第四話 陽だまりの隣と、届かない懺悔
あの図書室での告白以来、僕と白鷺院麗華の関係は、ひどくぎこちないものになってしまった。
図書委員の活動で顔を合わせても、僕たちは必要最低限の会話しか交わさない。彼女は僕の顔をまともに見ようとせず、いつもどこか遠くを見つめているかのように俯いている。その瞳には、かつての輝きも、復讐を終えた後の氷のような冷たさもない。ただ、全てを諦めたような、色のない空虚な光だけが揺らめいていた。
彼女は、僕が「ヒーロー」であったという真実を知り、そして、偽物に身も心も捧げてしまった自分には、そのヒーローの隣に立つ資格はないのだと、自らに判決を下してしまったのだ。僕がどれだけ「そんなことはない」と伝えようとしても、彼女は頑なに心を閉ざし、聞き入れようとはしなかった。
僕自身も、どう接すればいいのかわからなくなっていた。彼女を救いたい。でも、彼女が苦しんでいる原因の一端は、僕の無自覚な行動と、あまりにもあっさりとした諦めにある。その罪悪感が、僕の言葉を躊躇させた。僕たちは、真実という名の分厚い壁を挟んで、互いに身動きが取れなくなってしまっていた。
そんな息の詰まるような毎日の中で、僕にとって唯一の救いとなっていたのは、星乃陽彩の存在だった。
「もー、湊!またそんな暗い顔して!眉間にシワ寄ってるって!」
昼休み、僕が一人でため息をついていると、陽彩はいつものように快活な声でやってきて、僕の眉間をぐりぐりと指で押した。
「ほら、これあげるから元気出しなよ!」
そう言って彼女が差し出したのは、可愛らしいウサギの形にカットされたリンゴだった。
「星乃さん、いつも悪いよ」
「だから、陽彩だって!それと、悪いなんて思ってないし。あたしが勝手にやりたいからやってんの。湊がそんな顔してるの、見てらんないだけ」
彼女はぷいっとそっぽを向きながらそう言った。その耳が少しだけ赤くなっていることに、僕は気づかないふりをした。
陽彩は、僕と麗華の間に流れる不穏な空気を察しているようだったが、何も聞かずに、ただ、いつも通りに明るく接してくれた。彼女のその屈託のなさが、重苦しい空気を纏う僕の心を、少しずつ、しかし確実に軽くしてくれていた。
彼女は僕を外に連れ出そうとした。
「放課後、駅前のクレープ屋行こ!新作出たんだって!」
「休みの日に映画見に行かない?今やってるアクションのやつ、絶対面白いよ!」
最初は、麗華のことが気にかかって断ってばかりだった僕も、彼女の粘り強い誘いに根負けし、少しずつ応じるようになっていった。
一緒に食べたクレープは驚くほど甘かったし、彼女が面白いと言っていた映画は、本当に僕の好みだった。陽彩と一緒にいると、僕は自然と笑顔になれた。彼女は僕の好きなものをよく知っていた。僕が何気なく口にした作家の本を読んで感想をくれたり、僕が好きだと言ったマイナーなバンドの曲を覚えて、イヤホンを片方だけ僕の耳に突っ込んできたりした。
「なんで星乃さんは、僕の好きなものをそんなに知ってるの?」
ある日、そう尋ねると、彼女は少し照れたように視線を逸らした。
「……見てたから、だよ。ずっと」
「え?」
「湊のこと、ずっと見てたから。あんたがどんな本を読んで、どんな音楽を聴いて、どんな時に笑って、どんな時に悲しい顔をするのか……全部、見てたから」
彼女の頬が、夕焼けのように赤く染まっていた。
僕はその時、初めて気づいた。彼女がただの親切心や同情で僕に接していたわけではないことを。彼女の行動の一つ一つに、僕への確かな好意が込められていたことを。そして、僕もまた、彼女のその真っ直ぐな想いに、いつの間にか心を惹きつけられていたことに。
麗華への恋心は、確かに本物だった。だがそれは、憧れに近い、どこか偶像崇拝のような感情だったのかもしれない。手の届かない、完璧な存在への恋。
でも、陽彩への気持ちは違う。隣にいて、笑い合って、時には喧嘩もして、そうやって当たり前の日常を一緒に過ごしたいと思える。陽だまりのような、温かい感情だった。
季節が巡り、夏が近づいてきたある日の放課後。
陽彩に「大事な話があるから」と呼び出され、僕は学校の屋上にいた。立ち入り禁止の札がかかった扉を、彼女は「たまにはいーじゃん」と笑いながら、どこからか持ってきた鍵で開けてしまった。
フェンスの向こうには、オレンジ色に染まった街並みが広がっている。心地よい風が、僕たちの髪を優しく揺らしていた。
「湊」
先に口を開いたのは、陽彩だった。彼女はフェンスに寄りかかり、街並みを見下ろしながら、僕の名前を呼んだ。いつもの快活な声とは違う、少しだけ緊張を孕んだ声だった。
「あたし、湊のことが好き」
真っ直ぐな告白だった。何の駆け引きもない、彼女らしい、ストレートな言葉。
「最初は、ただ真面目で優しい人だなって思ってた。でも、見てるうちに、どんどん惹かれてた。誰かが嫌がる仕事も黙って引き受けたり、落ち込んでる人に気づいて、さりげなくフォローしたり。そういう、誰も気づかないような湊の優しさを、あたしは全部知ってた。ずっと、隣で見ていたかった」
彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。その瞳は潤んでいて、夕日に照らされてキラキラと輝いている。
「白鷺院さんのことが好きなんだって、気づいてたから、ずっと諦めてた。でも、もう我慢できない。あたしじゃ、ダメかな?」
震える声でそう尋ねる彼女の姿が、たまらなく愛おしいと思った。
僕はもう、迷わなかった。麗華への罪悪感が消えたわけではない。でも、僕の気持ちは、もう彼女には向いていなかった。僕の心は、目の前で不安そうに僕を見つめる、この太陽のような女の子に、すっかり奪われてしまっていたのだから。
「……僕で、いいの?」
「湊じゃなきゃ、ダメなの」
僕は、彼女の言葉に頷くと、そっとその手を握った。驚いたように目を見開く彼女を、僕はゆっくりと引き寄せ、抱きしめた。彼女の体は少し震えていて、僕の胸に顔を埋めて、小さな声で「……よかった」と呟いた。
僕の失われた恋は、こうして新しい恋によって、ようやく救われたのだ。
その時、僕たちは気づいていなかった。
屋上の入り口、扉の影から、僕たちの姿をじっと見つめる瞳があったことに。
白鷺院麗華は、そこにいた。
彼女は、僕に渡すものがあって探しに来ただけだったのかもしれない。あるいは、何かを話す決心をして、僕の元へ向かおうとしていたのかもしれない。
だが、彼女が見たのは、新しい恋を見つけ、幸せそうに寄り添う僕と陽彩の姿だった。
麗華の瞳から、大粒の涙が音もなく流れ落ちた。彼女は口元を両手で強く押さえ、嗚咽が漏れるのを必死で堪えた。
後悔。
その一言が、彼女の心を支配していた。
もし、自分が過ちを犯さなければ。もし、偽りのヒーローに身を委ねることさえなければ。
今、彼の隣で笑っているのは、自分だったのかもしれない。
彼が本当に好きだったのは、自分だったはずなのに。
自分が汚れてしまったから。自分が愚かだったから。全てを台無しにしてしまった。
取り返しのつかない過去が、鋭い刃となって彼女の心を何度も何度も突き刺す。陽彩に抱きしめられ、優しく微笑む僕の姿が、網膜に焼き付いて離れない。
麗華は、それ以上そこに留まることができず、静かに踵を返した。誰もいない廊下を、涙で滲む視界のまま、ただひたすらに走り続けた。行き着いた先は、誰もいない夕暮れの自分の教室だった。
自分の席に突っ伏し、彼女は声を殺して泣き続けた。
誰にも届かない懺悔の言葉が、何度も何度も、唇からこぼれ落ちた。
「ごめんなさい……湊くん……ごめんなさい……」
それから、さらに数日が経った。
僕と陽彩が付き合い始めたことは、すぐにクラス中に知れ渡った。意外な組み合わせに驚く声もあったが、陽彩の友人たちは「陽彩、よかったじゃん!」と祝福してくれた。
麗華は、僕たちのことを知っても、何も言わなかった。ただ、時折、遠くから僕と陽彩が楽しそうに話しているのを、寂しそうな、それでいてどこか羨むような、複雑な表情で見つめているだけだった。
そんなある日の放課後。
僕は陽彩と二人で、教室の掃除当番をしていた。
「ねえ、湊」
黒板を拭き終えた陽彩が、不意に僕に話しかけてきた。
「あたし、湊に謝らなきゃいけないことがあるんだ」
「謝ること?」
「うん……あのね、あたし、知ってたんだ。湊が、白鷺院さんのこと、諦めた理由」
「え……?」
僕は驚いて彼女の顔を見た。陽彩は少し気まずそうに視線を逸らす。
「湊がさ、白鷺院さんからヒーローの話を聞いて、諦めた日のこと、覚えてる?」
「……ああ」
忘れるはずがない。僕の初恋が、完全に終わった日だ。
「あの時、湊が図書室から帰った後、あたし、白鷺院さんに会ったんだ。それで、聞いちゃった。白鷺院さんが、あんたのこと、本当はただの図書委員仲間としか思ってないってこと。湊が自分のこと好きだなんて、全然気づいてないってこと」
陽彩の言葉に、僕は言葉を失った。
「それでね、あたし、言っちゃったんだ。湊が、どれだけ白鷺院さんのことを好きだったか。ヒーローの話を聞いて、自分の気持ちを殺して、身を引いたんだってこと」
「な……なんで、そんなこと……」
「だって、悔しかったんだもん!湊の優しさが、あんな形で踏みにじられるのが、許せなかったから!あんたが諦めた相手は、あんたの気持ちに気づきもしないで、平気な顔してチャラ男と付き合おうとしてるんだよって!……ごめん、勝手なことして」
陽彩は、涙目で僕に頭を下げた。
僕は、彼女の言葉を聞いて、全てを理解した。
麗華が、僕のかつての想いを知ったのは、つい最近のことではなかったのだ。彼女は、僕が彼女を諦めた、まさにその時から、僕の恋心を知っていた。知っていて、それでも火野隼人を選んだ。僕の気持ちを知りながら、偽物のヒーローの元へ走ってしまった。
そして、後日、その事実を知った麗華は、一体どれほどの絶望を味わったのだろう。
僕が彼女を好きだったという事実。それは、彼女にとって、希望ではなく、己の過ちの深さを思い知らせる、最も残酷な一撃となったに違いない。
取り返しがつかない。
その言葉の意味を、僕は今、心の底から理解した。
僕たちの間には、もう修復不可能なほどの深い溝ができてしまっている。
隣のA組の教室からは、誰かが一人、静かに泣いているような、か細い声が聞こえてくる気がした。でも、僕にはもう、その声に耳を傾ける資格も、手を差し伸べる資格もない。
僕の隣には、僕の全てを受け入れてくれた、陽だまりのような彼女がいるのだから。
僕は陽彩の肩をそっと抱き寄せた。
「ありがとう、陽彩。教えてくれて」
過去はもう変えられない。
僕たちは、それぞれの後悔と懺悔を胸に抱きながら、別々の道を歩んでいくしかないのだ。
夕焼けが、二つの教室を、赤く、赤く染め上げていた。




