見えない罠、壊れゆく連鎖
雨の朝。街の色が一段暗く沈んで見えた。
佐伯悠真は、傘を持たずに家を出た。濡れる感覚を通して、皮膚の下に残っていた「感情」を確かめたかった。
冷たさはある。だが、痛みはもうない。
茜はリビングでニュースを見ていた。週刊誌の記事は、さらに波紋を広げている。
コンサル企業の内部不倫、情報漏洩、匿名の証言。
その記事に直接名前は出ていないが、誰のことを指しているか、関係者なら一目でわかる。
彼女のスマホには絶えず通知が届き、ママ友グループは沈黙したままだった。
「……どうして、こうなったの」
茜のつぶやきに、誰も答えない。珠希は学校へ行き、家には彼女一人。
その孤独は、悠真の設計図に描かれた“第二段階”の通りだった。
◇
会社では、監査の波がさらに広がっていた。
高城隼人は出勤停止処分を受け、社内での立場を完全に失う。
彼の机は片付けられ、名札が外される。
同僚たちは目を合わせず、ただ遠巻きに見ていた。
悠真はその光景を遠くから眺める。
静かな勝利。だが胸の奥では、何かが僅かに軋んでいる。
「彼を完全に潰したら、次は何が残る?」
ふと、そんな声が頭の隅で響いた。
すぐに消した。思考に情を混ぜると計算が狂う。
◇
昼休み。
悠真はスマホを開き、「Operation AKANE」ファイルに新しいフォルダを作る。
タイトルは《Phase2:Isolation》。
そこに、茜のSNSログ、通話履歴、支出履歴を記録していく。
銀行口座の動き、交友関係、メールの差出人。
――すべてを“見える化”する。
彼にとって、復讐とは情報管理の延長線上にあるものだった。
その時、一通のメールが届いた。差出人は不明。
> 「あなたのやっていること、全部知っています。」
添付ファイルには、悠真が匿名で送った通報メールのコピーがあった。
時間、IP、宛先――完全に一致。
背筋が冷たくなる。
「……誰だ?」
ファイルを開いたまま固まる。
内部から漏れた? それとも――外部に観察されている?
◇
その夜、由梨が再び彼を訪ねてきた。
「また少し話がしたくて」
雨に濡れた髪をかき上げ、彼女はリビングに通された。
コーヒーの湯気の向こうで、彼女の表情は柔らかいが、瞳だけは鋭い。
「あなた、彼のことを恨んでる?」
「恨みなんて言葉では足りないよ」
「でも……この騒ぎ、あなたが動かしているんじゃない?」
悠真は微笑んだ。
「人を動かすのは“正義”だ。僕じゃない」
「その正義が壊れた時、どうするの?」
返事をせず、ただ雨音を聞いた。
由梨は短く息を吐いて立ち上がる。
「もう少し、あなたを見てみたい」
その言葉を残し、彼女は去った。
◇
深夜。
家の灯りをすべて落とし、悠真は書斎でメールのログを洗っていた。
“あなたのやっていることを知っている”――その一文が頭から離れない。
発信元を調べる。VPNを経由しているが、断片的に残る痕跡。
接続元の一つが「自宅Wi-Fi」。
……誰かが、家の中から。
寝室の扉を開けると、茜は眠っている。
だがその枕元に置かれたスマホの画面が、うっすらと光っていた。
覗き込むと、見慣れたファイル名が表示されている。
《Operation_AKANE.xlsx》
悠真の心臓が一瞬止まった。
ファイルは開かれており、最新の編集者は――「AKANE」。
茜は、すでに全てを見ていた。
◇
夜風がカーテンを揺らす。
悠真は静かに椅子に座り直した。
自分の計画が、知らぬうちに誰かに監視され、解析されていた。
茜の顔を見ながら、彼は初めて“恐怖”を感じた。
これまでの冷徹な復讐、その正義、その理性。
すべてが、誰かの掌の上にある気がした。
見えない罠は、いつも自分の足元にある。




