沈黙の娘、揺れる家の灯
夜明け前の空は、鉛のように重たかった。
静まり返った部屋に、冷蔵庫のモーター音だけが響く。
佐伯悠真はテーブルに肘をつき、止まったままの時計を見つめていた。
その針は昨日の午後十一時を指したまま動かない。
寝室の扉の向こうから、足音がした。
小さなスリッパの音。
珠希が眠そうな目で顔を出した。
「……パパ、寝てないの?」
「もうすぐ寝るよ」
「テレビで、パパが出てた」
その言葉に、空気が止まる。
テレビ。ニュース番組。
報道は一晩中流れ続けていた。
『正義を偽装した通報者』――その顔写真が、何度も画面に映った。
彼女はそれを見ていたのだ。
珠希は言葉を続けた。
「みんな、パパが悪い人って言ってた。でも、パパは……」
言葉が途切れる。小さな手がぎゅっと服の裾を掴む。
悠真はその手にそっと触れた。
「大丈夫。悪い人じゃないよ。ただ、間違えたことをしただけだ」
娘は黙って頷いた。
その瞳の奥には、子どもには似つかわしくない影が宿っていた。
◇
朝食の時間、茜は無言でテーブルを整えていた。
パン、スープ、カップ。
いつもと同じ手順、同じ配置。
だが、三人で囲むはずの席に、今日は空席が一つあった。
「珠希、食べなさい」
「うん」
茜は視線を落としたまま、テレビのリモコンを手に取る。
画面には、まだ悠真の名を報じるニュースが流れていた。
リモコンのボタンを押す指が震える。
「……もうやめて」
珠希の声が震えた。
茜はハッとして娘を見た。
「パパのこと、そんなふうに言わないで」
涙が頬を伝う。
「パパの悪口、聞きたくない!」
その叫びが、茜の胸を貫いた。
彼女の手からリモコンが滑り落ち、硬い床に音を立てて転がる。
「……ごめんね、珠希」
「パパ、どこ行くの?」
「仕事。……少し遠くまで」
茜の声は掠れていた。
◇
午後。
悠真は会社を去る準備をしていた。
机の上には、退職願。封筒の上にはペン。
窓の外では、カメラマンがまだ待っている。
彼らのレンズは、真実ではなく“絵になる悲劇”を求めていた。
社内メッセンジャーに通知が一件。差出人は宮下。
> 「部長……俺、信じてます。あの人たちが間違ってる」
> 「でも、会社の空気が……。俺ももう限界です」
悠真は短く返した。
> 「ありがとう。もう気にするな。生き残れ」
送信ボタンを押すと、画面の光が薄れていく。
彼は深呼吸し、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「終わりだな」
その声は、誰に向けたものでもなかった。
◇
夕方。
学校からの帰り道、珠希は空を見上げていた。
雲が切れ、夕陽が街の屋根に反射している。
彼女の隣を歩くクラスメイトが小声で囁く。
「珠希ちゃんのパパ、テレビ出てたんでしょ?」
「悪いことしたんだって」
「違うよ!」
珠希の叫びに、友達が一瞬怯んだ。
「パパは悪くない!」
その声は震えていたが、確かに強かった。
家に帰ると、リビングの灯りがまだついていた。
茜がソファに座り、何も見ずに空を見つめている。
テーブルの上には、封を開けていない手紙。
差出人欄には、佐伯悠真。
珠希は小さな手で封筒を取り、母の膝の上に置いた。
「ママ、パパからだよ」
茜は震える指で封を開けた。
> 『茜へ
> 俺が正義だと信じたものは、結局、誰かを壊すための道具だった。
> 君を壊したのは俺だ。だが、君が俺を壊したことも否定しない。
> ……この戦いは終わりだ。
> 珠希を頼む。彼女には何も背負わせるな。
> 俺は少し、遠くへ行く。』
手紙を読み終える頃には、紙が涙で滲んでいた。
茜はその手紙を胸に抱き、声を殺して泣いた。
珠希はその肩にそっと手を置き、静かに言った。
「パパ、帰ってくるよ。きっと。」
外の風がカーテンを揺らし、薄暗い部屋の灯りが小さく揺れた。
その揺れは、まだ消えかけていない家族の灯のようだった。




