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僕が諦めた初恋の彼女は、偽ヒーローに身も心も捧げた後、全てを失ってから本当のヒーローが僕だったと知ったらしい  作者: ledled


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第一話 星屑のヒーローと、図書室の片隅の恋

放課後を告げるチャイムの音が、校舎の隅々まで染み渡るように響き渡った。途端に、静かだった教室は生徒たちの解放感に満ちた喧騒に包まれる。部活へ向かう活気のある声、友人たちと連れ立って街へ繰り出す計画を立てる楽しげな声。その喧騒を背に、僕、水無月湊みなづきみなとは、自分の居場所である図書室へと足を向けた。


図書室の重い扉を開けると、外の騒がしさが嘘のように遮断され、しんと張り詰めた静寂が僕を迎える。古紙とインクの混じった独特の匂い。窓から差し込む午後の柔らかな光が、空気中を漂う微細な埃をキラキラと照らし出し、まるで時間が止まった聖域のようだった。僕はこの場所が好きだった。そして、週に二日、この聖域で彼女と二人きりになれる時間が、僕の高校生活における全てだったと言っても過言ではない。


「水無月くん、お疲れ様。今日は少し利用者が多かったわね」


カウンターの向こう側で、返却された本を整理していた彼女が、僕に気づいて顔を上げた。

白鷺院麗華しらさぎいんれいか

腰まで届く艶やかな黒髪、雪のように白い肌、そして人形のように精緻に整った顔立ち。彼女の存在は、この静謐な空間に一層の神聖さを与えているようにすら思える。成績は常にトップクラス、全国レベルの大会で入賞するほどの弓道の腕前を持ち、その立ち居振る舞いはまるで物語の中のお姫様のようだ。学内では、畏敬の念を込めて「白百合の君」などと呼ぶ生徒もいるくらい、高嶺の花として認識されている。

そんな彼女が、僕の名前を呼んでくれる。ただそれだけで、僕の心臓は持ち主の許可なく勝手に速度を上げた。


「お疲れ様、白鷺院さん。そうだね、テストが近いからかな」


努めて平静を装いながら、僕は自分の持ち場である貸出カウンターについた。彼女はA組、僕はB組とクラスは違うが、図書委員という共通点が、僕にこの奇跡のような時間を与えてくれている。


「あら、この本、書庫に戻しておいてもらえるかしら?少し高い場所なのよ」


麗華が申し訳なさそうに差し出したのは、分厚い装丁の美術全集だった。彼女に頼られるのは、素直に嬉しい。


「うん、わかった。どの棚?」

「あちらの、西洋美術史の棚。一番上の段が空いているはずだから」


彼女が細い指で示した先を見上げる。確かに、僕の身長なら脚立なしでギリギリ届くかどうか、という高さだ。ずしりと重い全集を受け取り、僕は指定された書架へと向かった。

静かな図書室に、僕の靴音だけが小さく響く。爪先立ちになり、腕を精一杯伸ばして、慎重に本を棚へと収めた。その瞬間、ふと背中に視線を感じて振り返ると、麗華が心配そうな顔でこちらを見ていた。僕が小さく頷いてみせると、彼女はほっとしたように、ふわりと微笑んだ。

その笑顔は、普段の完璧な彼女が見せる、近寄りがたい微笑みとは少し違う。図書室で二人きりの時にだけ見せてくれる、どこか気の抜けた、年相応の柔らかい笑顔。僕はこの笑顔に、どうしようもなく惹かれていた。

彼女は完璧なんかじゃない。時々、本の分類を間違えたり、閉館時間ギリギリまで自分の読書に夢中になって慌てたりする。そういう人間らしい一面を知るたびに、この気持ちは大きく膨らんでいく。もちろん、彼女に伝えるつもりなんて毛頭なかったけれど。


カウンターに戻ると、麗華は一冊の古い洋書に視線を落としていた。長い睫毛が落とす影が、彼女の白い頬を繊細に彩っている。その姿は一枚の絵画のようで、僕は思わず見惚れてしまった。


「白鷺院さんは、本当に本が好きだね」


気づけば、そんなありきたりな言葉が口からこぼれていた。何か話したかった。この沈黙を破って、少しでも彼女の声を聞きたかった。


「ええ。本の世界は自由だもの。ページをめくれば、違う誰かの人生を追体験できるような気がして」


彼女は本から顔を上げずに、静かに答えた。


「特に、昔の騎士道物語が好きなの。主君や、愛する女性のために、見返りを求めずに全てを捧げる騎士の姿は、とても気高くて……素敵だと思わない?」


その言葉に、僕は彼女がなぜこれほどまでに完璧でいられるのか、少しだけわかったような気がした。彼女自身が、物語の中の気高い登場人物であろうとしているのかもしれない。そして、そんな彼女の隣に立つ人間は、きっと彼女が語る騎士のような、素晴らしい人物に違いない。僕のような、平凡で、何の取り柄もない人間が立つことを許される場所ではなかった。

この淡い恋心は、誰にも知られることなく、この静かな図書室の片隅で、いつか埃をかぶって忘れ去られていくのだろう。そう思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。


そんな日々が続いていた、ある日のことだった。

その日も、閉館間際の図書室には僕と彼女の二人だけだった。最後の利用者が帰っていくのを見送り、僕は入り口の札を「CLOSED」に裏返す。いつもの、終わりの合図。だが、その日はいつもと少し違っていた。


「水無月くん」


カウンターに戻った僕を、麗華が改まった声で呼び止めた。見ると、彼女はいつも手にしている本を閉じ、どこか緊張した面持ちで、まっすぐに僕の瞳を見つめている。


「少し、相談に乗ってもらえないかしら」

「僕でよければ、もちろん」


彼女から相談事を持ちかけられるなんて、初めてのことだった。僕はどきりとする心臓を抑えながら、ゴクリと唾を飲み込んで彼女の言葉を待った。


「あのね、私、ずっと探している人がいるの」

「探している人?」


予想外の言葉に、僕は思わず問い返した。


「ええ……私の、ヒーローとでも言うべき人かしら」


ヒーロー。その単語は、彼女の清らかな声を通して発せられると、まるで本当に聖なる響きを伴っているように聞こえた。僕の知らない、彼女だけの物語が始まる予感がした。


「私がまだ小さい頃から、何度も私を助けてくれた人がいるの。理由はわからないけれど、なぜか私は昔から危ない目に遭いやすくて……」


彼女は、遠い日を懐かしむように、少しだけ視線を宙に彷徨わせた。その瞳は、これから語られる物語への期待で、星屑を散りばめたようにきらきらと輝いていた。


「小学校に上がる前だったかしら。公園で一人で遊んでいて、派手に転んで膝を擦りむいてしまって。心細くて泣いていた時、黙ってハンカチを差し出してくれた男の子がいたわ。中学生の時には、下校中にしつこく絡んでくる他校の不良たちの前に、黙って立ちはだかって私を庇ってくれた男の子がいた。そして、ついこの間も……雨の日に駅のホームで貧血を起こして倒れそうになった時、誰かが咄嗟に私の体を支えてくれたの」


麗華は一つ一つの思い出を、宝物を確かめるように、大切に語る。その声は熱を帯び、彼女がその人物にどれほど強い想いを寄せているかを物語っていた。

僕の知らないところで、彼女はそんなにもドラマチックな出来事を経験していたのか。そして、その全てに、名も知らぬヒーローが登場していたのか。


「でも、不思議なの。私はその人の顔も名前も、ちゃんと知らないの。いつも、私が大丈夫だとわかると、何も言わずにどこかへ行ってしまうから。だから、もう一度会いたい。会って、きちんとお礼を言わなきゃいけない。そして……もし許されるなら、私の気持ちを、伝えたいの」


最後の言葉は、ほとんど吐息に近かった。だが、その中に込められた想いの重さは、鈍感な僕にですらはっきりとわかった。それは、単なる感謝などではない。一人の女性が、一人の男性に向ける、純粋で、ひたむきな恋心そのものだった。

僕は、彼女の話を聞きながら、頭が真っ白になっていくのを感じていた。

彼女の中には、それほどまでに大きく、そして神聖な存在がいる。僕が入り込む隙間など、最初から一ミクロンも存在しなかったのだ。

星屑のように輝く、物語の中のヒーロー。それに対して、僕はなんだろう。図書室の片隅で、ただ埃が光に舞うのを眺めているだけの、名もなき登場人物に過ぎない。


「そっか……すごい人なんだね、その人」


やっとのことで絞り出した声は、自分でも驚くほど乾いていて、情けなかった。


「ええ、とても。だから、お願い、水無月くん。もし、そういう人に心当たりがあったら、教えてほしいの。どんな些細な情報でもいいから」


「……うん、わかった。気をつけて、見てみるよ」


ありがとう、と花が綻ぶように微笑む彼女の顔を、僕はもうまともに見ることができなかった。

心の中で、ガラス細工が床に落ちて砕けるような、乾いた音が響いた。芽生えたばかりだった小さな恋心は、行き場をなくして、粉々になって散っていく。

でも、これでいいんだ、と自分に言い聞かせた。彼女が幸せになれるのなら、それが一番だ。僕が彼女の隣に立つ資格なんて、もとよりなかったのだから。

この日を境に、僕は自分の気持ちに分厚い蓋をすることを、固く決意した。


翌朝、重い足取りで向かった教室は、いつも以上にざわついていた。

僕のクラス、2年B組は、陽キャと呼ばれる生徒たちがヒエラルキーの頂点に君臨している。その中心にいるのが、火野隼人ひのはやとだ。サッカー部のエースで、日に焼けた肌と爽やかな笑顔が女子に人気らしい。父親が新興IT企業の社長ということもあり、彼の周りにはいつも人が集まっていた。


「おい隼人、マジかよ!あの白鷺院さんと付き合うとか、お前どんだけチートだよ!」

「いやー、まあな。向こうから結構アプローチがすごくてさ。昔からの運命、みたいな?」


取り巻きの悪友たちの囃し立てる声に、隼人が得意げに答えている。

僕はその会話を耳にした瞬間、呼吸の仕方を忘れてしまった。

白鷺院さんと、火野が?

嘘だろ、と心の中で叫んだ。あの、気高い騎士を求める彼女が、なぜクラスで最も軽薄な男を選ぶというのか。全く結びつかない二人の名前に、頭が混乱する。


「でも、どうやってだよ?お前と白鷺院さん、接点なかっただろ?」

「それがさあ、あったんだよな、昔から。色々とな。まあ、詳しいことは二人だけの秘密ってことで」


隼人はそう言って、ニヤリと意味ありげに笑った。

その瞬間、僕の頭の中で、昨日の麗華の言葉が雷鳴のように鳴り響いた。


――私の、ヒーローとでも言うべき人かしら。


まさか。まさか、火野が、彼女の言う「ヒーロー」だというのだろうか。

ありえない、と思いたい。だが、運動神経抜群の彼なら、不良くらい簡単に追い払えるだろう。僕のような非力な人間とは違う。それに、彼は何かと目立つから、彼女が困っている場面に偶然居合わせることもあったのかもしれない。

納得したくないのに、パズルのピースが嫌な音を立てて嵌っていくような、気持ちの悪い説得力があった。

教室の喧騒が、まるで分厚い壁の向こう側から聞こえてくるかのように遠のいていく。僕は自分の席に着くと、どうしようもない無力感に襲われ、机に突っ伏した。


「……水無月くん、大丈夫?」


不意に、頭の上から声が降ってきた。そっと顔を上げると、そこに立っていたのは、クラスメイトの星乃陽彩ほしのひいろだった。

明るく染めた髪をサイドで結び、校則ギリギリの短いスカートに、少し着崩した制服。いわゆるギャルというやつで、普段は火野たちと同じ陽キャグループでつるんでいることが多い。図書委員の僕とは住む世界が違う、ほとんど話したこともない相手だった。


「あ、うん。大丈夫。ちょっと、寝不足なだけだから」


慌てて取り繕う僕の顔を、陽彩は心配そうに覗き込んできた。派手な見た目とは裏腹に、その大きな瞳は驚くほど真っ直ぐで、澄んでいた。


「そっか。……ならいいけど。あんま無理しないでよね」


彼女はそう言うと、何かを言いたげな表情を浮かべたが、結局は小さくため息をつくだけで、自分の席に戻っていった。

僕は、彼女の意外な優しさに少し戸惑いながらも、再び机に視線を落とした。

窓の外では、グラウンドでサッカー部が朝練をしているのが見える。その中に、一際目立つ隼人の姿があった。

麗華は今、彼のことを考えているのだろうか。長年探し続けたヒーローを見つけ出して、幸せなのだろうか。

そう思うことにした。彼女が幸せなら、それでいい。

僕は、図書室の片隅で、これからも静かに本を整理し続けるだけだ。

砕け散った恋の欠片が、忘れたいのにちくちくと胸を刺す。その鈍い痛みだけが、僕があの子を確かに好きだったことの、唯一の証明だった。

こうして僕の初恋は、誰にも知られることなく、静かに、そして完全に終わりを告げたのだった。

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