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青春研究部  作者: 琴坂伊織


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3/7

それでも僕らは青春を研究する

 開け放たれた窓から入る風には、ほんの少しだけ乾いた秋の匂いが混じり始めていた。それは汗ばんだシャツの襟元を、容赦なく、かつ静かに冷やしていく。


 放課後の部室に漂う、どこか締まりのない空気。それが俺たちの青春研究部の日常だ。黒瀬先輩がいつものように視線を右斜め下へ落とし、おもむろに口を開く。


「今日は——」


「文化祭の出し物、青春研究部として登録しました」


 相沢さんの涼やかな声が、先輩の言葉を断ち切った。それは、平穏な日常を木端微塵に砕く宣言だった。


 先輩は言葉を失い、視線を斜め下に固定したまま思考停止の海に沈んでいく。熱心に青春漫画をめくっていた小山田くんも、開いたページを指で押さえたまま、呆然と顔を上げた。


「いつの間に……」


 呆然と漏らした俺の問いに、相沢さんは淡々とした口調で応じた。


「生徒会の締め切りが昨日だったので。済ませておきました」


 相沢さんは平然と言ってのけた。相談も許可もなし。完全な事後報告だ。


 隣では小山田くんが「さすがです!」と言わんばかりに目を輝かせているが、黒瀬先輩はあまりの衝撃に石像のように固まっていた。相沢さんはそんな俺たちにお構いなしに言葉を続けた。


「青春研究部らしい出し物を考えました。『青春相談所』です」


 来場者から青春の悩みを募り、研究部員がその場で「青春的解決策」を提案するという企画。看板には「青春の専門家が答えます」と書く予定らしい。


「専門家……俺たちが?一番ないでしょう」


 俺の抗議は、すでに動き始めた相沢さんの準備リストの前に無力だった。


 相沢さんの指揮のもと、洗練された看板や秒刻みのタイムテーブル、隙のない想定問答集が次々と生み出されていく。


 並べられた成果物は、文化祭の「お遊び」を嘲笑うかのような、異様なまでの完成度を誇っていた。


 小山田くんが心血を注いで作り上げたのは、膨大な漫画の切り抜きやメモが綴じられた『青春相談事例集』という名の分厚いファイルだった。


 中を覗けば、「屋上での告白・成功率」「放課後の図書室で指が触れ合う確率」「曲がり角で食パンを咥えた美少女と衝突した際の対処法」など、古今東西の漫画から抽出された非日常なデータが、付箋の山とともにびっしりとファイリングされていた。


「……なあ。それ、全部漫画の知識だろ? 実体験ゼロの完全な武装理論だけど、本当に大丈夫なのか?」


「大丈夫ですよ、真田先輩! 予習は完璧ですから!」


 小山田くんは、一点の曇りもない笑顔で言い切った。


 先行きに暗雲が垂れ込めているのを感じつつも、相沢さんの指示に従って手を動かし続けた。視界の端に映る黒瀬先輩の存在が、今の俺にはひどく不確かで危ういものに思えた。


 準備は進んでいる。だが、当日が近づくにつれ、先輩は目に見えて寡黙になっていった。


 異変が決定的な形となって現れたのは、ある夜に届いた短いメッセージだった。


「文化祭、人が多いよな」


 そのあまりに当然すぎる問いに、俺は奇妙な違和感を抱きながら返した。


「まあ、文化祭ですから」


「……そうだな」


 会話はそこで途切れた。


 画面を閉じた後、部屋の静寂が急に重くなった。得体の知れない嫌な予感が、背中を這い上がってくるのを感じた。


 文化祭当日の朝。飾り立てられた教室で、机を並べ、看板を据える。


 青春相談なんて恥ずかしい名前の看板を見つめていると、胸の奥がむずがゆくなる。どうにも逃げ出したいような痒みが込み上げてくるのだ。


 だが、その痒みもすぐに消えた。正確には、消されたと言うべきか。


 開店三十分前。喧騒から切り離されたみたいに、黒瀬先輩は教室の隅でじっと壁を見つめて立っていた。その横顔から、俺は目を離せなくなっていた。


「先輩、大丈夫ですか」


「……人の顔が、見られない」


「それはいつものことでは」


 文化祭の喧騒が廊下に満ちている。見慣れた校舎は、見知らぬ生徒や保護者、他校からの外来者たちに侵食され、どこか落ち着かない熱を帯びていた。


 黒瀬先輩にとって、今日の学校は「不特定多数」という名の怪物と対峙しなければならない場所に変わっている。


「大丈夫ですよ。青春相談所なんて、どうせ冷やかしすら来ませんから」


 慰めの言葉は、先輩の心には届かないようだった。彼は視線を落としたまま、ぼそりと零す。


「……俺、いない方がいいんじゃないか」


「いや、部長がいないと始まらないでしょう」


「相沢さんがいれば回る。俺がいたところで……」


 黒瀬先輩が言いかけた言葉は、形にならないまま虚空に消えた。俺は必死に言葉を探したが、見つかるのは使い古された空っぽの慰めばかりだ。


 淀んだ空気を変えたのは、相沢さんだった。


「黒瀬先輩、記録係をお願いできますか。相談内容を漏らさずメモして、後で研究データとして集計してほしいんです」


 壁際で手帳に書き続けるだけでいい仕事。先輩の居場所を、相沢さんが静かに作ったのだ。


 彼女が差し出した救いの一手に、俺は打ちのめされた。鮮やかすぎるほどの最適解だった。


「人、きませんね……」


「……全くだ」


 机に突っ伏した小山田くんが、死にかけの蝉のような声を漏らす。彼が気晴らしに漫画へ手を伸ばそうとするのを、隣に座る相沢さんが鋭い視線で叩き落とした。


 壁の時計は、文化祭の開始から三十分が経過したことを無情に告げている。我らが青春相談所を訪れる者はなく、閑古鳥すら、退屈すぎてよそへ行ってしまいそうだ。


 唯一の収穫といえば、十分前に「青春相談所? なにこれ、ヤバくない?」という無駄にテンションの高い女子グループの声が、ドア越しに通り過ぎていったことくらいだ。


「青春相談所? なにこれ」


 ほら、まただ。


 反射的に、心のシャッターを下ろす。どうせ鼻で笑われ、品定めするように一瞥されて終わりだ。そう決めつけて視線を落としたままでいた。


 けれど、次の瞬間に聞こえたのは「面白そう」という明るい一言だった。


 廊下の喧騒が、開いたドアから一気に流れ込んでくる。入ってきたのは、制服を少し着崩した女子生徒の二人組だ。


「ねぇねぇ、あれ、相談しちゃいなよ」


 遠慮なく椅子を引き、一人が腰を下ろす。その屈託のない声が、淀んでいた室内の空気を鮮やかに塗り替えていった。


「じゃあ、相談しちゃうか」


 女子生徒は軽いノリで応じると、中央に座る小山田くんを真っ直ぐに見据えた。


「あのさ……好きな人に、どうしても話しかけられないんだよね。どうすればいいと思う?」


「まずは接触回数を増やすことです! 『ザイオンス効果』といって、人間は会う回数が増えるほど相手に好意を抱くもので……えーと、なんだっけ。その、つまり……」


 小山田くんは鼻息荒く、今朝読んできたばかりであろう漫画の知識を披露し始めた。が、見せ場の解説で早くもエンジンの回転が止まる。彼の浅い知識の底は、開始十秒で露呈した。


 女子生徒たちの視線が、困惑の色を帯びて泳ぎだす。小山田くんの失態をこれ以上放置するのは忍びなく、俺は会話の主導権を奪い取った。


「……話しかけるきっかけなんて、別に高尚な理由じゃなくていいんですよ。消しゴム貸して、の一言が言えるなら、それで十分合格点じゃないですか」


「あ、……そっか。確かにそうかも」


 女子生徒の表情に、ようやく柔らかい色が戻る。そんな彼女たちを差し置いて、小山田くんが感銘を受けたような顔で俺を凝視した。


「真田先輩、今のすごいです。……でも、どの漫画にも載ってませんでしたよ?」


「漫画はあくまで漫画だ。現実は、紙の上には載ってない」


 突き放すような俺の答えに、相沢さんが耐えきれないといった様子で、くすりと笑い声をこぼした。


 良い流れは続いていた。女子生徒と入れ替わりで入ってきたのは、内気そうな男子生徒だ。


「グループの中で、自分だけ浮いている気がするんです」


 相沢さんは答えを探すように、一度視線を落とした。数秒の空白。その間、部屋の時計の音だけが妙に大きく響いた。


「……共通の趣味を、話題にしてみてはどうでしょうか」


 返ってきたのは、綺麗に整えられた無難な回答だった。


 男子生徒は「そうですよね」と小さく頷き、出口へと向かう。ドアが閉まる音には、どこか割り切れない重みが混じっていた。


 独り残された相沢さんの横顔は、どこか寂しげに見えた。


 午後。相談所は予想外の活気に包まれていた。しかし、繁盛の裏には常にトラブルの火種が潜んでいる。


「青春の専門家? 笑えるんだけど。お前らが一番青春してなくね?」


 教室に入ってきたのは、同じクラスの男子グループだった。無邪気な、それゆえに残酷な嘲笑。その一言で、室内の温度が数度下がったのがわかった。


「ほら、あそこの壁際にいるやつ。いかにも『陰キャ』って感じだし。お前に相談して何が解決すんの?」


 黒瀬先輩の手元で、愛用の手帳が震えていた。彼は亀が甲羅に隠れるように肩をすくめ、視線を床の染みに落とす。


「……やっぱり、俺。いない方が、いいよな」


 相沢さんは、凍りついたように動かない。俺の脳裏にはいくつもの罵倒が浮かんだが、どれも決定打には足りず、ただ苦い唾を飲み込むことしかできなかった。


 先輩が逃げるように立ち上がろうとした、その瞬間だった。


 遮るように、小山田くんがその一歩を踏み出した。


「……青春の中にいないからこそ、僕たちはそれを研究してるんです。……それの、なにがおかしいんですか」


 借りてきた漫画の決め台詞でも、昨日までに用意した想定問答でもない。肺の奥から絞り出したその声は、確かに震えていた。


 けれど、彼の視線だけは一度も逸れることなく、真っ直ぐに相手を射抜いていた。


 静寂が、教室を支配する。


 浅はかな悪意は、その純粋な言葉に居場所を奪われた。男子生徒たちは気まずそうに目を泳がせ、足早に教室を去っていく。


 胸を圧迫していた重い空気は霧散し、あとに残ったのは、どこか清々しい凪のような静けさだった。


「……やるじゃん。小山田くん」


 思わず、口をついて出た。


 さっきまで漫画の知識を早口で捲し立てていたはずの一年生が、今はどこか誇らしげで、それでいて居心地悪そうに立ち尽くしている。


 今、目の前に立っているのは、自らの言葉で戦い、その余熱に戸惑っている一人の後輩だった。


「……本当に悪い人なんて、そうそういません。みんな、少しだけ想像力が足りないだけなんです」


 はにかむような、それでいてどこか悟ったような笑み。


 小山田くんの顔は、みるみるうちに耳の付け根まで朱に染まっていく。彼は自分の言ったことの重大さに今更気づいたかのように、照れ隠しに手元の資料をいじり始めた。


 その後、大きな波乱もなく、文化祭の幕は静かに下りた。客足は、成功と呼ぶには控えめだが、失敗と切り捨てるには惜しい――そんな、妙に現実的な数字だった。


 俺たちの回答に納得した者もいれば、そうでなかった者もいる。


 自分の言葉に責任を持てたのか、何度も自問自答を繰り返し、その度に胃のあたりが重くなる。そんな葛藤を置き去りにして、文化祭は終わりを告げた。


 後片付けの最中、黒瀬先輩が珍しく自分から口を開いた。


「俺は今日、役に立たなかったな」


「……そうですね」


 慰めの言葉を吐くのは、かえって先輩に失礼な気がした。


 先輩は、小さく息を吐いて続ける。


「でも、小山田くん。君は、良かった」


「え……?」


「あれは、漫画の受け売りじゃなかった。お前の、本当の言葉だったよ」


 それは、今日一日、壁際で誰よりも他人を観察し続けてきた男による、何よりも純度の高い賞賛だった。


 小山田くんが、言葉を失って沈黙した。不意に差し出された、飾り気のない、けれど真摯な賞賛。


 黒瀬先輩は、相変わらず視線を斜め下の床に落としたままだ。けれど、そこから発せられた声には、これまでにない確かな重みがあった。


「俺にはまだ、ああいう言葉は出てこない。……だから、まだ研究が必要なんだ」


 それは、いつもの自虐ではなかった。自分を「ダメだ」と切り捨てるのではなく、「まだ途中にいる」と認める、静かな宣言。


 隣でそれを聞いていた俺の頬が、自然と緩む。


 夕闇の迫る教室で、俺は込み上げる喜びを隠すように、そっと小さな笑い声を漏らした。


 帰り道。


 黒瀬先輩は「後片付けは俺がやっておくから」と一人残り、小山田くんは小山田くんで、今日が発売日の新刊を求めて駅の方へと猛ダッシュしていった。


 不意に訪れた、相沢さんとの二人きりの時間。


「今日の相談。二番目の、グループで浮いてるって言ってた男子のこと」


「……気になりました?」


「相沢さん、答えにくそうだったから」


 図星だったのか、彼女の歩く速度が少しだけ落ちた。まるで、言葉を選ぶための時間を稼ぐかのように。


「……そう、見えていたんですね」


 否定も肯定も含まない、淡いため息のような声だった。相沢さんは前を見つめたまま、ただ隣を歩く俺にだけ聞こえる音量で続けた。


「私、グループの中にいても……いつも、少しだけ外側にいる気がするんです。どれだけ完璧に振る舞っていても、境界線が消えないというか」


 ふいに彼女の足元で、アスファルトの影が長く伸びた。


「……なんだか今日は、少し疲れましたね」


 それ以上は踏み込ませない。彼女はふっと表情を和らげ、まるで今の独白をなかったことにするように、穏やかな、けれど壁のある微笑みを浮かべた。

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