青春研究部へようこそ
廊下は、解き放たれたエネルギーの奔流だった。
階段を駆け下りる音、名前を呼ぶ叫び声、そして誰かが弾くピアノの旋律。あらゆる音が混ざり合い、放課後という名の不協和音を奏でている。
その中に一人。
不協和音にすらなれない男がいる。
「帰るか……」
予定のない放課後。それこそが俺の予定だ。
高校生活も二年目。
期待していた劇的な変化などどこにもなく、事件も、運命の出会いも、物語の伏線すら落ちていない。
――どうやら俺の人生は、驚くほど退屈なまま完成してしまったらしい。
脳内を支配したセンチメンタルなナレーションを自覚し、あまりの気恥ずかしさに顔から火が出そうになる。何を格好つけてポエムを紡いでいるんだ、俺は。
何もしなければ、何も残らない。
そんなこと、頭では痛いほど理解している。けれど、一歩を踏み出すための熱量は、今の俺のどこを探しても見当たらなかった。
昇降口へ向かう廊下、部活動の勧誘ポスターがひしめく掲示板の前で足が止まった。野球部や吹奏楽部といった色鮮やかな紙面に混じって、一枚だけ、素っ気ないほどに白い紙が貼られている。
『青春研究部 部員募集』
写真も、活動内容の紹介もない。ただ「青春を研究したい者求む」とだけ記されたその紙は、賑やかな掲示板の中で奇妙な空白のように浮き上がっていた。
思わず足が止まり、その一行を凝視してしまう。
「青春を研究……?」
意味は分からない。だが、一度意識に引っかかったその言葉は、棘のように離れなかった。
帰宅部特有の所在なさが、背中を後押しする。数秒の沈黙の後、小さく息を吐くと、そこに記された教室へと向かって歩き始めた。
「なにしてんだろ、俺」
「馬鹿げている」と切り捨てようとした。けれど、胸の奥でざわつく名状しがたいノイズが、その理性を容赦なく塗り潰していく。
指定された教室の扉を開けると、そこには「青春研究部」を名乗る三人の先客がいた。……本当にいた。しかも三人も。
教室の主のように机の前に陣取るのは、三年生の黒瀬先輩だ。その前では、一年生とおぼしき男子と真面目そうな女子生徒が、一心不乱にメモを取っていた。
俺が室内に足を踏み入れても、黒瀬先輩は視線すら動かさない。ただ静かに、何事かを語り続けている。
「青春とはなにか。それは夕焼けの屋上で語り合うことだ」
なぜか断言している。
黒瀬先輩は、極度のコミュ障だ。人と目が合えば、三秒と持たずに視線を逸らしてしまう。だから今も、彼は右斜め下の地面を凝視したまま、滔々と青春について断じている。
「あの……。なにしてるんですか?」
混乱のさなかで発した俺の問いを、黒瀬先輩は静かな、あまりに静かな声で受け止めた。
「青春の研究だ」
「いや……それは知ってるんですけど。研究内容の方を聞いてるんですが」
呆然と立ち尽くす俺に、聞き覚えのある涼やかな声がかけられた。
「真田くん、だよね。ようこそ、青春研究部へ。良ければ好きな席に座ってください」
「生徒会の相沢さんが……どうしてここに?」
品行方正を絵に描いたような、学年一の優等生。
そんな彼女が、よりによってこんな『とち狂った』部活に籍を置いているなんて。目の前の光景が、にわかには信じられなかった。
「部長にかわって、部活内容を説明しますね」
相沢さんは真っ直ぐに俺を見つめた。その瞳には、冗談を寄せ付けないひたむきさが宿っている。
「青春研究部は、眩しい季節を奪われた人たちのための場所です。あの日体験するはずだったシチュエーションを自分たちの手で再現し、その体温を確かめる……。それが私たちの活動目的です」
「……ごっこ遊び、ってこと?」
「もっと真剣なものです。青春をやり残した人間が集まって、理論と実践によって『後付けの青春』を構築する。それがこの部の存在意義ですから」
相沢さんが黒瀬先輩に視線を送る。
しかし相沢さんの視線に、黒瀬先輩は気付かない。相変わらず明後日の方角を見つめたまま、彼は至極真面目なトーンで告げた。
「青春ドラマや漫画を参考に青春の定番シーンを集めている。今から再現するのだが、お前も一緒にどうだ」
「先輩、青春漫画なら屋上での語り合いは外せません!」
弾かれたように声を上げたのは、大きな丸眼鏡をかけた小柄な男子生徒だった。彼は興奮を抑えきれないといった様子で、身を乗り出してくる。
「彼は一年の小山田くんです」
意味が分からず硬直する俺に、相沢さんがそっと言葉を添える。違う、そこを聞きたいわけじゃない。
「屋上の使用許可はすでに取ってあります」
相沢さんが淡々と報告する。
どうやら今日の研究テーマは、『夕焼けの屋上で語り合う青春』に決まったみたいだ。そんなテンプレートな一幕を、彼らはこれから演じることになるらしい。
「俺、もう帰りますから」
「まぁ待てって」
帰宅部としての本能を察知したのか、黒瀬先輩が光速で割り込んできた。
確かこの人、コンビニのレジですら挙動不審になるコミュ障だったはずだ。青春への歪んだ憧憬が、彼を変質させてしまったのかもしれない。
先輩は相変わらず視線を泳がせたまま、しかし切実な声で言った。
「人数が多ければ多いほど、それは輝かしい青春になる。……お願いだ。屋上へ、一緒に」
「嫌ですよ。そんな青春ごっこに付き合うなんて、馬鹿馬鹿しい」
不意に視線がぶつかる。吸い込まれそうなほど真っ直ぐな、けれどひどく怯えた瞳だった。先輩はすぐに耐えきれなくなったように視線を床へ落とした。
「ポスターを見たとき、君は馬鹿げていると思ったはずだ。……それでも、君はここにきた。違うか?」
反論しようとして、唇が震えた。胸を掻きむしるような、不快なノイズ。それが何なのか、今の俺には定義できない。
「頼む。……一回だけでいい。一回だけでいいんだ」
こんなに必死に頼まれたら、断るのも悪い。
そんな、誰に対してのものかも分からない言い訳が頭に浮かんだ。
「分かりました。……一回、一回だけですよ」
嬉しさを隠しきれない様子で黒瀬先輩が頷き、真っ先に教室を後にする。小山田くんがその背中を追い、俺も小さくため息を吐いて後に続く。
ふと視界の端を掠めたのは、一人残って教室の鍵をかける相沢さんの姿だった。俺たちは階段を一段ずつ踏みしめていく。
屋上に広がっていたのは、燃えるような茜色の世界だった。
計算し尽くされたタイミングで風が吹く。その一瞬だけを切り取れば、非の打ち所がない青春ドラマのワンシーンだった。
「条件は完璧だ」
黒瀬先輩は口角をわずかに上げ、深く頷きながら言葉を漏らした。
「屋上までついてきましたけど、結局、何を語り合うつもりなんですか?」
燃えるような夕焼けに目を細めながら、階段を登っている間ずっと喉につかえていた疑問をぶつけた。
屋上で語り合うのが青春の作法。それ以外に、あの会議で中身のある話など出ただろうか。
「……」
屋上を包んだのは、救いようのない沈黙だった。
どうやら青春研究部の面々は、青春っぽいシチュエーションを考えることに全精力を注ぎ込み、肝心な何を話すべきかまでには頭が回っていなかったらしい。
「漫画だとここで将来の夢とかを話します」
小山田くんが漫画で得た知識を自信満々に披露したが、あいにくこっちは何の準備もできていない。いきなり将来を語れだなんて、この夕焼けよりも重たすぎる。
「では、順番に発表していきましょう」
相沢さんが居住まいを正し、真面目なトーンで切り出した。
しかし、続くはずの黒瀬先輩は、緊張のあまり喉を詰まらせている。結局、またしても沈黙が訪れた。
将来の夢など何ひとつ持ち合わせていない俺にとって、その静寂は救いでもあり、同時に、逃げ出したくなるほど居心地の悪いものでもあった。
「青春にはパンを分け合うシーンもある。……そう思いませんか」
この窒息しそうな空気を切り裂いたのは、小山田くんの唐突な一言だった。
彼はどこに隠し持っていたのか、おもむろに食パンの一斤を取り出すと、戸惑う俺たちの手に次々と白い塊を握らせていく。
夕焼けに染まった屋上で、四人は言葉を失ったまま、ただパンをちぎった。
茜色の空の下、沈黙は継続中。けれど、その中身は変質した。
四人が四人、無言でパンをちぎり、口に運ぶ。
もぐもぐと顎を動かし、夕日を眺める。
将来の夢なんて立派なものはそこにはなかったが、ただ、やけに香ばしいパンの匂いだけが、屋上の風に乗って流れていった。
――絶対にこれ、青春じゃないだろ。
心の中でそう毒づかずにはいられなかった。夕日に照らされ、無言でパンを食む男女四人。客観的に見て、何かの宗教の儀式にしか見えない。
だが、どういうわけか俺以外の三人は、やり遂げたような顔でパンを咀嚼している。
「ふぅ。今日の研究結果は……」
黒瀬先輩が、口の端にパン屑をつけたまま、神妙な面持ちで手帳を取り出した。
「雰囲気の再現については概ね成功。ただし、会話内容には深刻な課題あり……と。次はもう少し、情緒のある話題を準備しよう」
いや、課題はそこじゃない。真面目な顔で総括を始めた先輩を見て、俺は遠い目をして飲み込みにくいパンを胃に流し込んだ。
「ぶっちゃけ聞きますけど、これって意味あるんですか?」
部活動の終わりを告げるチャイムが遠くで鳴っていた。俺が呆れ半分に尋ねると、黒瀬先輩は真剣な顔で考え込んだ。
「……あると思う。たぶん」
三年生。
卒業という出口が視界に入って初めて、彼は気づいたのだという。
自分の三年間には、いわゆる『青春』の輝きが欠落していることに。放課後の寄り道も、胸を焦がすような恋も、彼にとっては異世界の出来事だった。
「普通にやる勇気はないんだ。だから、これは研究なんだよ」
照れ隠しのようなその言葉が、夕闇に溶けて消えた。彼はただ、手遅れになる前に、一度でいいからその熱に触れてみたかっただけなのだ。
先輩の告白を、俺はしばらくの間、咀嚼した。
今日の活動を思い返せば、確かに滑稽で、およそ効率的とは言えないものだった。
けれど、ただ漫然とスマホを眺めたり、教室の片隅で時間が過ぎるのを待っていた放課後よりも、ずっと「生きた心地」がしたのも事実だ。
意味があるかどうかは分からない。ただ、この馬鹿げた時間のほうがずっと「マシ」だということだけは、確信できた。
「……一人でいるよりはマシ、ということですか」
問いかけると、先輩は「ああ」と短く、噛み締めるように答えた。
「ぼっちはみんな、友だちに飢えている。認めたくないだけで、ずっと空腹なんだ」
笑いながら放たれたその言葉が、胸にすとんと落ちる。
相沢さんも、小山田くんも。この場所に集まった俺たちは、みんな同じ空腹を抱えていた。その事実が、奇妙に俺を安心させた。
別れ際、黒瀬先輩が仰々しく次回の研究テーマを宣言した。
「次は、『雨の中の告白』を研究する」
「予報は晴れですよ」という俺の抗議は、もはや無意味だった。
相沢さんは「ホースで代用できます」と淡々と準備を始め、小山田くんは「全力疾走パターンもやりましょう!」と拳を握っている。
誰一人として、俺の言葉を聞いていない。
――ああ、これは間違いなく、最悪の結果にしかならない。
ろくでもない結末への確信と、わずかばかりの好奇心。そんな矛盾を抱えたまま、俺たちの歪な青春の幕が上がった。




