暴かれるファイル、歪んだ愛の真相
朝の光が薄く差し込む。
雨は止んでいたが、空気の重さは消えていない。
佐伯悠真は、昨夜の記憶を反芻するように、机の上のノートパソコンを開いた。
《Operation_AKANE.xlsx》――あのファイルは確かに、茜の端末から編集されていた。
履歴には、深夜二時十五分のタイムスタンプと、「AKANE」というユーザー名。
内容を開くと、計画表のいくつかのセルが書き換えられている。
【想定リスク】の欄に、新たな行が追加されていた。
> 「反撃:対象Aが計画を模倣し、加害者を監視する可能性。」
悠真の指が止まる。呼吸が浅くなる。
……彼女は知っている。すべてを。
背後で小さな音がした。振り返ると、茜が立っていた。
白いパジャマ姿、だが目は静かに澄んでいる。
「朝から何してるの?」
「仕事の整理だ」
「そう。昨日、パソコンのファイル、見たよ」
沈黙。
「……どう思った?」
茜は、かすかに笑った。
「あなたらしいと思った。冷たくて、正確で、効率的。でも――壊すのが上手すぎる」
「君に言われる筋合いはない」
「そうね。でも、私も学んだの。壊すことの方法を」
悠真の目が細くなる。
茜はソファに座り、スマホを取り出した。画面には開かれたメッセージアプリ。そこに映っていたのは――高城隼人ではない。
「西川由梨」――週刊誌記者の名前だった。
「あなたが“正義”を作り上げたように、私は“物語”を作るの」
「何をした?」
「あなたの計画を、少しだけ書き換えておいたの。昨日の夜、あなたの通報メールと同じIPから、別の内容を送ったわ」
悠真の心臓が跳ねる。
「……どういうことだ」
「あなたが隼人を潰すために動いた証拠。あなたが匿名で会社に送ったデータ。それが、今朝には“外部リーク事件の関係者”として報じられるの。あなたの名前付きで」
彼女は淡々と語る。
「私を壊したのはあなた。でも、私を“生かして”いたのもあなた。だから、これは対等な罰よ」
悠真は立ち上がり、机の上のスマホを掴んだ。画面を開くと、すでにニュース速報が届いていた。
> 「内部通報者が情報を操作か――○○コンサル社員・佐伯悠真氏、監査対象に」
視界が揺れる。
茜はゆっくりと立ち上がり、静かに言った。
「あなたが私を追い詰めたように、今度は私があなたを追い詰める番。これは“復讐”じゃない。“均衡”よ」
その言葉に、悠真の中の何かが崩れた。
これまでの冷たい理性が、ひび割れる音を立てて崩壊していく。
「……君は、自分が何をしたか分かってるのか」
「分かってるわ。でもね――」
茜はスマホをテーブルに置き、彼の方を見た。
「あなたと同じで、もう後戻りできないの」
◇
午前九時。
会社のロビーには報道陣が集まり始めていた。
週刊誌だけでなく、ネットメディアも嗅ぎつけている。
“内部不正事件の二重構造”“正義の通報者の裏切り”――見出しはどれも刺激的だ。
社員たちの視線が一斉に悠真へ向かう。
さっきまで操る側にいた彼が、今は追われる側になっていた。
監査室で、田代部長が冷たい声で言う。
「佐伯、これはどういうことだ? お前の端末から送られた通報が、二重に検出されている」
「そんなはずは……」
悠真は説明しようとするが、口の中が乾いて言葉が出ない。
全ての証拠が彼に向かって収束している。
計画は完璧だった――はずだった。
だが、計算のどこかに「茜」という未知の変数があった。
そしてその変数が、すべての方程式を崩壊させた。
◇
夜。
茜は一人、暗いリビングに座っていた。
テーブルの上には、悠真の名刺と、記者から届いたメッセージの通知が光っている。
> 「記事、反響すごいです。あなたの勇気に敬意を。」
茜はその文を見つめたまま、スマホを伏せた。
「勇気、ね……」
その声は、かすれた笑いに変わった。
涙ではなく、嗤いだった。
彼女もまた、気づいていた。
悠真を壊すことで、自分も同じ場所に堕ちていくことを。
正義も復讐も、もう区別できない。
ただ、空っぽな静寂だけが残る。
◇
会社を出た悠真は、夜の街を歩いていた。
スマホの通知が鳴り止まない。
記者、上司、弁護士、友人。
誰もが同じ言葉を口にする――「あなたがやったのか?」
彼は答えない。ただ歩く。
雨上がりのアスファルトに、街灯の光が滲む。
その光は、どこかで茜の瞳の色と重なっていた。
「……これが君の“均衡”か」
呟いた声は風に消える。
彼の中で、何かが静かに終わった。




