完璧な人の休み方
朝の光が差し込む廊下。喧騒の中心に、相沢さんはいた。
迷いのない手つきで書類を捌き、後輩には的確な指示を飛ばす。すれ違う生徒に向ける笑みは、まるで測ったかのように正確で、美しい。
その完璧な振る舞いを眺めるほど、文化祭の日に彼女がこぼした言葉が、俺の胸の奥で鋭く反響する。
『完璧にやっていても、いつも少し外側にいる気がする』
非の打ち所のないあの笑顔の、一体どこが「外側」だというのか。俺にはまだ、その境界線が見えなかった。
窓から差し込む午後の陽光が、机の上で埃を躍らせている。
どれほど目を凝らしたところで、彼女の言う「境界線」は見えてこない。それはきっと、引いた本人にしか自覚できない、心のひび割れのようなものだから。
そんなことを考えている間も、世界は淡々と回っていく。
黒板を埋める数式も、誰かのあくびも、遠くから聞こえる吹奏楽部の音色も、すべてが他人事のように俺の横を通り過ぎていった。
気がつけば、教室には西日が長く伸び、放課後の気配が満ちていた。
「今日は『線香花火対決』を研究する」
黒瀬先輩が、珍しく右斜め上を見上げながら宣言する。心なしか上ずった声から、その胸の内に灯った場違いな熱狂が伝わってくる。
「室内でするんですか?」
「火花が散ったら危ないですよ」
俺と小山田くんが、ほぼ同時に懸念を口にした。しかし、先輩の瞳にはすでに、小さな火花がパチパチとはじけているようだった。
「煙が少なく、火花の温度も低い。室内専用のものが存在するのだよ」
黒瀬先輩が掲げたパッケージには、『ホームパーティー』という陽気なロゴが踊っている。
その浮かれた文字とは裏腹に、部屋の四隅には水を張ったバケツが五つも並べられていた。万が一のボヤも許さないという、彼の執念にも似た用心深さの表れだろう。
「あとは相沢さんの到着を待つだけだ」
先輩の指先が、ガサガサと音を立てて外装を剥いでいく。
「……相沢さん、遅いですね」
「カップ麺、三つはいけますよ。三分待つのを三回繰り返せます」
壁掛け時計を仰いでこぼした俺の独り言に、小山田くんが敏感に肩を揺らした。
彼はさっきから、手元の漫画に目を落としてはすぐに時計を確認するという、せわしない動作を繰り返している。
その時、机の上に並んだ全員のスマホが、示し合わせたように震えた。
青春研究部のグループチャットに、一通の通知。
『遅れます。先に始めていてください』
不在の主からの無機質な言葉が、俺たちの待ちぼうけに終止符を打った。
「仕方ないか……」
漏れた溜息とともに、黒瀬先輩が線香花火を四本取り出した。俺たちの前に配られたそれとは別に、一本だけ、主を失った花火が机の上に寂しく取り残される。
つい先ほどまでの浮かれっぷりが嘘のように、先輩の肩は力なく落ちていた。しぼんだ風船のような手つきで、線香花火対決の開始が宣言される。
最下位は小山田くん。勝者は黒瀬先輩。二位は俺。
本来なら盛り上がるはずの結果も、今の俺たちには砂を噛むような味しかしない。先輩は投げやりに、手帳へ「どうでもいい順位」を書き止めていた。
二度目は勝負ではなく、ただ静かに火花を眺める時間になった。パチパチと繊細な音を立てる光の粒が、暗がりに三人の横顔を浮き彫りにする。
「……やっぱり、全員でやりたかったな」
ポツリと、黒瀬先輩が零した。
「大丈夫ですよ。機会なんて、これからいくらでも作れますから」
「そうだな……。でも、俺にはもう、あんまり時間が残ってないんだ」
ふと顔を上げた先輩と目が合った。
「……卒業、しちゃうからな」
「あ……」
言葉が喉に詰まった。慰めのつもりで投げた言葉が、あろうことか先輩の「終わりの予感」を刺激してしまった。
取り返しのつかない失言をした俺を責めるように、火花がひとつ、足元に落ちて消える。沈黙が教室を支配し、耐えがたい重苦しさが満ちたその時――。
コン、コン、と控えめなノックの音が、その空気を切り裂いた。
「すみません、生徒会の会議が長引いてしまって……」
現れた相沢さんの声は少し掠れていた。いつも通りの冷静な表情ではあったが、伏せられた睫毛の下には、隠しきれない疲労の影が差している。
「いいんだよ。ほら、一本残してある」
黒瀬先輩の声は、先ほどの落ち込みが嘘のように温かかった。相沢さんは小さく頷き、吸い寄せられるように空席へと身を沈めた。
彼女が火をつけた最後の一本を、俺たちは固唾をのんで見守る。暗がりの中で、激しく爆ぜる火花が相沢さんの横顔をオレンジ色に縁取っていた。
やがて、ぽとり――と、重みに耐えかねた火の玉が床に吸い込まれる。
その瞬間、相沢さんの唇から、小さな呼気が漏れた。それがため息なのか、笑いなのか、俺には判別できなかった。
「それじゃ、お開きだな」
黒瀬先輩は職員室へ、小山田くんは塾へ。それぞれの足音が遠ざかると、残された空間には俺と相沢さんの二人だけが取り残された。
昇降口を出たところで、相沢さんが少しだけ歩くペースを落とす。急いでいない、という意思表示のように感じられた。
沈黙が気まずいわけじゃない。ただ、隣を歩く彼女の横顔が、いつもより少しだけ硬い気がした。
意を決して、俺は口を開く。
「今日の会議、何かあったんですか」
相沢さんは、すぐには答えなかった。夕暮れに溶けそうなほど長い沈黙の後、ようやく小さな声がこぼれる。
「……来年の、生徒会長の話が出て」
「相沢さんに、ってこと?」
「そう、みたいです」
おめでとう、と言いかけて——止まる。相沢さんの声のトーンが、おめでとうを求めていない。
「嫌なんですか」
投げた言葉は、自分でも驚くほど直球だった。けれど彼女は怒る風でもなく、ただ視線を遠く、茜色の空へと投げ出す。
「嫌、というわけじゃないんですけど」
そこで言葉が途絶えた。俺はその続きを急かすまいと、相沢さんの隣でただ歩みを揃えた。
公園の横に差し掛かったとき、相沢さんが「少し、いいですか」と短く言った。誘われるままベンチに腰を下ろす。
西日が長く伸び、遠くの砂場で遊ぶ子供たちのシルエットを黒く縁取っていた。相沢さんはしばらくの間、自分の指先を無言で見つめていた。やがて、重い口が開く。
中学時代の話だった。
相沢さんにはずっと仲の良い友人がいた。勉強も運動も得意ではないけれど、一緒にいると自然に笑えた、唯一の存在。
その友人が、ある日の放課後、相沢さんにこう告げたという。
「ねえ、あなたっていつも完璧すぎて、何考えてるかわからない。一緒にいると、なんか疲れる」
悪意はなかったはずだ、と相沢さんは力なく笑った。ただの、あまりに無邪気で正直な告白。
「正解しか言わない。分からないことは、分からないと切り捨てる。それがつまらなかったんだと思います」
相沢さんは膝の上で指を絡めた。
「それから、その子と少しずつ、離れていきました。私も、どう接したらいいか、わからなくなって」
俺は何も言わず、ただ影が伸びていく地面を見つめていた。
「それ以来、完璧にやることが……怖くなった時期もあったんですけど。でも、やめ方がわからなくて。気づいたら、もっと完璧にやるようになってた」
笑いながら言う。その表情は、あの『雨の中の告白』の屋上で見せた笑みに、どこか似ていた。
「青春研究部に入ったのは……失敗していい場所が欲しかったから、だと思います。黒瀬先輩の実験って、絶対うまくいかないじゃないですか」
「……確かに」
「うまくいかなくても、誰も責めない。私が失敗しても、場が崩れない。そういう場所が、初めてできた気がして」
相沢さんの横顔を見つめる。
街灯がついた。夕暮れが、夜に変わり始めている。
気の利いた台詞も、胸を打つような励ましも、俺の引き出しには入っていない。そんな自覚は痛いほどあった。それでも、言葉を繋がなければならないと思った。
「俺、相沢さんが完璧だと思ったこと、あんまりないですよ」
相沢さんの視線が、俺を捉える。その瞳がわずかに揺れた。
「あの時……雨の中の告白を再現した時、相沢さん、ずぶ濡れで笑ってたじゃないですか。あのとき、ちゃんと相沢さんだった」
完璧じゃないと言いたいわけじゃない。もどかしさに喉が詰まる。
「綺麗に整っていても、ボロボロに崩れていても、俺にとっては同じ相沢さんなんです。……だから、どっちだっていいんですよ」
我ながら何を言っているんだと思う。相沢さんも少し呆気に取られたような顔をしている。
けれど——彼女はまた、笑ってくれた。
あの時と同じ、形を整えるのを忘れたような、くしゃりとした笑い顔。
「……真田くんって、時々すごく変なこと言いますよね」
「自分でも、そう思います」
どちらからともなく笑いが込み上げ、俺たちはしばらくの間、声を合わせて笑った。
夜の公園、街灯の光が足元の水たまりに落ちている。その光は、揺れながら静かに夜を透かしていた。
ベンチから立ち上がり、いよいよ別れ際。
相沢さんが不意に足を止め、居住まいを正すようにして俺を振り返った。
「生徒会長、引き受けようと思います」
「……さっきの話と、どこかで繋がってますか」
「どうでしょう。繋がっているかもしれないし、そうじゃないかもしれない。自分でもよく分からないんです」
彼女はそこで言葉を切り、夜の冷たい空気を深く吸い込んだ。
「でも……たまには崩れに来ますね。研究部に」
その申し出に、俺の胸の奥がわずかに温かくなる。
「どうぞ。いつでも」
短くそう答えると、彼女は今度こそ軽やかな足取りで、街灯の光の中へと消えていった。
一人になった帰り道。
自分の内側が、少しずつ変質していくのを感じていた。
あのポスターを見た時、「馬鹿げている」と切り捨てながら、足は勝手に動いていた。
屋上でパンを分け合い、ホースの水にずぶ濡れになり、文化祭では柄にもなく「青春相談所」なんて看板を掲げた。
——俺、いつの間にか、観客席に座っているだけじゃなくなってる。
それが正しいことなのか、あるいは間違っているのか、今の俺にはまだ分からない。けれど、少なくとも胸の奥に灯ったこの熱を、嫌だとは思わなかった。
不意に、ポケットのスマホが震える。
液晶に浮かび上がったのは、黒瀬先輩の名前だった。
「次の研究テーマを決めた」
「なんですか、いきなり」
歩きながら返信すると、すぐに既読がつく。
「修学旅行」
俺は思わず足を止めた。続いて送られてきたメッセージは、さらに拍車をかけて突飛だった。
「青春研究部として、自分たちで行く」
「どこに、ですか」
「京都」
迷いのない二文字。嫌な予感がして、俺は核心を突く質問を投げた。
「予算は」
「……相談したい」
その一言に、俺は思わず夜空を見上げた。まばらな星が、俺の困惑をあざ笑うようにまたたいている。
——全く、ろくでもない。
けれど、そう思う自分の口元が、わずかに緩んでいることに気づく。
ろくでもない。でも、悪くない。
そんな矛盾した心地よさを抱えたまま、俺は再び、夜の道を踏みしめた。




