報道の渦、崩れる職場
午前八時。
オフィスのロビーは、いつもの冷たい空気ではなかった。
照明が眩しすぎるほど明るく、受付前には見慣れないカメラと記者の姿がある。
通勤する社員たちは足を止め、視線を交わしながらエレベーターへと消えていく。
それは、会社という組織の「沈黙の儀式」だった。誰も何も言わず、ただ逃げるように日常を演じる。
佐伯悠真の出勤カードが、機械に通された瞬間、受付の女性が一瞬だけ息を呑んだ。
その反応を、悠真は見逃さない。
――もう、ここは戦場だ。
エレベーターの扉が閉まる。
反射する鏡に映る自分の顔は、昨日より少し老けて見えた。
頬の下の影。寝不足。焦点の定まらない目。
「冷静さ」だけが、彼を支える最後の防壁だった。
◇
執務フロアに入った瞬間、空気が凍る。
ざわめきが、耳の奥でくぐもって響く。
モニターの一つに、週刊サイトのトップページが開かれていた。
> 『内部通報の闇 「正義」を偽装した男』
> ――情報操作と復讐。家族を利用した計画的破壊工作。
タイトルの下には、はっきりと彼の名前。
「佐伯悠真(35)」
周囲の同僚たちは目を逸らす。
誰も口に出さない。
だが、その沈黙が言葉よりも深く突き刺さった。
上司の田代が近づき、低い声で言った。
「……取締役会が臨時会議を開く。お前も呼ばれる。弁明は用意しておけ」
「弁明、ですか」
「まだ否定するのか?」
「事実ではありません。操作されたデータです」
田代はため息をつき、静かに肩を叩いた。
「悠真、組織は真実より“印象”で動く。お前もそれを一番分かってるだろう」
その言葉に、悠真の胸の奥が鈍く痛んだ。
彼が茜と隼人を潰したとき、使ったのも――“印象”だった。
今、その同じ武器が、彼自身に突き刺さっている。
◇
午後。
会議室の窓越しに見える街は、どこまでも平和そうだ。
取締役たちは冷静な口調で話を進める。
「今回の件、事実確認を急ぐ必要があります」
「報道にあるデータは、社内から発信されたログと一致しています」
「彼の行動が個人的な動機によるものか、組織的なものか――そこが重要だ」
悠真は何も言わなかった。
証拠が全て自分を指していることを知っていた。
茜が仕掛けた「反撃」は、見事に計算されていた。
匿名で動いていたはずの通報メールは、ログの改ざんで「佐伯悠真→高城隼人」とつながるように操作されている。
茜はただ、自分がかつて使った方法を“正確に”真似ただけだ。
それが、恐ろしいほど完璧だった。
会議の終盤、取締役の一人が口を開いた。
「佐伯君、あなたは何のためにこんなことを?」
悠真はゆっくりと答える。
「真実を、正しい形で示したかった。それだけです」
「だが、その“真実”が歪んでいたとしたら?」
質問に、悠真は一瞬だけ目を閉じた。
「……なら、僕も歪んだ人間です」
◇
帰宅したのは夜十時を過ぎていた。
玄関の明かりは点いていない。
靴を脱ぎ、リビングに入ると、茜がソファに座っていた。
テレビには、ニュース番組の特集が映っている。
> 『正義の告発者か、復讐の狂人か――二つの顔を持つ男』
彼女は画面を見つめたまま、言った。
「……あなた、有名になったわね」
「君の望み通りだ」
「違うわ。私は“均衡”を取りたかっただけ」
「均衡? こんなものが?」
「あなたが壊した日常を、私は戻したかった」
「戻ってない。君も、僕も、もう戻れない」
沈黙が降りる。
その静けさの中で、茜の指が震えていることに気づいた。
彼女もまた、限界の縁に立っていた。
「……珠希は?」
「寝てるわ」
「学校で何か言われたか?」
「ええ。子どもたちは残酷よ。“パパが悪い人なんだって”って」
茜の声がかすれた。
「だから私は思うの。あなたを許したら、珠希まで壊れてしまう」
悠真は何も言えなかった。
復讐が“家族”に届いた瞬間、彼の中で何かが軋んだ。
壊したのは彼だ。だが、壊れ続けるのを止められないのも彼自身だった。
◇
夜遅く、悠真は書斎に戻り、机の上のノートPCを開いた。
ニュースサイト、SNS、社内掲示板。
そこに流れる自分の名前は、もう完全に“他人の物語”として消費されている。
正義も悪も、今では見出しの飾り文字だ。
彼は一行だけ、ファイルのメモ欄に書き残した。
> 「正義と復讐の境界線は、常に他人が引く。」
その言葉を保存すると、ゆっくりと電源を落とした。
部屋は闇に沈む。
窓の外で、夜風が低く鳴いた。
どこか遠くで、また新しい記事の通知音が響いた。




