ」


 理由になっていない。俺は苦笑して、少し考えた。


「……『卒業式』を研究しましょう」


 黒瀬先輩が、初めてこちらを向いた。一瞬だけ目が合い、すぐに逸らされた。


「……それは、まだ先だ」


「準備が必要じゃないですか。先輩の研究は、いつも準備不足なので」


 先輩は何も言わなかった。


 ただ、口元がわずかに動いた。笑ったのかもしれない、と俺は思った。


 隣の席では、相沢さんがしおりを閉じるところだった。表紙を指先でそっと撫でてから、バッグにしまう。その仕草は、妙に優しかった。


 俺はまた窓の外を見た。


 夜の中を、新幹線が走り続けていた。



 深夜、自分の部屋。


 ベッドに横になったまま、今日を思い返していた。


 金閣寺の金色。竹林を吹いた風の音。相沢さんのしおりの『第一回』という文字。湯豆腐の白い湯気。清水寺の欄干を握る先輩の手。


 ——研究、だったんだろうか。


 わからない。少なくとも、しおりに書かれていた通りには何一つ進まなかった。台本通りの青春シーンなど、どこにもなかった。


 なのに。


 ——今日は、生きた。


 そう感じていた。


 スマホが振動した。部のグループチャットに通知が来ている。


 相沢さんが写真を送ってきた。


 竹林の中で、四人が並んで歩いている後ろ姿だった。小山田くんが記念写真を撮ったのとは別の、相沢さんが密かに切り取っていた一枚。


 黒瀬先輩、小山田くん、相沢さん、俺。誰もカメラを向いていない。竹の影が、四人の足元に縞を作っている。ただ、歩いている。


 それが、今日で一番「青春」に見えた。


「良い写真ですね」


 送ると、すぐに既読がついた。


 しばらくして、相沢さんから返信が来た。


『第二回も、よろしくお願いします』


 俺は笑って、スマホを置いた。


 天井を見上げる。部屋は静かで、外からかすかに虫の声がする。


 先輩はいつか、この部を去る。


 だからといって、何かが変わるわけじゃない。ただ、次の研究テーマは決まった。


 卒業式。


 準備は必要だ。先輩の研究は、いつも準備不足なのだから。


 俺は目を閉じた。


 窓の外で、虫の声が続いていた。

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