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【秋の文芸展2025】貴方が殺した青、私が隠した白

作者: 河合ゆうじ
掲載日:2025/11/19

 花嫁が消えたのは、挙式の三十分前だった。

 ブライズルーム(新婦控室)は完全な密室。窓は嵌め殺しで、唯一の出入り口である重厚な木製の扉の前には、式場のスタッフと、新婦の友人が一人――つまり、私がずっと立っていた。


「ありえない……どうやって?」


 新郎である高城たかぎは、青ざめた顔で誰もいない部屋を見回していた。

 純白のウェディングドレスだけが、トルソーにかけられたまま部屋の真ん中に鎮座している。まるで、中身の肉体だけが蒸発してしまったかのように。


 テーブルの上には、飲みかけのハーブティー。鏡台には、完璧に仕上げられたメイク道具。

 そして、鏡には口紅で書かれた短いメッセージが残されていた。


『サヨナラ』


 赤い文字が、照明を浴びて毒々しく光る。

 現場に駆けつけた警察官が、私に疑いの目を向けた。無理もない。この部屋に出入りできたのは、新婦のメイク担当者と、最後に声をかけた私だけなのだから。


篠宮しのみやさん、でしたね」

 刑事は手帳を開きながら、私を見下ろした。

「貴方はずっとドアの前に?」

「ええ。新婦の真理まりが『少し一人になりたい』と言うので。十分ほど前から、ずっとドアの前にいました」

「中から物音は?」

「……いいえ。静かでした」

「窓は開きません。空調ダクトも人が通れるサイズじゃない。となると、彼女はこの部屋から『消えた』ことになる。あるいは――」


 刑事の視線が、私の背後にあった大きなクローゼットに向けられる。

 私は小さく息を吐いた。

 これは、真理が仕掛けた人生最大のマジックだ。

 そして私は、観客席の最前列にいながら、舞台裏を知る唯一の「共犯者」としてここに立っている。



 私、篠宮レイと、新婦の二階堂にかいどう真理は、高校時代からの友人だった。

 真理は美しかった。透き通るような肌に、色素の薄い茶色の瞳。誰もが振り返るような容姿を持ちながら、どこか冷めたところがある女性だった。

 対する私は、目立たない地味な生徒だった。図書委員で、休み時間は一人でミステリー小説を読んでいるような。

 そんな私たちが友人になったのは、ある雨の日、図書室で真理が私に声をかけたからだ。


『ねえ、完全犯罪って本当にあると思う?』


 唐突な問いかけだった。私が読んでいた推理小説を見ての言葉だったのだろう。

 私は少し考えてから答えた。

『あると思うわ。ただし、誰にも気づかれないなら、それは犯罪として成立しないけれど』

『ふうん。面白い答え』


 それ以来、私たちは奇妙な友情で結ばれた。

 真理は私にだけ、その完璧な笑顔の裏側を見せた。過干渉な両親、期待される「良家の子女」としての役割、そして息苦しさ。

 彼女にとって私は、唯一の酸素ボンベだったのかもしれない。


 大学を卒業し、真理が高城との結婚を決めた時、私は驚かなかった。高城は大手商社勤務のエリートで、二階堂家が望む完璧な婿候補だったからだ。

 けれど、婚約期間中、真理の瞳から光が失われていくのを私は見ていた。

 高城は外面こそ良いが、典型的なモラルハラスメントの気質があった。「君のためを思って」という言葉で、真理の行動、服装、交友関係までを管理し始めていたのだ。


「レイ、私ね、青色が好きなの」

 結婚式の三日前、真理は私にそう言った。

 私たちはカフェのテラス席にいた。

「高城さんは、白かピンクしか許さないの。純粋無垢であれってことかしら。……私が本当に着たかったドレス、知ってる?」

「ミッドナイトブルーの、背中が大きく開いたやつでしょ?」

「正解。さすがレイ」


 真理は寂しげに笑い、アイスティーのストローを回した。

「ねえレイ。私、このまま結婚したら、私じゃなくなる気がする。二階堂真理という人形になって、高城家のショーケースに飾られるだけ」

「……逃げればいいじゃない」

 私は軽い調子で言った。

「ミステリー小説なら、ここで失踪するのが定石よ」

「そうね。でも、ただ逃げるだけじゃつまらない。一生追いかけられるわ」

 真理は悪戯っぽく目を細めた。

「消えるのよ。煙のように。誰もが納得する形で」



 回想を中断し、私は刑事の質問に答える。

「クローゼットの中も確認しましたか?」

「ああ、真っ先にな。空っぽだ」


 刑事は頭を掻いた。

 密室トリック。その響きに、高城は苛立ちを隠せないようだった。

「そんなことはどうでもいい! 真理はどこだ! まさか誘拐か? 身代金目的か?」

「落ち着いてください、新郎さん。争った形跡はありません。それに、この書き置き……自分の意思で出て行った可能性が高い」


 私は心の中で舌を出した。

 この状況こそが、真理の計算通りなのだ。


 トリックは単純だ。あまりにも単純すぎて、誰も気づかない。

 ヒントは「時間」にある。


 私は刑事に尋ねた。

「あの、先ほどから『三十分前』とおっしゃっていますが、真理が部屋に入った時間を正確にご存知ですか?」

「式場スタッフの証言では、13時10分だ。そして今は13時40分。君がドアの前に立ったのが13時30分。その間の20分間に彼女は消えた」


 そう、そこだ。

 13時10分。真理は確かに部屋に入った。

 しかし、その時、部屋の中に「誰もいなかった」と誰が証明できる?


 実は、このブライズルームには隠し扉などない。抜け道もない。

 ただ一つ、盲点がある。

 それは、この部屋が「コネクティングルーム」として設計されていた過去があることだ。今は壁紙で塞がれているが、隣の倉庫との間には薄い壁一枚しかない。


 いや、違う。

 私は首を振った。そんな物理的なトリックじゃない。真理はもっとエレガントな方法を好む。


 真実はこうだ。

 真理は、部屋に入っていない。


 スタッフが見た「ドレスを着た真理」は、真理ではなかった。

 あれは、私だ。


 私と真理は背格好が似ている。かつらを被り、濃いブライダルメイクをして、ヴェールを深く下ろせば、遠目には区別がつかない。

 13時10分、部屋に入ったのはドレスを着た私。

 そして私は部屋の中で早着替えをして、ドレスをトルソーに着せかけ、ウィッグを隠し、平然と「友人代表」の顔をして部屋から出てきた。

 そしてドアの前に立ち、「真理は中にいる」と嘘をつき続けた。


 つまり、真理はもっと前――朝の時点で、既に式場から抜け出していたのだ。

 私がドアの前に立っていたのは、彼女の逃亡時間を稼ぐためではなく、「密室の謎」を作り出すことで、警察や高城の目を「消えた方法」に向けさせるためだった。


 人が消える魔法なんてない。

 あるのは、認識の死角だけ。



「篠宮さん、貴方、何か隠してませんか?」

 刑事の鋭い勘が、私を射抜く。

「隠すなんて。私はただ、友人の幸せを願っていただけです」

「幸せ……ね」


 その時、高城が叫んだ。

「おい! なんだこれは!」

 彼が指差したのは、鏡の前に置かれた小さなアクセサリーケースだった。

 中には、高価なダイヤモンドの指輪――婚約指輪が入っていた。

 そして、その下に一枚のメモ。


『貴方が愛していたのは、この石と、二階堂家の家柄だけでしょう? お返しするわ』


 高城の顔が赤から青、そして土気色へと変わっていく。

 周囲のスタッフや警察官たちの視線が、同情から軽蔑へと変わるのがわかった。

 これでいい。

 この騒動は「謎の失踪事件」から、「モラハラ男から逃げ出した悲劇の花嫁」というストーリーに上書きされた。世間は真理を責めないだろう。むしろ、同情し、応援するはずだ。


 私はポケットの中のスマートフォンを握りしめた。

 一通の通知が来ている。


『ありがとう。海が見えたわ』


 写真が添付されていた。

 空港のロビー。そして、深い青色――ミッドナイトブルーのワンピースを着て、ショートカットにした真理が、眩しい笑顔でピースサインをしている。

 彼女は海外へ飛ぶ。新しい名前と、新しいパスポートを持って。

 その手配を手伝ったのも、もちろん私だ。



 事情聴取が終わり、解放されたのは夕方だった。

 式は当然中止。高城家と二階堂家は大騒ぎになっているだろう。


 私は式場の外に出た。秋の風が心地よい。

 ふと、足元の植え込みに目が止まる。

 そこには、青いアサガオが一輪、季節外れに咲いていた。


 私は思い出す。高校時代、真理が言っていた言葉を。

『友情って言葉、なんだか安っぽいよね』

『そう?』

『うん。だって、友達なら助け合うのが当たり前、みたいな押し付けがあるじゃない。私はもっと、共犯関係みたいなのがいいな』

『共犯関係?』

『そう。お互いの罪を知っていて、それでも裁かない関係。誰にも言えない秘密を共有して、墓場まで持っていくの』


 私は空を見上げた。

 飛行機雲が一本、西の空へ伸びている。


 私は知っている。

 本当は、13時10分に部屋に入ったのが私だというトリックも、警察が本気で防犯カメラを解析すればすぐにバレる可能性があることを。

 私が真理のパスポート偽造に関与したことも、調べれば痕跡が出るかもしれない。

 これは「完全犯罪」ではない。

 私が捕まるリスクを背負った、ただの「時間稼ぎ」だ。


 それでも良かった。

 かつて、教室という密室で窒息しそうになっていた私に、酸素をくれたのは彼女だったから。

 今度は私が、彼女の檻の鍵を開ける番だっただけのこと。


 スマートフォンを取り出し、彼女からのメッセージを削除する。

 そして、ゴミ箱フォルダからも完全に消去した。


「さようなら、真理」


 私は呟く。

 いや、今はもう彼女は真理ではない。

 誰も知らない場所で、青いドレスを翻して踊る、名もなき自由な女性だ。


 私は口紅を取り出した。

 あの日、彼女が鏡に書いたのと同じ、鮮やかな赤色。

 それを唇に引きながら、私は一人、微笑んだ。


 友情なんて言葉じゃ足りない。

 私たちは、最高の共犯者だったのだから。

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