触れない手 ― それぞれの正しさ
雨は、音を立てずに降っていた。
窓ガラスに残る水滴が、ゆっくりと流れ落ちる。
茜はキッチンで、洗い終えた食器を一枚ずつ拭いていた。
拭き終えても、すぐに棚に戻さない。
ただ、同じ動作を繰り返している。
悠真はその背中を見ながら、
何度か言葉を探し、
何度も諦めていた。
「……今日、学校から連絡があった。」
ようやく口を開いたのは、
茜だった。
悠真は顔を上げる。
「珠希の?」
「うん。
最近、授業中に発言しなくなったって。」
その声は責める調子ではなかった。
報告というより、確認に近い。
悠真は一度だけ頷く。
「……俺、先生に直接話しに行く。」
茜の手が、止まった。
「……やめて。」
悠真は眉をひそめる。
「どうして。」
「これ以上、目立たせたくない。」
悠真の声が少しだけ強くなる。
「目立たせないようにして、
あの子が楽になるならいい。
でも、今はもう楽じゃない。」
茜は、ゆっくり振り返った。
「だからこそ。
今は静かにしてあげたいの。」
二人の視線が、初めて正面からぶつかる。
「守りたい気持ちは同じなのに、
やり方が違うだけ。」
茜はそう言った。
悠真は首を振る。
「違うんじゃない。
逃げてるんだ。」
その言葉が、
空気を冷やした。
茜の表情が、ほんの一瞬だけ揺れる。
「……逃げてるのは、あなたよ。」
悠真は言葉を失う。
「あなたは、
正しさであの子を守ろうとしてる。
でも、正しさはいつも、
人を一人にする。」
沈黙。
茜は続けた。
「私は……
あの子が一人にならないようにしたいだけ。」
悠真は、何も言えなかった。
夕方。
珠希が帰宅する。
ランドセルを置き、
そのまま自分の部屋に入ろうとする。
悠真は思わず声をかけた。
「珠希。」
珠希は立ち止まる。
振り返らない。
「……何。」
悠真は近づきかけて、止まった。
「……最近、学校どうだ。」
少しの沈黙。
「……普通。」
その一言で、
話は終わってしまった。
悠真はそれ以上、踏み込めなかった。
夜。
茜は珠希の部屋の前に立ち、
ノックしようとして、
結局、手を下ろした。
代わりに、ドアの前に小さなメモを置いた。
「何も話さなくていい。
でも、いつでもここにいる。」
珠希はドアの内側で、その紙を拾い上げた。
声は出さなかった。
ただ、紙を胸に抱いた。
リビング。
悠真と茜は、同じソファに座っていた。
だが、間に空いた隙間は、
昨日より少しだけ広くなっていた。
悠真が低く言う。
「……俺たち、
同じ方向を見てるのに、
同じ場所に立ってない。」
茜は静かに答える。
「……それでも、
同じ子を守ってる。」
悠真は、茜の手を見た。
触れれば届く距離。
けれど、触れなかった。
その距離が、
今の二人の正しさだった。
珠希は、部屋の中で天井を見つめていた。
“パパは戦おうとしている。”
“ママは消えようとしている。”
どちらも、
自分のためだと分かっていた。
でも――
「……どっちも、
私の気持ちじゃない。」
その小さな独り言は、
誰にも届かなかった。
この夜、
家族は誰一人として怒らなかった。
誰一人として泣かなかった。
ただ、
それぞれがそれぞれの正しさを抱えたまま、
少しずつ、
違う方向へ進み始めていた。




