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青春研究部  作者: 琴坂伊織


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1/7

青春研究部へようこそ

 廊下は、解き放たれたエネルギーの奔流だった。


 階段を駆け下りる音、名前を呼ぶ叫び声、そして誰かが弾くピアノの旋律。あらゆる音が混ざり合い、放課後という名の不協和音を奏でている。


 その中に一人。


 不協和音にすらなれない男がいる。


「帰るか……」


 予定のない放課後。それこそが俺の予定だ。


 高校生活も二年目。


 期待していた劇的な変化などどこにもなく、事件も、運命の出会いも、物語の伏線すら落ちていない。


 ――どうやら俺の人生は、驚くほど退屈なまま完成してしまったらしい。


 脳内を支配したセンチメンタルなナレーションを自覚し、あまりの気恥ずかしさに顔から火が出そうになる。何を格好つけてポエムを紡いでいるんだ、俺は。


 何もしなければ、何も残らない。


 そんなこと、頭では痛いほど理解している。けれど、一歩を踏み出すための熱量は、今の俺のどこを探しても見当たらなかった。


 昇降口へ向かう廊下、部活動の勧誘ポスターがひしめく掲示板の前で足が止まった。野球部や吹奏楽部といった色鮮やかな紙面に混じって、一枚だけ、素っ気ないほどに白い紙が貼られている。


『青春研究部 部員募集』


 写真も、活動内容の紹介もない。ただ「青春を研究したい者求む」とだけ記されたその紙は、賑やかな掲示板の中で奇妙な空白のように浮き上がっていた。


 思わず足が止まり、その一行を凝視してしまう。


「青春を研究……?」


 意味は分からない。だが、一度意識に引っかかったその言葉は、棘のように離れなかった。


 帰宅部特有の所在なさが、背中を後押しする。数秒の沈黙の後、小さく息を吐くと、そこに記された教室へと向かって歩き始めた。


「なにしてんだろ、俺」


「馬鹿げている」と切り捨てようとした。けれど、胸の奥でざわつく名状しがたいノイズが、その理性を容赦なく塗り潰していく。


 指定された教室の扉を開けると、そこには「青春研究部」を名乗る三人の先客がいた。……本当にいた。しかも三人も。


 教室の主のように机の前に陣取るのは、三年生の黒瀬先輩だ。その前では、一年生とおぼしき男子と真面目そうな女子生徒が、一心不乱にメモを取っていた。


 俺が室内に足を踏み入れても、黒瀬先輩は視線すら動かさない。ただ静かに、何事かを語り続けている。


「青春とはなにか。それは夕焼けの屋上で語り合うことだ」


 なぜか断言している。


 黒瀬先輩は、極度のコミュ障だ。人と目が合えば、三秒と持たずに視線を逸らしてしまう。だから今も、彼は右斜め下の地面を凝視したまま、滔々と青春について断じている。


「あの……。なにしてるんですか?」


 混乱のさなかで発した俺の問いを、黒瀬先輩は静かな、あまりに静かな声で受け止めた。


「青春の研究だ」


「いや……それは知ってるんですけど。研究内容の方を聞いてるんですが」


 呆然と立ち尽くす俺に、聞き覚えのある涼やかな声がかけられた。


「真田くん、だよね。ようこそ、青春研究部へ。良ければ好きな席に座ってください」


「生徒会の相沢さんが……どうしてここに?」


 品行方正を絵に描いたような、学年一の優等生。


 そんな彼女が、よりによってこんな『とち狂った』部活に籍を置いているなんて。目の前の光景が、にわかには信じられなかった。


「部長にかわって、部活内容を説明しますね」


 相沢さんは真っ直ぐに俺を見つめた。その瞳には、冗談を寄せ付けないひたむきさが宿っている。


「青春研究部は、眩しい季節を奪われた人たちのための場所です。あの日体験するはずだったシチュエーションを自分たちの手で再現し、その体温を確かめる……。それが私たちの活動目的です」


「……ごっこ遊び、ってこと?」


「もっと真剣なものです。青春をやり残した人間が集まって、理論と実践によって『後付けの青春』を構築する。それがこの部の存在意義ですから」


 相沢さんが黒瀬先輩に視線を送る。


 しかし相沢さんの視線に、黒瀬先輩は気付かない。相変わらず明後日の方角を見つめたまま、彼は至極真面目なトーンで告げた。


「青春ドラマや漫画を参考に青春の定番シーンを集めている。今から再現するのだが、お前も一緒にどうだ」


「先輩、青春漫画なら屋上での語り合いは外せません!」


 弾かれたように声を上げたのは、大きな丸眼鏡をかけた小柄な男子生徒だった。彼は興奮を抑えきれないといった様子で、身を乗り出してくる。


「彼は一年の小山田くんです」


 意味が分からず硬直する俺に、相沢さんがそっと言葉を添える。違う、そこを聞きたいわけじゃない。


「屋上の使用許可はすでに取ってあります」


 相沢さんが淡々と報告する。


 どうやら今日の研究テーマは、『夕焼けの屋上で語り合う青春』に決まったみたいだ。そんなテンプレートな一幕を、彼らはこれから演じることになるらしい。


「俺、もう帰りますから」


「まぁ待てって」


 帰宅部としての本能を察知したのか、黒瀬先輩が光速で割り込んできた。


 確かこの人、コンビニのレジですら挙動不審になるコミュ障だったはずだ。青春への歪んだ憧憬が、彼を変質させてしまったのかもしれない。


 先輩は相変わらず視線を泳がせたまま、しかし切実な声で言った。


「人数が多ければ多いほど、それは輝かしい青春になる。……お願いだ。屋上へ、一緒に」


「嫌ですよ。そんな青春ごっこに付き合うなんて、馬鹿馬鹿しい」


 不意に視線がぶつかる。吸い込まれそうなほど真っ直ぐな、けれどひどく怯えた瞳だった。先輩はすぐに耐えきれなくなったように視線を床へ落とした。


「ポスターを見たとき、君は馬鹿げていると思ったはずだ。……それでも、君はここにきた。違うか?」


 反論しようとして、唇が震えた。胸を掻きむしるような、不快なノイズ。それが何なのか、今の俺には定義できない。


「頼む。……一回だけでいい。一回だけでいいんだ」


 こんなに必死に頼まれたら、断るのも悪い。


 そんな、誰に対してのものかも分からない言い訳が頭に浮かんだ。


「分かりました。……一回、一回だけですよ」


 嬉しさを隠しきれない様子で黒瀬先輩が頷き、真っ先に教室を後にする。小山田くんがその背中を追い、俺も小さくため息を吐いて後に続く。


 ふと視界の端を掠めたのは、一人残って教室の鍵をかける相沢さんの姿だった。俺たちは階段を一段ずつ踏みしめていく。


 屋上に広がっていたのは、燃えるような茜色の世界だった。


 計算し尽くされたタイミングで風が吹く。その一瞬だけを切り取れば、非の打ち所がない青春ドラマのワンシーンだった。


「条件は完璧だ」


 黒瀬先輩は口角をわずかに上げ、深く頷きながら言葉を漏らした。


「屋上までついてきましたけど、結局、何を語り合うつもりなんですか?」


 燃えるような夕焼けに目を細めながら、階段を登っている間ずっと喉につかえていた疑問をぶつけた。


 屋上で語り合うのが青春の作法。それ以外に、あの会議で中身のある話など出ただろうか。


「……」


 屋上を包んだのは、救いようのない沈黙だった。


 どうやら青春研究部の面々は、青春っぽいシチュエーションを考えることに全精力を注ぎ込み、肝心な何を話すべきかまでには頭が回っていなかったらしい。


「漫画だとここで将来の夢とかを話します」


 小山田くんが漫画で得た知識を自信満々に披露したが、あいにくこっちは何の準備もできていない。いきなり将来を語れだなんて、この夕焼けよりも重たすぎる。


「では、順番に発表していきましょう」


 相沢さんが居住まいを正し、真面目なトーンで切り出した。


 しかし、続くはずの黒瀬先輩は、緊張のあまり喉を詰まらせている。結局、またしても沈黙が訪れた。


 将来の夢など何ひとつ持ち合わせていない俺にとって、その静寂は救いでもあり、同時に、逃げ出したくなるほど居心地の悪いものでもあった。


「青春にはパンを分け合うシーンもある。……そう思いませんか」


 この窒息しそうな空気を切り裂いたのは、小山田くんの唐突な一言だった。


 彼はどこに隠し持っていたのか、おもむろに食パンの一斤を取り出すと、戸惑う俺たちの手に次々と白い塊を握らせていく。


 夕焼けに染まった屋上で、四人は言葉を失ったまま、ただパンをちぎった。


 茜色の空の下、沈黙は継続中。けれど、その中身は変質した。


 四人が四人、無言でパンをちぎり、口に運ぶ。


 もぐもぐと顎を動かし、夕日を眺める。


 将来の夢なんて立派なものはそこにはなかったが、ただ、やけに香ばしいパンの匂いだけが、屋上の風に乗って流れていった。


 ――絶対にこれ、青春じゃないだろ。


 心の中でそう毒づかずにはいられなかった。夕日に照らされ、無言でパンを食む男女四人。客観的に見て、何かの宗教の儀式にしか見えない。


 だが、どういうわけか俺以外の三人は、やり遂げたような顔でパンを咀嚼している。


「ふぅ。今日の研究結果は……」


 黒瀬先輩が、口の端にパン屑をつけたまま、神妙な面持ちで手帳を取り出した。


「雰囲気の再現については概ね成功。ただし、会話内容には深刻な課題あり……と。次はもう少し、情緒のある話題を準備しよう」


 いや、課題はそこじゃない。真面目な顔で総括を始めた先輩を見て、俺は遠い目をして飲み込みにくいパンを胃に流し込んだ。


「ぶっちゃけ聞きますけど、これって意味あるんですか?」


 部活動の終わりを告げるチャイムが遠くで鳴っていた。俺が呆れ半分に尋ねると、黒瀬先輩は真剣な顔で考え込んだ。


「……あると思う。たぶん」


 三年生。


 卒業という出口が視界に入って初めて、彼は気づいたのだという。


 自分の三年間には、いわゆる『青春』の輝きが欠落していることに。放課後の寄り道も、胸を焦がすような恋も、彼にとっては異世界の出来事だった。


「普通にやる勇気はないんだ。だから、これは研究なんだよ」


 照れ隠しのようなその言葉が、夕闇に溶けて消えた。彼はただ、手遅れになる前に、一度でいいからその熱に触れてみたかっただけなのだ。


 先輩の告白を、俺はしばらくの間、咀嚼した。


 今日の活動を思い返せば、確かに滑稽で、およそ効率的とは言えないものだった。


 けれど、ただ漫然とスマホを眺めたり、教室の片隅で時間が過ぎるのを待っていた放課後よりも、ずっと「生きた心地」がしたのも事実だ。


 意味があるかどうかは分からない。ただ、この馬鹿げた時間のほうがずっと「マシ」だということだけは、確信できた。


「……一人でいるよりはマシ、ということですか」


 問いかけると、先輩は「ああ」と短く、噛み締めるように答えた。


「ぼっちはみんな、友だちに飢えている。認めたくないだけで、ずっと空腹なんだ」


 笑いながら放たれたその言葉が、胸にすとんと落ちる。


 相沢さんも、小山田くんも。この場所に集まった俺たちは、みんな同じ空腹を抱えていた。その事実が、奇妙に俺を安心させた。


 別れ際、黒瀬先輩が仰々しく次回の研究テーマを宣言した。


「次は、『雨の中の告白』を研究する」


「予報は晴れですよ」という俺の抗議は、もはや無意味だった。


 相沢さんは「ホースで代用できます」と淡々と準備を始め、小山田くんは「全力疾走パターンもやりましょう!」と拳を握っている。


 誰一人として、俺の言葉を聞いていない。


 ――ああ、これは間違いなく、最悪の結果にしかならない。


 ろくでもない結末への確信と、わずかばかりの好奇心。そんな矛盾を抱えたまま、俺たちの歪な青春の幕が上がった。

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