第二話 偽りの太陽と、蝕まれる月光
白鷺院麗華が火野隼人と付き合い始めた、という衝撃的なニュースは、あっという間に学園中を駆け巡った。誰もが予想しなかった組み合わせは、格好のゴシップとして生徒たちの間で消費されていく。高嶺の花と学園の王様。傍から見れば、それはお似合いのカップルなのかもしれなかった。
廊下を歩けば、隼人の隣で微笑む麗華の姿を見かけることがあった。隼人は僕の存在に気づくと、わざと見せつけるように麗華の肩を抱き寄せたり、親密そうに耳打ちしたりする。そのたびに麗華は少し困ったように頬を染めるが、決して彼を拒絶することはなかった。
彼女が探し続けたヒーローと結ばれたのだ。幸せなはずだ。僕は自分にそう言い聞かせ、胸の奥で燻る黒い靄から目を逸らし続けた。僕にできることは、ただ二人の幸せを遠くから願うことだけ。そう、思っていた。
しかし、日が経つにつれて、僕は彼女の些細な変化に気づき始めていた。
以前はピンと伸びていた背筋が、どこか頼りなげに丸まっているように見える。誰にでも向けられていた丁寧な微笑みは影を潜め、伏せ目がちになった瞳には、時折、得体の知れない翳りがよぎる。完璧だった彼女の姿が、少しずつ、しかし確実に蝕まれているような、そんな不吉な予感が僕の心をざわつかせた。
「水無月くん、ごめんなさい。この本、分類を間違えてしまったみたい」
週に二度の図書委員の活動中、麗華が申し訳なさそうに本を差し出した。以前の彼女なら考えられないような、初歩的なミスだった。
「大丈夫だよ、よくあることだから」
僕は笑顔でそう返したが、彼女の表情は晴れない。その顔色はどこか青白く、目の下にはうっすらと隈ができていた。
「最近、少し疲れているんじゃない?無理しないでね」
「……ありがとう。大丈夫よ」
彼女は力なく微笑むと、再び自分の仕事に戻っていく。その小さな背中が、やけに儚げに見えて、僕は目を離すことができなかった。
火野と一緒にいる時、彼女は本当に笑えているのだろうか。あの軽薄な男が、彼女の繊細な心を大切に扱っているとは、どうしても思えなかった。だが、僕には何も言う権利がない。彼女が選んだ相手なのだから。僕はただの、同じ委員というだけのクラスメイトに過ぎない。もどかしい思いだけが、鉛のように腹の底に溜まっていく。
そんな無気力な日々を送る僕に、予想外の方向から光が差し込んできた。
「みーなづきくんっ!お昼、また一人?」
昼休み、教室の隅で一人パンをかじっていると、快活な声と共に、甘い香りがふわりと鼻先を掠めた。顔を上げると、そこにはクラスメイトの星乃陽彩が立っていた。明るく染めた髪に、ばっちりと決まったメイク。僕のような人間の対極に位置する、陽キャグループの中心人物だ。
「あ、星乃さん……」
「ひ・い・ろ。陽彩って呼んでいーよ。あたしも湊って呼ぶから!」
彼女は僕の返事を待たずに、ずいっと前の席の椅子を引いてきて、僕の向かいに腰を下ろした。突然のことに、僕は口に入れたパンをうまく飲み込めずにいる。
「いっつも思うんだけどさー、湊ってなんでそんな教室の隅っこでご飯食べてんの?もっと真ん中来なよ」
「いや、僕はここでいいんだ。落ち着くし」
「ふーん?まあ、湊がいいならいいけどさ。……で、最近元気なくない?なんか悩みでもあんの?」
陽彩は、弁当の卵焼きを箸でつまみながら、真っ直ぐに僕の目を見て言った。その瞳には、からかいの色も、見下すような色もない。ただ純粋な心配だけが浮かんでいるように見えた。
「悩みってほどじゃ……別に、何でもないよ」
「嘘だ。わかりやすすぎ。白鷺院さんのことでしょ」
核心を突くストレートな物言いに、僕は思わず息を呑んだ。動揺を隠せない僕を見て、陽彩は「やっぱりね」と小さくため息をついた。
「湊さ、白鷺院さんのこと好きだったんでしょ」
「えっ、な、なんで……」
「見てればわかるって。図書室の話とかする時、すっごい嬉しそうだったもん」
まさか、自分の気持ちが誰かに見抜かれていたとは思わなかった。しかも、それがほとんど話したこともない陽彩だなんて。
「……諦めたんだ。彼女には、好きな人がいるから」
僕は観念して、ぽつりと呟いた。陽彩は何も言わず、ただ静かに僕の言葉を聞いていた。
「それが、火野だってこと?」
「……うん」
「そっか……」
陽彩はそれ以上何も聞かず、「あたしの卵焼き、一個あげる」と言って、僕の弁当箱にひょいと卵焼きを入れてきた。甘くて、優しい味がした。
「湊ってさ、ほんとお人好しだよね。いっつもクラスの面倒な雑用とか押し付けられてるのに、嫌な顔一つしないし。ああいうの、ちゃんと見てる人は見てるんだからね」
「そんなことないよ。誰も見てないし、僕が好きでやってるだけだから」
「あたしは見てるけど?」
彼女は悪戯っぽく笑った。その笑顔は、隼人たちが浮かべる嘲笑とは全く違う、太陽のように屈託のない笑顔だった。胸の奥に溜まっていた冷たい澱が、少しだけ溶けていくような気がした。
この日を境に、陽彩は何かと僕に絡んでくるようになった。朝の教室で「おはよ!」と声をかけてきたり、移動教室の時に「一緒に行こ!」と腕を引っぱったり。最初は戸惑いばかりだったが、彼女の裏表のない明るさに触れているうちに、僕の心も少しずつ軽くなっていくのを感じていた。
彼女は、僕が失恋の痛みを忘れるための、まるで処方箋のようだった。
その一方で、麗華と隼人の関係は、世間のカップルがそうであるように、順調に進んでいるように見えた。隼人は友人たちに「もうあいつ、俺にベタ惚れだよ」と自慢げに語っていたし、麗華もまた、隼人から贈られたのであろうブランド物のネックレスを首につけていた。
僕は、図書室で彼女と二人きりになるのが、少し怖くなっていた。彼女の瞳の翳りも、疲れた顔も、見たくなかった。隼人との間に何があったのか、知りたくなかった。
純粋な彼女が、長年焦がれたヒーローに身も心も捧げるのは、ごく自然な流れだったのだろう。隼人がSNSで友人たちに仄めかしていた下品な自慢話も、きっと恋人同士のじゃれ合いの一つなのだと、僕は必死に自分に言い聞かせた。
そうでもしないと、隼人への黒い感情が、心の奥底から溢れ出してしまいそうだったからだ。麗華を純粋なままにしておいてくれ、と願う僕のエゴが、警鐘を鳴らしていた。
そして、運命の日は、いつもと同じように静かな放課後の図書室で訪れた。
その日の当番は僕一人だった。麗華は委員会を休むと連絡があったらしい。僕は少しだけ安堵しながら、返却された本を黙々と整理していた。静寂が心地よかった。彼女のいない図書室は、ただの静かな部屋でしかなく、胸を締め付けるような切なさを感じることもない。
閉館時間が近づき、最後の利用者が帰っていった時だった。ゆっくりと図書室の扉が開き、一人の生徒が入ってきた。
僕は「もう閉館ですよ」と声をかけようとして、言葉を失った。
そこに立っていたのは、休んだはずの麗華だったからだ。
「白鷺院さん……どうしたの、今日は休みじゃ」
「……少し、調べたいことがあって」
彼女の声は掠れ、ひどく弱々しかった。何より、その顔色がおかしい。血の気が引き、まるで幽鬼のように真っ青だった。足取りもおぼつかず、書架に一度手をついて体を支えている。
「大丈夫!?どこか具合でも……」
「平気……」
彼女は僕の言葉を遮ると、ふらふらとした足取りでカウンターの方へ歩いていった。そして、まるで何かに取り憑かれたように、自分のスマートフォンを取り出すと、その画面を食い入るように見つめ始めた。
僕はカウンターの向こう側から、心配で彼女の様子を窺っていた。彼女の指が、画面を何度も何度もスクロールしている。一体、何を見ているのだろうか。
その時だった。麗華の肩が、小刻みに震え始めた。最初は小さく、やがて、抑えきれない大きな震えに変わっていく。ひゅっ、と喉から引き攣ったような呼吸の音が聞こえた。
「あ……あ……ぁ……」
意味をなさない、獣の呻きのような声が彼女の唇から漏れる。そして、次の瞬間。彼女の手から力が抜け、持っていたスマートフォンが、カシャン、と乾いた音を立てて床に滑り落ちた。
僕は咄嗟にカウンターを回り込み、床に落ちたスマートフォンを拾い上げた。その拍子に、点灯したままだった画面が目に入ってしまう。
そこに表示されていたのは、隼人と彼の友人たち数名が参加しているSNSのグループチャットの画面だった。
『なあ隼人、まじであの白鷺院さんとヤッたのかよw』
『おうよ。ヒーローごっこしたらマジで信じやがって、マジでチョロすぎw』
『うわ、えぐw どんな感じ?お嬢様って固そうじゃね?』
『それが全然w 俺がヒーロー様だからって、ベッドじゃめちゃくちゃ素直で笑える。てか、お前らにも見せてやりたいわ、あいつの必死な顔』
画面に並んだ、あまりにも残酷で、下劣な文字列。
一瞬、そこに書かれている言葉の意味が理解できなかった。頭が理解を拒んだ。これは何かの悪い冗談だ。そう思った。
だが、そのチャット欄には、隼人が隠し撮りしたのであろう、麗華の無防備な写真までが添付されていた。それは、恋人同士のじゃれ合いなどという言葉では到底済まされない、彼女の尊厳を踏み躙る、悪意に満ちた裏切りだった。
全身の血が、急速に冷えていくのを感じた。これが、彼女が信じたヒーローの正体。これが、彼女が全てを捧げた男の、本性。
僕の胸の中で、何かがぶつりと切れる音がした。隼人に対する、殺意にも似た激しい怒りが、堰を切ったように溢れ出す。
「う、そ……」
麗華のか細い声が、僕を現実に引き戻した。
見ると、彼女は両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちていた。
「そんな……嘘よ……隼人さんが……私の、ヒーローが……こんなこと……」
カタカタと歯の根が合わない音が、静かな図書室に響く。信じていた世界が、音を立てて崩壊していく。その絶望の深さは、僕の想像を遥かに超えているだろう。
「白鷺院さん!しっかりして!」
僕はスマートフォンをポケットにねじ込み、彼女の肩を掴んで揺さぶった。だが、彼女からの反応はない。ただ、虚ろに「うそ……」と繰り返すだけだ。
僕はたまらず彼女の顔を覗き込んだ。そして、絶句した。
いつも気品と知性に満ちていた、あの美しい瞳。そこからは一切の光が消え失せていた。まるで魂が抜き取られてしまった人形のように、ただ黒々とした瞳孔が、底なしの絶望を映して虚空を見つめている。
完璧だった彼女の世界が、偽りの太陽によって焼き尽くされ、完全に崩壊した瞬間だった。
西日が差し込む図書室で、床に散らばった金色の埃だけが、何も知らずにきらきらと舞っていた。僕は、震え続ける彼女の体を支えることしかできず、自らの無力さに、ただ歯を食いしばった。




