第三話 断罪の鉄槌と、真実の在り処
あの日の図書室での出来事の後、白鷺院麗華は学校を休んだ。
僕は彼女のことが心配でならなかったが、連絡先すら知らない僕には、どうすることもできない。ただ、虚ろな瞳で崩れ落ちた彼女の姿が、脳裏に焼き付いて離れなかった。あんなにも純粋に信じていた相手に、あんな形で裏切られた彼女の心は、今頃どうなってしまっているのだろうか。
一方、裏切りの張本人である火野隼人は、何も知らない様子でいつも通りの学園生活を送っていた。取り巻きたちと下品な冗談を言い合い、女子生徒に軽薄な笑みを振りまいている。僕は教室の隅からその姿を見るたびに、腹の底から煮えくり返るような怒りが込み上げてくるのを、必死で抑えつけなければならなかった。
あのSNSのやりとりを、麗華に見られたと知ったら、こいつは一体どんな反応をするのだろうか。焦るだろうか。それとも、それすらも笑い話にしてしまうのだろうか。どちらにせよ、こいつが彼女を傷つけたという事実に変わりはない。許せるはずがなかった。
「……湊、また難しい顔してる」
昼休み、いつものように僕の向かいに座った星乃陽彩が、心配そうに僕の顔を覗き込んできた。
「白鷺院さん、もう一週間も休んでるもんね。そりゃ心配にもなるか」
「星乃さん……」
「陽彩、でしょ?」
彼女はそう言って悪戯っぽく笑うと、自分の弁当からタコさんウインナーを一つ、僕の口元に突き出した。
「ほら、あーん」
「ちょっ、何するんだよ」
「いいからいいから!元気ない時は、ちゃんと食べなきゃダメなんだって!」
彼女の強引さに気圧され、僕は仕方なくウインナーを口に含んだ。そのやりとりを、教室の他の生徒たちが奇異なものを見るような目で見ていたが、陽彩は全く気にする素振りも見せない。彼女のこういう、他人の目を気にしない強さが、少しだけ羨ましかった。
「ねえ、湊。あんたさ、白鷺院さんのこと、助けてあげたいって思ってる?」
「……助けられるなら、助けたい。でも、僕に何ができるっていうんだ。ただのクラスメイトなのに」
自嘲気味に呟くと、陽彩は少し悲しそうな顔をした。
「そんなことないよ。あんたは、あんたが思ってるより、ずっとすごい人だって。あたしは知ってる」
彼女の言葉の意味が、僕にはよくわからなかった。僕がすごい人?冗談だろう。僕はいつだって、誰かを助けたいと思っても、結局何もできずにいるだけだ。今回だってそうだ。麗華が傷ついているのを目の当たりにしても、僕はただ狼狽えることしかできなかった。
無力感に苛まれている僕をよそに、学園の雰囲気は、その数日後、劇的な変化を迎えることになる。
その変化は、まず火野隼人の父親が経営するIT企業に関する、衝撃的なニュースから始まった。
個人情報の不正利用、大規模な粉飾決算、そして脱税疑惑。次々と暴露されるスキャンダルに、株価は暴落。テレビのニュースやネットは、朝から晩までその話題で持ちきりになった。飛ぶ鳥を落とす勢いだった新興企業は、ほんの数日で信用を失い、あっという間に倒産の危機に瀕した。
教室では、誰もがその話題で囁き合っていた。そして、その中心には、いつも傲慢な笑みを浮かべていたはずの隼人の、青ざめた顔があった。
「隼人、お前の親父さんの会社、やばいんじゃねえの?」
「う、うるせえな!デマに決まってんだろ、こんなの!」
虚勢を張る彼の声は、明らかに震えていた。いつも彼に媚びへつらっていた取り巻きたちも、どこか距離を置いている。富と権力を失った王様は、ただの哀れな裸の王様でしかなかった。
だが、それはまだ序章に過ぎなかった。
数日後、今度は隼人自身に災厄が降りかかった。彼が過去に起こした未成年の飲酒や喫煙、さらには万引きなどの非行が、証拠写真付きで次々とネット上に拡散されたのだ。その中には、僕が見てしまったSNSのスクリーンショット、つまり麗華との関係を面白おかしく語る、あの下劣なやりとりも含まれていた。
学園は大騒ぎになった。あの完璧な白鷺院麗華が、実は火野隼人に騙され、弄ばれていた。その事実は、生徒たちに大きな衝撃を与えた。隼人への視線は、昨日までの羨望から一転、軽蔑と非難の色を帯び始める。彼は完全に孤立した。
そして、追い打ちをかけるように、学校側は隼人に対して無期限の停学処分を下した。父親の会社は破産を申請し、一家は豪邸を追われ、莫大な借金を背負うことになったらしい。天国から地獄へ。その転落は、あまりにも早く、そして無慈悲だった。
僕は、一連の出来事を冷静に、しかし心のどこかでは「当然の報いだ」と思いながら見ていた。誰がこんなことをしたのかはわからない。だが、隼人が麗華に対して行った仕打ちを考えれば、これはまさしく因果応報だった。
そんなことを考えていた放課後、僕は図書室で一人の人物と再会した。
「水無月くん」
凛とした声に振り返ると、そこに立っていたのは、二週間ぶりに制服に袖を通した、白鷺院麗華だった。
彼女は、以前のように完璧に制服を着こなし、まっすぐに背筋を伸ばしていた。だが、その雰囲気は以前とはまるで違っていた。以前の彼女が、穢れを知らない純白の百合だったとすれば、今の彼女は、氷のように冷たく、鋭い刃を秘めた冬の薔薇のようだった。その美しい瞳の奥には、以前の虚ろさとは違う、底知れないほどの静かな暗闇が広がっている。
「白鷺院さん……体は、もう大丈夫なのか?」
「ええ、おかげさまで。心配をかけたわね」
彼女はそう言って、優雅に微笑んだ。だが、その微笑みには何の温度も感じられない。まるで精巧に作られた人形のようだった。
「火野くんのこと、聞いたわ。大変なことになったみたいね」
彼女は、まるで他人事のように、淡々とそう言った。その口調には、悲しみも、怒りも、憐れみすらも感じられない。ただ、絶対零度の無関心があるだけだった。
僕はその時、直感的に悟ってしまった。この一連の出来事を引き起こしたのが、誰なのかを。
白鷺院家。旧華族の流れを汲むという、その名家が持つ本当の力。それは、僕のような一般人が想像できるようなレベルのものではないのだろう。彼女は、自らを裏切った偽りのヒーローに対して、自らの手で、最も冷徹で、最も効果的な方法で鉄槌を下したのだ。
「……君が、やったのか?」
僕は、知らず知らずのうちに、そう問いかけていた。彼女は僕の問いに驚くでもなく、ただ静かに、肯定も否定もしないまま、僕の瞳を見つめ返してきた。
「もし、そうだとしたら?水無月くんは、私を軽蔑するかしら」
「……いや」
僕は首を横に振った。
「軽蔑なんてしない。あいつは、君にそうされるだけのことをしたんだ。当然の報いだと思う」
僕の言葉を聞いて、彼女はほんの少しだけ、驚いたように目を見開いた。そして、その氷のような仮面が、一瞬だけ揺らいだように見えた。
「ありがとう……そう言ってもらえて、少しだけ、救われた気がするわ」
彼女の声は、ほんの少しだけ震えていた。復讐を成し遂げても、彼女の心が晴れることはなかったのだろう。憎しみは、相手を滅ぼしても、自分の心を癒してはくれない。
僕たちの間に、重い沈黙が流れた。何を話せばいいのかわからずにいると、不意に彼女が口を開いた。
「ねえ、水無月くん。少し、昔の話をしてもいいかしら」
僕は黙って頷いた。彼女は窓の外に視線を移し、遠い過去を思い出すように、ゆっくりと語り始めた。
「あの男……火野くんは、私がヒーローの話をした時、私が覚えていた思い出を、まるで自分のことのように語ったわ。『公園でハンカチを貸してやったよな』って。『あの時の不良、マジでやばかったよな』って。私は、それを疑いもしなかった。ずっと探し続けた人に、やっと会えたんだって、舞い上がっていたから」
彼女の声は、淡々としていたが、その奥に深い後悔が滲んでいるのがわかった。
「でも、おかしいとは思っていたの。助けてくれた時の記憶を辿っても、どうしても、彼の顔が思い浮かばない。私の記憶の中のヒーローは、もっと……そう、もっと物静かで、優しい目をしていた気がするのよ」
彼女はそこで言葉を切ると、くるりと僕の方へ向き直った。その真剣な眼差しに、僕はたじろいだ。
「おかしいわよね。私はあの男に、自分の全てを捧げたのに。それなのに、あの男が嘘をついていたと知った時、悲しみよりも先に、『やっぱりそうだったのか』と思ってしまった自分がいたの。私の心は、本当は気づいていたのかもしれない。彼が、偽物だって」
彼女はゆっくりと僕に近づいてくる。一歩、また一歩と。僕と彼女の間にあったカウンターという境界線が、今はもうない。
「だから、考えたの。必死で思い出したの。私の本当のヒーローは、一体誰だったんだろうって。……小さい頃、公園で転んだ私にハンカチを貸してくれた男の子。そのハンカチには、月の刺繍がしてあったわ。今でも、大切に持っているの」
月の刺繍。その言葉に、僕はハッとした。僕の名前は湊。月が無ければ、港はただの暗い海だ。だから、と母が僕の持ち物にはよく月のマークをつけてくれていた。ハンカチにも、確かに……。
「中学生の時、私を不良から庇ってくれた男の子。彼は、不良に殴られても一言も文句を言わずに、ただ私の前に立ち続けてくれた。そして、不良が去った後、『大丈夫?怪我はない?』って、自分の方がボロボロなのに、私の心配だけをしてくれたわ。その時、彼の制服の名札が、一瞬だけ見えたの。『水無月』……って」
心臓が、大きく跳ねた。忘れていた記憶の断片が、彼女の言葉によって呼び覚まされる。そうだ、そんなことがあった。当時、同じ中学だった彼女が不良に絡まれているのを見て、僕は何も考えずに飛び出していた。殴られるのは怖かったけど、彼女が怯えている顔を見ている方が、もっと辛かったから。
「そして、この間の雨の日、駅のホームで私を支えてくれた人。その時、確かに聞こえたの。『大丈夫ですか、白鷺院さん』って。私の名前を知っているということは、うちの学校の生徒のはず。……その声は、今、私の目の前で話しているあなたの声と、とてもよく似ている」
彼女は、僕の目の前で立ち止まった。その距離は、手を伸ばせば触れられてしまうほどに近い。彼女の瞳が、答えを求めるように、僕を真っ直ぐに射抜いている。
「教えて、水無月くん。私のヒーローは……あなた、なんでしょう?」
僕は、何も答えられなかった。
言われてみれば、確かにそんなことがあったような気もする。でも、僕にとってはどれも、困っている人がいたから、当たり前のことをしただけ。特別なことだなんて、全く思っていなかった。だから、ほとんど覚えてすらいなかったのだ。
僕の沈黙を、彼女は肯定と受け取ったようだった。
「……そう。やっぱり、あなただったのね……」
彼女の瞳から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。それは、安堵の涙なのか、それとも別の何かなのか。
「どうして……どうして、何も言ってくれなかったの……?あなたが、あの時、一言でも言ってくれていたら……!」
彼女の声は、悲痛な叫びに変わっていた。
そうだ。もし僕が、彼女がヒーローを探していると知ったあの日に、名乗り出ていたら。もし僕が、自分のしたことを覚えていて、彼女に伝えていたら。
そうすれば、彼女が偽物のヒーローに騙されることも、身も心も傷つけられることもなかったのかもしれない。
僕の無自覚と、諦めが、彼女を絶望の淵に追いやってしまった。
「ごめん……」
僕が絞り出せたのは、その一言だけだった。
「ごめんなさい……!」
僕の謝罪に、彼女は泣きながら首を横に振った。
「違う、あなたが謝ることじゃない!悪いのは全部、私……!本物と偽物を見分けることもできなかった、愚かな私なのよ……!」
彼女はそう言うと、その場に再び崩れ落ちた。しかし、今回は顔を覆ったりはしない。ただ、絶望に染まった瞳で、僕の足元を見つめている。
「もう、遅いのよ……」
彼女の唇から、か細い懺悔がこぼれ落ちる。
「偽物に汚されてしまった私は……もう、あなたの隣に立つ資格なんてない……。本物のヒーローであるあなたの隣に、私はもう……」
彼女の嗚咽が、静まり返った図書室に響き渡った。
僕は、そんな彼女にかける言葉を、何一つ見つけ出すことができなかった。
偽物に汚された、という彼女の言葉が、重い楔となって僕の胸に突き刺さる。僕が恋をした、あの気高く、純白だった彼女は、もうどこにもいない。彼女自身が、それを一番よくわかっているのだ。
真実を知ったことは、彼女を救うどころか、より深い、決して抜け出すことのできない絶望の底へと突き落としてしまった。
僕は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。夕暮れの光が、僕と彼女の間に、決して越えることのできない深い溝を描き出しているようだった。




