サイドストーリー:白百合は枯れて、罪と咲く
私の世界から、色が消えた。
正確に言えば、色は存在している。教室の窓から見える空は青く、木々の緑は目に鮮やかで、クラスメイトたちの髪の色も、制服の色も、昨日までと何も変わらない。けれど、それら全てが、私にはまるで古びたモノクロ映画のワンシーンのようにしか映らない。私の心だけが、色を認識する機能を失ってしまったかのようだった。
廊下の向こうで、彼が笑っている。水無月湊くん。私の、本当のヒーローだった人。
彼の隣には、太陽のような女の子が寄り添っている。星乃陽彩さん。明るく染めた髪を揺らし、屈託のない笑顔を彼に向けている。二人は、誰がどう見ても幸せそうだった。彼らの周りだけ、世界は鮮やかな色彩を取り戻し、温かい光に満ちている。
私は、その光景を柱の影から盗み見る。胸が、きゅう、と締め付けられる。それは嫉妬などという生易しい感情ではなかった。もっと、どうしようもなく惨めで、醜い、後悔という名の棘だった。
あの場所には、本来、私がいたのかもしれない。
そんなありえない夢想が、私の心を蝕んでいく。
周囲の生徒たちが、時折、私に同情的な視線や、好奇の視線を向けてくるのを感じる。
「あの白鷺院さんが、火野に騙されてたんだって」
「一家離散したらしいよ、火野のところ。白鷺院家の力、ヤバすぎ」
「まあ、自業自得だけど、白鷺院さんも可哀想だよな」
囁き声が、私の耳を通り抜けていく。可哀想?違う。私は、可哀想などではない。私は、ただ愚かだっただけ。そして、その愚かさの対価を、今、こうして支払っているに過ぎない。
かつて完璧だと称賛された「白鷺院麗華」という名の鎧は、もうどこにもない。中身は空っぽで、ただ罪悪感と後悔だけが、がらんどうの心の中で虚しく響いていた。
家に帰っても、安らぎはなかった。
父も母も、火野家の一件にはもう触れない。彼らにとって、あれは家の名誉を汚した害虫を「駆除」しただけのこと。全ては滞りなく処理され、日常は元通りになった。その冷徹なまでの日常が、逆に私の孤独を際立たせる。誰も、私の心の傷には気づかない。いや、気づいていても、気づかないふりをしている。白鷺院家の令嬢は、常に完璧で、強くあらねばならないのだから。
私は自室のベッドに倒れ込み、天井を見つめる。すると、忘れたいはずの記憶が、望みもしないのに勝手に再生され始めるのだ。
なぜ、私は火野隼人という男を「ヒーロー」だと信じてしまったのだろう。
今思えば、おかしな点はいくつもあった。彼が語る過去の武勇伝は、どこか薄っぺらく、私の記憶の中の光景とはディテールが異なっていた。私の記憶の中のヒーローは、いつも物静かで、決して自分の手柄を誇示するような人ではなかったはずだ。
けれど、当時の私は舞い上がっていた。長年、おとぎ話の王子様のように探し続けた人に、やっと会えた。その高揚感が、私の目を曇らせた。微かな違和感に蓋をして、私は自ら進んで、都合の良い物語を信じ込もうとした。
「お前、俺のこと、ずっと探してたんだろ?」
あの男は、そう言って得意げに笑った。私は、その笑顔の中に潜む軽薄さを見抜くこともできず、ただこくこくと頷くことしかできなかった。
彼に体を許した夜のことを思い出す。
「俺が、お前のヒーローだからな」
そう囁かれ、私は全てを委ねた。痛みよりも、ヒーローに愛されているという恍惚感が勝っていた。これで私も、物語のヒロインになれたのだと、愚かにもそう信じていた。彼が私に向ける欲望の眼差しを、愛だと錯覚していた。全ては、私の願望が生み出した、甘美な幻想だった。
だから、スマートフォンであの悍ましいやり取りを見た時、世界が崩壊する音を聞いた。悲しかった。裏切られた怒りもあった。けれど、それ以上に心を支配したのは、自分の愚かさに対する、どうしようもない絶望だった。
私は騙されたのではない。自ら、騙されにいったのだ。
そして、追い打ちをかけるように、私は真実を知る。
図書室で、湊くんに問い質したあの日。彼は、自分がした善行の数々を、ほとんど覚えてすらいなかった。「困っている人がいたから、当たり前のことをしただけ」。その無自覚な優しさこそが、私が焦がれていた「ヒーロー」の本質そのものだった。
ああ、なんてことだろう。本物は、ずっと、すぐそばにいたのに。
私は、ダイヤモンドの原石をただの石ころだと思い込み、その隣に転がっていた偽物のガラス玉を、必死に磨き上げていたのだ。その愚かさに気づいた時、私は声もなく泣いた。
偽物に汚されてしまった自分は、もう、彼の隣に立つ資格がない。そう思った。
けれど、私の罪は、それだけではなかった。
記憶の蓋が、さらに開かれる。
火野隼人と付き合う、ほんの数日前のことだ。
あの図書室で、湊くんにヒーローの話をした後、私はひどく浮かれていた。きっとすぐに見つかる。そうすれば、私の長年の恋が叶うのだと。そんな私の前に現れたのが、星乃陽彩さんだった。彼女は、火野くんたちと同じグループにいる、私とは住む世界が違うと思っていた女の子。
彼女は、私の前に立ちはだかると、真っ直ぐな瞳で、こう言ったのだ。
「あんた、水無月くんの気持ち、何も知らないんだね」
唐突な言葉に、私は戸惑った。
「水無月くんが、どれだけあんたのことを好きだったか、知らないでしょ。あんたがヒーローの話をするのを、どんな顔で聞いてたか、見てなかったでしょ。自分の気持ちを全部殺して、あんたの幸せを願って、身を引いたんだよ、あの人は!」
彼女の言葉は、まるで弾丸のように私の胸を撃ち抜いた。
湊くんが、私を?
信じられなかった。あの物静かで、いつも穏やかな彼が?
けれど、星乃さんの瞳は、嘘をついているようには見えなかった。
「それなのに、あんたは平気な顔して火野なんかと付き合うわけ?あんたのこと、陰でなんて言ってるか知らないでしょ。あんな男のどこがいいの。湊の優しさの方が、よっぽど本物だよ!」
そう言い捨てて、彼女は去っていった。
私は、その場に立ち尽くした。湊くんが、私を好きだった。その事実が、頭の中で何度も反響する。
どうすればいい?私は、どうすればよかったのだろう?
あの時、私は選択を迫られていたのだ。まだ見ぬ、物語の中の「ヒーロー」。そして、今、すぐそばで私を想ってくれている、現実の「水無月湊」。
私は、選んでしまった。
物語を、選んでしまったのだ。
湊くんの想いを知りながら、私はそれを無視した。彼の優しさを、踏みにじった。長年焦がれたヒーローという幻想を、現実の彼の温かい想いよりも、優先してしまったのだ。
これこそが、私の犯した、最も重く、取り返しのつかない罪だった。
火野隼人への復讐は、その罪から目を逸らすための行為でしかなかった。
自分の愚かさ、自分の罪深さを認めたくなくて、私は全ての怒りを彼にぶつけた。父に一言、「火野隼人という男に、我が家の名誉を著しく傷つけられました」と告げるだけで、全ては終わった。白鷺院家の力は、私の想像を遥かに超えていた。彼の会社は潰れ、家族は路頭に迷い、彼自身も社会的に抹殺された。
その報せを聞いた時、私の心は不思議なほど凪いでいた。喜びも、達成感もなかった。ただ、空っぽの心が、より一層、空虚になっただけ。憎しみは、私を救ってなどくれなかった。
そして、私は見てしまった。屋上で、湊くんと星乃さんが、幸せそうに抱き合う姿を。
ああ、そうか。と、すとんと納得してしまった。
星乃さんは、彼の優しさを見つけ、信じ、ずっと隣で支え続けてきたのだ。一方の私は、彼の優しさを受け取り続けてきたにもかかわらず、それに気づくことさえしなかった。挙句の果てに、彼の想いを知りながら、それを無下にした。
彼が彼女を選ぶのは、当然の結末だった。私に、彼の隣に立つ資格など、最初からなかったのだ。
私は今、一人きりの教室で、夕日が沈んでいくのを眺めている。
オレンジ色の光が、机や椅子に長い影を落とし、やがて世界は闇に包まれていく。まるで、私の心の中のように。
もう、彼に想いを告げることなどできない。許しを乞うことすら、許されない。私の存在は、きっと、彼を過去の嫌な記憶に引き戻すだけの、不快な染みでしかないのだろう。
できることなら、時間を巻き戻したい。
あの図書室で、彼が私のことを好きだと知った、あの瞬間に。
もし、あの時、私が物語を捨てて、彼の想いに向き合うことを選んでいたら。
私たちの未来は、何か少しでも、違っていただろうか。
「ごめんなさい……」
誰にも届かない懺悔が、唇からこぼれ落ちる。
「ごめんなさい、湊くん……本当に、ごめんなさい……」
隣のB組の教室の方から、楽しそうな笑い声が聞こえてくる気がした。きっと、湊くんと星乃さんだ。彼らの幸せそうな声が、幻聴となって私の耳に届く。その声は、祝福の鐘の音のようでもあり、私の罪を断罪する鉄槌のようでもあった。
涙が、あとからあとから溢れてきて、止まらない。
失ったものの大きさに、今更ながら気づかされる。私が捨てたのは、ただの恋ではなかった。私を本当に救ってくれるはずだった、たった一つの、温かい光だったのだ。
私は、このどうしようもない後悔と、誰にも届かない懺悔を、一生、胸に抱いて生きていく。
それが、私の犯した罪に対する、唯一の償いなのだから。
夕闇に沈んだ教室で、私はただ一人、声を殺して泣き続けた。白百合はもう枯れた。後に残ったのは、罪という名の棘を無数につけた、醜い植物だけだった。




