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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

桐原光と三十一文字の誘惑。

作者: 川上桃園
掲載日:2026/01/16

【遊戯のルール】

 一つ、土宮紫穂つちみやしほ桐原光きりはらひかるの秘密をばらさない。

 二つ、桐原光は文芸部に所属すること(仮入部でも可)。

 三つ、桐原光は短歌をつくり、土宮紫穂の心を動かすこと。挑戦回数に制限なし。

 四つ、桐原光は挑戦に失敗するたび、土宮紫穂から『罰ゲーム』を受けるものとする。

 五つ、この遊戯は桐原光の挑戦が達成されるまでつづく。


 放課後が訪れた高校の校舎。その片隅にある文芸部室にて。短歌の講評をしていた少女はノートから顔をあげた。前髪が黒縁眼鏡にかかるほど長い。だが奥の瞳は、はっとするほどの知性と美しさを秘めている。今はさらにうっすらと氷が張っているようだった。


「……と、いうわけで。桐原光さん、今日も不合格でした。またがんばりましょうね」

「なっ、どうしてっ!」


 無情な判定に光はソファから勢いよく立ち上がって相手を睨む。文芸部長の土宮紫穂は薄くほほえむばかりだ。それが光のカンにさわる。


「今回こそはって思ったのにっ!」


 体の前で拳を握る光。爆発した感情の余波を受け、ウェーブのかかった明るい茶髪がひとつ大きく揺れた。光はいわゆる「ギャル」だ。髪のスタイリングは三十分ごとで気になるし、メイクは欠かせない。制服のスカートは短めがマストだ。対して、紫穂は地味だが清楚な文学少女を「装っている」。


――そうじゃなかったら、アタシがこんなところにいるわけないし!


 紫穂は光の憤慨に動じず、淡々と切り返す。


「むしろこの出来で私の心を震わせることができると思っていたの?」


 光の眼が途端にうろうろとさまよいはじめるが。


「で、でもさあ! アンタの採点基準はちゃんと公平なわけ!? いくらでもでっちあげられるんじゃないの!」

「そんなことしないよ。――文芸には真摯であるべき。今日はどうとってもだめだめでした。ほら、桐原さん、罰ゲームの時間です」


 「罰ゲームの時間です」。これを聞いた光の心臓が早鐘を打つ。

 紫穂は光の隣に座る。古いソファが小さく軋んだ。それだけで光は「これから起こること」を想起してしまい、体がかちこちに硬くなる。


「あ、あの、さ……なんか、近いんだけど」

「そうだね。まだ慣れない?」


 蜂蜜がにじむような声は、至近距離で聞こえてくる。光は言い訳をした。


「な、慣れないし! 友だちでもこんなに近づくことないし……」


 そうかもね、と紫穂は相槌を打つ。テーブルに紫穂の眼鏡が置かれる音。ソファがさらに軋む。気配は体に触れそうなほどに近い。


「キスできそうな距離だね」


 斜陽が差し込む部室。ふたりきり。ふいに投げ込まれた言葉は、光を動揺させるには十分だ。


「じょ、冗談だよね……」


 紫穂は肯定も否定もしなかった。光の髪へ手を伸ばし、人差し指でくるくると絡めてあそんでみせる。髪そのものに触覚はないのにくすぐったい。光の視線は吸い寄せられるように紫穂の指先からその顔へ。視線が交錯する。紫穂は光が抵抗できないのがわかったからか、口角をあげた。


「桐原光は蜘蛛の巣にかかった獲物だね? クラスの人気者が嘘をついて、みんなをだまして――弱みを握られて、私の言いなりになってる」


 サイアク、と反発を込めて告げれば、紫穂は低い声で応じた。


「……なんとでも言えばいい。それでもほしいものがあるから」

「なんだよ、それ」

「桐原光の心」


 迷いない返答に、光の息がとまる。――今、このタイミングでそれゆう!?

 行き場もないのに感情のまま振り上げた拳は、紫穂の視線で制せられた。


「だめ。今は私の時間です。ほら、耳を貸して。それが【遊戯のルール】だったでしょう?」


 指摘されれば弱い。拳は膝の上に戻る。紫穂は前髪をかきあげた。雪のように白い額があらわになり、紫穂の怜悧な美人ぶりが際立つ。同じクラスにいても気づかなかった、紫穂の「秘密の顔」。校内で知るのはきっと光だけ。ぎゅっと目をつむる。たいしたことのない罰ゲームだ。動揺なんてしてやらない、と心で呟く。

 紫穂は光の小さな耳に顔を近づけた。紫穂の呼吸音まで光の鼓膜を震わせる。


「『指先で強がりの殻をこわしてかわいいひかるに触れてあげる』……」


 紫穂の声はぐんと甘い。頭がゆだったようにぼうっとなってしまう。これまでささやかれた「短歌」と同じように。





 はじまりは、教室で光がついていた「嘘」にある。友人たちが彼氏からのプレゼントについて話しているうちに、光のことに話が及んだのだ。


「ひかるん、今月誕生日だったっしょ。大学生のカレシならいいものくれそうだね~」


 悪気ない友人の一言で、光は「カレシからの誕プレ」をみんなに見せることになってしまった。


――『存在しない』カレシからの誕プレ、なんてどうやって用意するわけ。


 光はだれとも付き合っていない。が、小さな誤解が周知の事実になって、今になっても訂正できないでいたのだ。

 その週末、光は街中のジュエリーショップで偽装用のシルバーネックレスを購入した。金欠になるが仕方ない。平穏な学校生活のためだった。

 オープンハートのペンダント。中央のストーンはメルヘンみたいにきらめく。着用したネックレスは気分を高揚させた。

 光はうきうきで店を出た。それを、クラスメートの土宮紫穂に目撃されたのだった。

 週明けの教室で、光が「カレシからの誕プレ」を友人たちに見せていると、席に座る紫穂と目が合った。彼女はふいに自分のシャツのボタンをひとつ、外した。真っ白な肌の上で輝くオープンハートのシルバーネックレス。

 ひみつだね。唇だけ動かしてみせた紫穂の顔は一生忘れられない。光は紫穂を問いただそうとしたが、逆に文芸部に連行された。

 うちの文芸部を見学したいって言ってくれたよね、と。紫穂は光の友人たちを前にありもしない事実をでっちあげた。


「桐原さんは、短歌に興味あるみたい」

「は!? タンカ? だれがそんなふざけたこと……!」


 反射的に短歌をけなしたことが、よくなかった。紫穂は特別教室棟の最上階にある部室へ光を連れていき、【遊戯のルール】を持ちかけた。光に短歌をつくるように強いたのだ。


「短歌が『ふざけているか』。自分の眼で確かめてもらわないと。短歌で私の心を動かすことができればあなたの勝ち。秘密は墓場まで持っていってあげる」


――よくわからないけど、かんたんでしょ。


 根拠もなく光はそう考えていたのだが、不合格だったら、と尋ねれば。


「そのたびにあなたの耳へ甘い短歌をささやいてあげる。耐えきれなくなったら私の勝ち。桐原さんは私の恋人になるし、文芸部にも正式入部する」

「なにそれなにそれ! 信じらんないんだけど!」

「自信がないの?――私に口説き落とされるかもしれないって」


 紫穂の声にひそやかさが増していく。低く、甘く。それが妙に光の心をざわつかせた。


「そ、そんなわけないし! 女子にささやかれたぐらいで落ちないし! 楽勝だし!」


 突然、紫穂は眼鏡を外してテーブルに置く。重く垂れた前髪を邪魔そうにかきあげる。

 つるりとした額があらわになり、紫穂の整った顔を否応なく意識させられた。


――土宮さんって、こんなに美人だったっけ……?


 遠くで、五時を告げるチャイムが鳴り響いていた。眼前の紫穂は目を伏せながら耳を澄ませているようだった。棗型の眼は美しく、澄んだ色をしていた。急に光は、自分が紫穂に迫られている体勢になっていることに気づき、恥ずかしくなった。息すらも忘れそうになる。紫穂は告げた。


「なら遊戯は成立だね――よろしく、桐原さん」


 紫穂に手を差し出され、光は無意識に応じた。ぐ、と紫穂が思い切り光の手を引く。光の体が紫穂のいる方へ倒れかかった。光の耳に、紫穂はすばやくささやきかけた。


「『はじまりのベルを鳴らして好きと言う かきけさないで胸のひかるを――』」

「あっ……やめっ」


――アタシ、動揺しちゃっているじゃん……!


 紫穂からは甘いフローラルな香りがした。


「今のが、短歌が不合格だった時の罰ゲーム……案外、すぐに勝負がつくかもね?」


 紫穂は捕食者のような顔で微笑んでいた。そんなわけない、と光は食いつくが。


――まだ、耳に「言葉」が残ってる。


 悔し紛れに、光は「――ぜってー勝つし!」と、息まいたのだった。

 紫穂は毎日、光を迎えにくるようになった。友人に囲まれていようが関係なく「文芸部いこうね」と光の手を引いていくので逃げられない。部室に入ると、紫穂が二人分のお茶を淹れるまでが毎回の流れだった。

 この日も光は紫穂からカップを受け取ると、少し飲んでから短歌用のノートを開く。

 通いはじめこそ「楽勝だし!」と光は強がっていた。だが今になっても何の言葉も思い浮かばない。ノートはほとんど真っ白だ。


――短歌って、むっず……。


「桐原さんはちっとも私に話を聞いてこないね。いつ言い出すかなって待っていたのに。短歌についても、教えてあげるのに」

「え、えらそーにすんな! ア、アタシだってこれぐらい」


 言いかけた光の視線が、紫穂の冷静なそれと交わって逸れていく。


「無知は恥ずべきことではないよ。無知なのに、知っている、とごまかすことこそ恥ずかしい。だって自分にはわからないことで、あとで困るのは自分だから」


 紫穂の声は柔らかだったから、光も素直にそうかも、と思った。だが。


「膠着状態がつづくのは、私にもよくない。せっかく桐原さんを落とすための短歌を楽しく考えているのに」

「そ、そんなの知るかっ! そっちは罰ゲームじゃん、罰ゲーム」


 光がわめくと、紫穂は何も言わず伏し目になる。光の胸に罪悪感のようなものが湧いてきた。だから――。


「……ぉしえて」


 光の絞り出した声に、紫穂はふわっとした笑みを浮かべた。


「いいよ。教えてあげる」


 紫穂は待ち望んでいた答えをもらえたような、うれしそうな顔をする。光の前に、部室の本棚にあった本が何冊も並べられた。


「短歌は、五・七・五・七・七の三十一音で構成される詩のこと。これは私のおすすめの入門書や歌集ね。まずは読んでみるのがいいと思う」


 紫穂は簡単に短歌のルールを説明してくれた。

 季語は必要としない。

 音の数え方。「っ」や「ー」は一音で数えるが、「きゃ」「しゅ」「りょ」といった音は一音として数える。

 句同士をまたいで音を置いてもいい。たとえばひとつの単語が五音と七音の句にまたいでもよい。

 三十一音から不足するのも、オーバーするのもあり。ただ型に慣れていない初心者は音数を守ったほうが無難。


「こんがらがりそう……」


光の正直な感想に紫穂はくすりと笑い、テーブルの上にある本を光の方へ押し出した。

 短歌は好きでも嫌いでもない。もちろん作ったこともない。何も知らないのだ。


――土宮さんが何を考えているのかも、知らない。なんで「遊戯」を持ち出してきたのかも、わからないんだ……。


「あのさ、土宮さんもつくってるんでしょ、短歌。見せてよ」


 え、と紫穂は大げさなほど驚いていた。変なことを言ったつもりはないのに。


「……ちょっと意外だったから」


 尋ねれば、紫穂は口元を押さえた。


「作品はクラウド上でリストにして保存しているからメールで送れるよ」

「ん、わかった。メアド教えるわ」


 光はその場で紫穂と連絡交換を済ませた。紫穂の視線が、スマホ画面に表示された光の連絡先を丹念になぞる。


「……明日も部室に来るのなら。お茶ぐらい淹れてあげる」


 やがてスマホを仕舞った紫穂は冷たくなった紅茶を飲みつつ小さく告げたのだった。


 翌週の放課後。部室でノートに文字を書き込んだ光は、よし、と気合を入れ、紫穂にノートを見せた。


「ほら! 短歌、一個つくった!」

「……本当に?」

「信じてよ! 授業中もせんせーの話そっちのけで考えたのに! ちゃんと読んでよ!」

「授業は聞いておいたほうがいいと思うけれど」


 紫穂は光のノートを受け取った。渾身の一作を読んだ後、ノートを返してくる。光は反応しない紫穂へ胸を張った。


「どう? 完璧っしょ」


 紫穂は額に手を当て、息を吐いた。視線が冷たい。


「桐原光さん、つくった短歌を読みあげてくれる?」

「ん? まあ、機嫌がいいからいいけど」

「『やばくない? 古典の伊藤 昼休み 美術の岸と不倫してたよ!』」

「なにか、気づくことは?」


 光は首を傾げた。紫穂がさらにため息をつく。


「桐原さんは、これで私の心が動かされると思ったの」

「おもしろくない?」

「つまらないけど」


 容赦ない一言だった。


「はっ? なんで!」

「だってどうでもいいことでしょ。だれとだれが不倫関係でも。桐原さんの交友関係なら気になりはするけど」


 もっともな指摘にぐうの音も出ない。紫穂はアドバイスを続けた。


「桐原さんは、もっと私のことを考えなくちゃだめ。頭を抱えてうんうんとうなって、寝てもさめても私でいっぱいになって……私が読みたいのは、そんな桐原光の短歌だから」

「いかがわしく聞こえるんだけど!」


 そうかな、と紫穂は優雅にカップを傾けた。


「ちなみに一応、聞いておくけれど。伊藤先生と岸先生の不倫は本当?」

「え、嘘だけど」


 紫穂はあきれた目をした。


「やっぱり。短歌でも事実を誇張することはあるけれど、そこには狙いがないと。次からはもう少し、読む人にどんなふうに感じてほしいか、考えてみたら?」

「……むずくない?」

「むずかしいからやりがいがあるんだよ。……さ、桐原さん、耳を貸して」


 光はとっさに耳をおさえた。


「や、やだ……ほんとうにやるの?」

「恥ずかしい?」


 光の視線の先で紫穂が眼鏡を外し、重苦しい前髪をかきあげていた。紫穂から流し目をされてしまうと、光の心臓はどきどきと高鳴り始める。

 紫穂は光へ手を伸ばし、光の耳を押さえていた手を優しく外すと、自分の口元を寄せた。紫穂の呼気が耳に当たって、光はひゃっ、と肩をすくめた。


――また変な声が。


 光は自分の口を手で押さえる。その仕草が面白いのか、紫穂が微笑む気配がした。そして――甘い声で短歌をささやく。

『ひそやかな恋は扉の内側で語るもの 鍵がほしい あなたの』

 前回もそうだったけれども、落ち着かない気持ちになる。わーっと叫びだしたくなるような恥ずかしさだった。――いやいや、なに考えているの、アタシ! 


「……顔、真っ赤だね、桐原さん」


 そういわれたら体が震えるほど悔しい。でも、何も言い返せない。だって事実なのだから。紫穂の気配が遠のく。


「でも、一首、つくれたね。ゼロとイチは、天と地ほどの差がある。次は最初のものよりいいものがつくれるはず」




 昔、絵を描くのが好きだった。クレヨンで画用紙にぐりぐりと描くのが。だが夏休みの宿題で、絵がうまい子の提出物を見たときに「自分ではできない」と思った。その子は光の絵を見て、馬鹿にしたように笑った。そこから絵を描くことに「飽きてしまった」。

 『次は最初のものよりいいものがつくれるはず』。紫穂はそう言ってくれたが。


――本当かな。飽きっぽくて、夢中になれるものもなくて、他人の目を気にしてばかりのアタシが……。何かをつくりだせるのかな。


 みんなが望むように振る舞ったほうが楽だ。中学の時、友人のいうことに少し疑問を投げかけただけで、かんたんに仲間外れになった。高校では今のところ「人気者の桐原光」でいられている。嘘をついているから。


――短歌をつくるなんて、アタシらしくない。でも。

 

 きっかけは紫穂の脅しでも、それだけで足しげく文芸部に通い続けているわけではない気がした。

 光は二首目をつくるのに苦戦していた。紫穂が「ヒント、聞く? 人の心を動かすような短歌をつくるための、コツ」と言ったので、光は前のめりになる。


「そんなのあるならもっと早く教えてよ!」

「……『自分が心を動かされた瞬間を短歌にすること』。桐原さんの中で心動いた瞬間を考えてみて。自分の心が動くようなものでなければ、他人の心も揺らせないから」


 あともうひとつね、と紫穂は指を折って数える。


「必ずしも、リアルな出来事を詠まなければならないわけではなくて、想像でもいいから。そう思えば、気楽におもわない? もし、ああいうことが起きたら、自分はこう思うし、こんな反応をするな、みたいな。共感を生む短歌をつくれるよ」

「……やってみる」

「あと、尊敬する歌人の言葉で、気に入っているものがあるの。……『一首でも短歌をつくることができたなら、もうその人は歌人と名乗っていい』。だからがんばって、『歌人』桐原光さん」

「アタシが……歌人?」


 勝手に胸がどきどきと高揚した。勇気の出る魔法の言葉みたいだった。


「元気、出てくるでしょう?」

「うん……って、いや、そう簡単にだまされないし!」


 紫穂は、ふふ、とまた笑い、読書に戻った。

 それから数十分後、光はノートから顔をあげた。


「二首目ができた! 朗読するからちゃんと聞いてよ」


 咳払いをした光は読み上げる。

『お気に入り バッグをもって 町にいく アンタに会って テンション下がる』

 どうよ、と紫穂に評価を迫る。紫穂は光から受け取ったノートで短歌を確認した。


「そうね。一首の中で感情の動きを出そうという気持ちだけは買ってあげる。最初の五七五で情景をつくり、次の七七で心象を語る。とても短歌らしいと思う。読むひとの共感を呼ぶタイプの短歌だね」


 でしょ、と光は鼻高々になる。ほめられたのは、そこまでだった。


「視点がひとつ欠けているかも。これを読んだ私がどう思うか、想像した? テンション下がると言われた私の気持ち。……とっても、かなしい」


 紫穂は目元を手で隠した。――やば! やりすぎた!?


「ちょ、待った! え、と、わざとじゃないし! な、泣くなって」


 桐原さん、と紫穂はか細い声で呼ぶ。光はおろおろとしたが。

 目元を覆っていた手をふいにどかした紫穂は不敵に笑う。ふたつの目はからりと乾いたままだ。


「……おしおきしてあげるから、耳を貸して?」

「なっ……! アンタ、だましたわけ! うそつき!」

「でも傷つけられた分、たっぷり口説かせてもらわないとわりにあわない」


 これは仕方ないことだ。自分に言い訳した光だが、紫穂の次の行動に抗議した。


「ちょ、なんで、膝に乗り上げてくるわけ」

「正面からのほうがどきどきするでしょう?」


 光の髪を耳にかけようと紫穂の指先が動く。一緒に光の耳をかすめていく。そわっとした感覚になって、光は肩をすくめた。勝手に頬に熱が集まる。光は下を向いた。紫穂の声が満足げなものになる。


「かわいいね、桐原さん」

「からかわないでよ……ほら、はやく……おわらせて」


 目をつむり、その時が来るのを待つ。カチャリと眼鏡がテーブルに置かれる音。紫穂が髪をかきあげる音も、光の聴覚は敏感にとらえる。

 紫穂は光の耳に短歌を囁きかけた。

『地下鉄のエスカレーターで上がるよう 晴れやかなふたりになれる きっと』

 祈りと優しさのある声が光の頭に染み込んでいく。


「この短歌、ちゃんと桐原さんの短歌の返しになっているんだけど、わかった?」

「アタシの短歌は『下がる』と言ってて、土宮さんは『上がる』という言葉を入れてるところ……?」

「正解。一首の中で、桐原さんは感情が下がる方向に持っていったけど、私のものは、逆に上げてみたよ。これは、私の願いでもあるから」


 紫穂の手がほめるように光の髪先に触れる。くすぐったい。だがはねのけようとは思わなくなっていた。


「今の短歌、アタシのを聞いてすぐに思いついたわけ」

「桐原さんの短歌を読みながらどう返そうか、必死で考えていたからね。あとは慣れ。……桐原さんにはまだむずかしいね?」

「む、むかつく!!」

「次作にも期待していますよ、桐原さん」


 ふん、と光は鼻を鳴らすと当てつけのようにカップの残りを飲み干した。


「ごちそーさま! 今日はもう帰る!」

「また明日」


 紫穂は余裕そうに手をふってみせた。

 光が部屋を出て階段まで来たときのことだ。女子生徒とすれ違った。彼女の進行方向には文芸部室がある。まさか、と気にせずに通り過ぎた。きっと、別の部室に用があるに違いない。




 なんでアタシなわけ。光は紫穂に思い切って聞いてみた。この時も紫穂は「好きな人は桐原光だ」と言ってみせたものだから。


「カレシからの誕プレだといってみんなにネックレスを見せてまわる嘘つきなのに」


 紫穂は膝の上でカップを包み込むように持っていた。


「多かれ少なかれ、みんな自分を大きく見せたがるものだから。桐原さんの場合、知らないうちに話が大きくなっていって、引っ込みつかなくなっちゃった感じかな?」


 唇に乗せた微笑は柔らかだ。悔しいことに紫穂の指摘は事実だった。


「桐原光は、周囲を照らす光のようなひとだね。まぶしいだけじゃなくて、周囲を大事に思ってる。空気を読もうとして、ちょっと無理もしてしまう」


 自嘲のような笑みが紫穂の陶器のような肌にひらめく。


「光の裏にある影を見つけたら、まるごと抱きしめたくなるでしょう? 桐原さんの失敗は、私みたいな人間の前で隙を見せたことだよ」


 紫穂の眼に甘さが宿る。よく知りもしなかった時には、気づきもしなかったのに。


――やばい、どうしよ。ちょっとぐらっときたかも。


「今の状況は願ったりかなったりかな。桐原さんはこうして私と話してくれている」

「じゃあ、私がアンタの望むような短歌をつくれたら」


 どうするの、と言いかけた光だが、突然、部室の扉ががらっと開いた。ジャージをスカート下にはいた小柄な女子が立っている。胸で結ばれたオレンジのリボンからして、一年生だ。彼女は小脇に本を抱えながらずんずんと大股で紫穂へ近づく。


「おつかれっす。紫穂先輩、部室の本を返しにきました」


 光にも礼儀正しく会釈してから、彼女は紫穂に話しかけた。紫穂はごく普通に応じた。


「ありがとう。面白かった?」「いや、いまいちでしたね~。姉が言っていたとおりっす」「篠塚さんならそう言いそうって思っていたわ。今日も何か借りていく?」「じゃあ、二巻を借りていきます」「はまっているじゃない」


 気取らない紫穂の笑みに、光ははっとなる。――そんな顔、できたんだ。


「いえ、あそこまでいったら続きだけは気になるんですよ。主人公カスですけど」


 紫穂は本棚から一冊抜き出し、篠塚という後輩に手渡した。彼女はぴょこんとお辞儀して礼を言い、あっさりと部室を出ていく。ガタン、と扉が閉まり、部室が静まりかえる。


――あの子、だれ。土宮さんと親しそうだったし、「紫穂先輩」なんて。


 心の中がうるさくなる。紫穂が光の疑問に気づいたのか、穏やかに説明する。


「篠塚さんはたまにここの本を借りに来るの。お姉さんがこの部のOGで、私も一年生のときにお世話になっていて」


 簡潔でさっぱりとした説明だ。だが光のもやもやは消えてくれない。


――文芸部、ほかに入る人がいないって言っていたけれど、いるんじゃないの。アタシじゃなくても、いいじゃん。


 元気でかわいげのありそうな後輩だった。


――短歌を教える相手も、アタシじゃなくたっていいよね。


 この部室で紫穂から甘い短歌をささやかれる篠塚を思い浮かべ、むかむかがちっとも落ち着かない。


――アタシががんばったって、意味ないもん。


「たまに来るだけの子だから、気にしなくてもいいよ。桐原さん、今日は調子が悪い? メモも進んでいないみたいだけれど」

「……やだ」


 え、と紫穂の目が戸惑う色を見せた。光はとまれなかった。


「いやだっつってんの! あーもう、やだやだやだ!」


 がたん、と音を立てて起立する。カップのお茶が大きく揺れてテーブルにこぼれる。開いていたノートにしみていく。もう戻れないような気がした。


「嫌いでしょ、アタシのことが、作っても、短歌はだめで、アタシもうやだ!」


 見上げてくる紫穂の眼が大きく見開かれる。


「それって短歌……?」


 紫穂の声は聞こえていたけれど、光はノートが濡れてしまったことに激しい罪悪感があった。涙腺が緩んでしまいそうになる。


「もういい……もうやだ……」


 目が熱い。光はハンカチでごしごしとノートの水分を拭いて、鞄に入れた。いきおいよくでていく。階段にさしかかったところで頭が冷える。


――やっちゃった。なんで、アタシあんなこと。


 出ていくとき、背中に「桐原さん!」と焦ったような声が聞こえた気がしたが、聞こえなかったふりをして、そのまま階段を下りたのだった。



 翌日。授業中はかろうじてもっていた天気だが、放課後にさしかかるころには雨が降りだしていた。紫穂はいつのまにか教室からいなくなっていた。

 光はのろのろと帰り支度をした。玄関先で折り畳み傘を探し、やば、と呟く。傘を忘れた。うらめしげに空を見上げても空模様は簡単に変わらない。小雨になるまで待つか迷っていると、背後からがやがやと人の話し声が近づいてきた。吹奏楽部が楽器を移動させているらしい。その行列の中に、知った顔が通りかかった。

 つい先日に部室へ乱入してきた篠塚だ。大きな金管楽器を抱えている。篠塚は吹奏楽部だったのだ。かなり忙しいと聞く部活だから文芸部とも掛け持ちはできないだろう。

 篠塚は豪快に笑いながら通り過ぎていく。彼女の居場所はきっとあそこにあるのだ。


――じゃあ、土宮さんは。


 ひとりきりだ。光が行かないままなら。

 気づけば踵を返し、特別教室棟に向かっていた。渡り廊下にさしかかったところで、ぴかぴかっと空が光り、遅れてごろごろと雷が聞こえてくる。――雷だ。足早になる。

 部室のドアを開けると、薄暗い内部に電気はついていない。だがカップがテーブルにある。紫穂の鞄も定位置に置いてある。紫穂は部室に来ているのだ。

 いつも紫穂が座るソファに、毛布の塊が落ちていた。とても大きい。毛布をめくれば、紫穂が膝を抱えていた。


「うわっ! いるじゃん」


 紫穂はおもりがついているようなのろさで頭を上げた。


「来たのね。お茶、いれるから……」


 声に元気がない。紫穂は床に足を下ろして立ち上がりかけたが、また雷。紫穂が中途半端に動きをとめた。顔が強張っている。「土宮さん?」


「待って」


 紫穂がまた動こうとすると、雷が鳴る。紫穂の肩がぴくりと震える。紫穂の体がいつもより小さく見えた。――もしかして。


「アンタ、雷が怖いわけ……?」


 中腰のままの紫穂が上目遣いになる。


「お腹を出していたら雷神様におへそを取られてしまうのよ……?」


 紫穂の拗ねたような言い分に、光は吹き出した。


「ははっ、だから丸まっていたわけ? ばかみたいじゃん……」


――土宮さんの手、震えてる。


「ごめん。怖いものは人それぞれじゃんね」


 光はごく自然に紫穂の手をつつむようにして握っていた。ソファに並んで座る。素直にそうしたいと思ったのだ。


「……実は昔、ほんの数メートル先で雷が落ちてから、少し苦手になってしまって」

「そっか……」

 雷の音が途切れたタイミングで、光は立ち上がって、部屋の電気をつけた。


「お茶、今日はアタシが淹れてあげる」


 光はストックから適当に出したティーバッグでほうじ茶を淹れた。カップをふたつ、横に並べてからまたソファに座る。ぽつり、と紫穂が一言。


「淹れる前にカップをあっためたほうがおいしいのに」

「今言うな! いいの!」


 見せつけるようにずずっと豪快にカップを傾けた光だが、あつっ、と悲鳴をあげた。


「桐原さん……もう来ないと思ってた」


 近くはないものの、雷の音はまだ続く。紫穂は光の制服の裾を握っていた。


「この部室での時間は私にとっては楽しい時間だったけれど、あなたにとってはそうではないでしょうし……いつああなってもおかしくなかった」


 紫穂の言い分を聞くうち、光は腹が立ってきた。


――最初に脅してきたのはそっちじゃん。


 今日はしおらしくしているからこちらも調子が狂うが、はじめたのは、紫穂のほうだ。


――こっちが楽しくないと思ってる、なんて決めつけるなよ……!


「アタシ、前の短歌の罰ゲームはまだだし!」

「前の短歌って……」

「あれだよ、あれ。奇跡的に短歌になってたやつ」


 光はスマホの画面で『嫌いでしょ、アタシのことが、作っても、短歌はだめで、アタシもうやだ!』と見せた。光も口に出したときは気づいていなかったが、紫穂の呟きで思い返し、メモしておいたのだ。


「やっぱりとっさに出たんだ……」


 紫穂が心から感心しているので、光も溜飲が下がる。


「アタシもやればできるでしょ。まぐれだけど!」

「……でもまだ不合格かな。込めた気持ちは理解するけれど。桐原さんは……もっと、いいもの、作れるでしょ?」


 最後の微笑みは挑発的だ。光の心に対抗心がめらめらと燃え上がる。


「結果がわかったところで……桐原さんが望んだとおり、口説いてあげるから耳貸して?」

「望んでないし!」


 光は一応の抵抗を見せるが、あきらめて耳にかかる髪をよけた。紫穂は光へ見せつけるように眼鏡を外し、前髪をかきあげた。光の耳にそっと触れ、短歌を吹き込む。

『雷に射抜かれぬよう、寄り添ってくれたあなたは英雄になる』





 アタシ、ほんとはカレシがいたことないんだよね。

 放課後の教室で、光は勇気を出して友人のひとりにこっそりと打ち明けた。一世一代の告白だが、彼女は想像以上にあっさり受け入れた。


「ま、みんな、他人の恋愛事情なんてそこまで気にしてないでしょ。いい感じのときに、彼氏と別れた〜と言っておけばそれでいいんじゃね?」


 別にだれの迷惑になっていない。むしろ彼氏持ちばかりの中にいたら言いにくかっただろう、と気遣われた。さすがに誕プレ偽装用のネックレスを買ったことには「いたいね~」と笑っていたが。光はいい友達に恵まれていたのだ。


「あのさあ。アタシ、嘘のこと、ちゃんと言えたよ」


 友人と話した後、紫穂が迎えにきたので廊下を歩きながら顛末を伝えた。紫穂と繋がれた手に力がこめられる。


「見てたよ。それなら私とはじめた賭けはもう終わりだね」

「そうかもしれないけど。でも、最初からばらすつもりなかったでしょ」

「どうしてそう思うの」

「アタシのことが好きだから。土宮さんは好きな人が嫌がることをしない。カンだけど」

「私のこと、わかってきたんだ?」

「……ちょっとだけね」


 部室に辿り着き、紫穂はお茶をいれようとした。光は入り口に仁王立ちで腕組みをしていたが、意を決して口火を切る。


「アタシ、昨日の夜に一首できたんだけど。お茶を飲む前に聞いてくれない?」

「いいよ。まだお湯を沸かしているところだから」


 紫穂はケトルのスイッチを入れた。


「じゃ、そこに座って!」

「はい」


 ソファの定位置に座った紫穂に光は回り込む。なにをされるか察した紫穂は警戒の目を向けた。


「まさか桐原さん……やり返す気?」


 紫穂の頬が赤らんでいる。光も同じだった。


――うわ、やってみるとちょっと恥ずい、かも。


 でも、と気合を入れ直す。


「今回は自信作だから。今までの仕返しするチャンスでしょ!」

「……いじわるね」


 「紫穂には負けるけど」と言えば、下の名前を呼ばれた紫穂が目を丸くし、息を飲む。


「ほら、目をつむってって! これ、すっごく恥ずかしいんだからさあ!」


 紫穂がおとなしく目を閉じる。光はその耳に短歌をつぶやく。

『嘘つきをやめれる決意ができたんだ ホントは感謝してるよ、紫穂に』

 紫穂の心に届くように、そっと言葉を乗せてみる。反応をうかがう。紫穂はゆっくり目を開け、短歌を囁かれた右耳をおさえ、うらめしそうに光を見た。


「……光は、文芸部に正式入部するつもりはある?」


 紫穂も光を名前で呼んだ。


「このまま入るのもいいかなって……やめるのも、面倒だし」


 短歌をつくるのも悪くなかった。自分がいなかったら紫穂がまたひとりで部活をしていると考えると、それはいやだと思うのだ。


「でも! アタシが紫穂のことが好きとか、そんなのじゃないし! ただこの部活の時間のことは、好き、だとはおもうから、さ……。い、いまはそんな感じなんだけど、わるい!?」

「……いいんじゃない? 意外と、私にもチャンスがありそう」


 紫穂は不敵な笑みを浮かべて立ち上がる。


「そ、そんなの、なっ……」

「アリか、なし、でいうと、どっち?」

「アリ、かも……」


 渋々と認めれば紫穂は光の頭を撫でた。心臓が激しく鼓動を刻む。


――あれ、アタシ、案外紫穂のことが……。


 ケトルがカチッと音を立てて沸騰を告げた。紫穂は用意していたティーバッグをカップに放り込み、お湯を注ぐ。ふたりきりの静かな時間だった。じわりと透明な熱湯にお茶の色が滲んでくる。そのまま見つめていると、紫穂が体を寄せてきたことに気づく。


「光。さっきの短歌の結果なんだけど――」


 紫穂の声にはたっぷりの砂糖がまぶされていた。


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