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落ちる影、歪んだ正義

朝靄が街を薄く包む頃、佐伯悠真はいつものように早く目を覚ました。窓の外の通りはまだ静かで、犬の散歩をする人影がちらほら見える。日常は何事もない顔をして続いている。だが、悠真の世界ではすでに別の時間が動き出していた。


 彼は出社前に、もう一度メールの送信履歴と添付ファイルを確認する。匿名の投稿、社内通報、監査依頼――すべては予定通り動いていた。

 「Phase1:Control」――チェックボックスは淡々と埋まっていく。だが、完了は「達成」と同義ではない。まだ山は高く、その裏側には複雑な人間関係の地雷が埋まっている。


 ◇


 午前十時。監査部の会議室。重い空気がそこにある。高城隼人は、資料の山を前にして、目を赤くして座っていた。彼の肩越しに、複数の画面が並び、アクセスログや出張費のタイムスタンプが解析されている。担当の監査官は冷静に説明するが、声の端には確かな厳しさが漂っている。

 「今回は外部の監査委員も入れて調査を行います。透明性のためです」

 高城は俯き、言葉を失った。部屋の隅にいる悠真は、何も言わずその光景を見つめていた。


 だが、会社の外でも動きがあった。匿名投稿を拾ったのは、地元の週刊誌記者・西川由梨だった。彼女は会社の人間関係の疎外とスキャンダルへの渇望を日常のネタにしている若手記者だ。匿名の情報をたたいてみると、面白い反応が返ってきた。社内の動揺、隼人の停職、妻の噂――話は簡単に広がる。

 由梨は調査の一環として悠真に接触する。だが悠真は表向きには何の関係もないように振る舞い、彼女の問いには冷静で曖昧な答えばかり返す。必要なのは「種を蒔く者」であって、「収穫」をする者ではない。記者はその種で記事を育てる。


 ◇


 午後。珠希の学校から電話が入る。小さなトラブルがあったという。放課後、珠希が友達の母親と口論になり、それが小さな噂に発展したらしい。学校側は家庭に配慮しつつも、事態を客観的に見る必要があると告げる。悠真は電話口で静かに頷き、対応を約束した。だが内心では、彼女の「想定リスク」に記した項目が現実になっていることを冷ややかに受け止める。


 夜。悠真は弁護士と面会する。これまでの手続きの進捗を整理し、次の段階――「社会的孤立化」と「資金流の封鎖」――に移るための法的根拠を細かく確認する。弁護士はプロの顔で助言をするが、時折、倫理の話題に触れる。

 「ターゲットを追い詰めるのは法の範囲内であれば可能ですが、子どもや第三者に過度の被害が及べば…」

 悠真はその言葉を黙って聞き、やがてゆっくりと言った。

 「子どもに傷が付くのは避けたい。しかし、これ以上黙っていることはできないんです」

 弁護士は眉をひそめたが、業務的には続けるべき手順を提示した。


 ◇


 翌日、週刊誌の記事が公開される。見出しはセンセーショナルだ。内容は匿名情報を中心に組み立てられており、細部には憶測も混ざっている。だがそれで十分だった。記事は瞬く間にSNSで流れ、地域の小さなコミュニティに波紋を広げる。茜には通報が殺到し、見知らぬ番号からの非難や詮索の電話が鳴り止まない。


 茜はリビングでスマホの画面を見つめ、肩を震わせる。珠希は隣で宿題をしているが、時折母親の様子を窺う。悠真はそこにいて、ただその場を静かに見守る。外で起きることと、ここにある温かさが、今は対立している。彼は自分のやっていることの残酷さを知っている。だが、それを止める理由を見つけられない。


 ◇


 ある夜、由梨が悠真の自宅を訪ねてくる。表向きはコーヒーのお礼と称してだが、彼女の目的はより深い。話の流れで由梨は、匿名情報の出所を探るために様々な角度から質問する。悠真は笑って受け流すが、由梨の目つきは鋭い。

 「あなた、何か知ってるんでしょ?」

 「いいえ、特に」

 「でも、あなたの態度は冷たい。普通なら動揺するはずだよ」

 悠真は短く答える。

 「僕は現実を見ているだけです」


 由梨は席を立ち、帰り際に小さく言った。

 「気をつけて。人を壊すのは簡単だけど、壊れるのもまた人間だよ」

 その言葉が、悠真の胸に微かな針を刺す。だが彼はそれをすぐに振り払った。針は浅く、血は流れない。まだ。


 ◇


 しかし復讐の刃は、予想外の方向にも切り込んでいた。隼人の父親が会社に抗議の電話を入れ、経営陣に事実確認を求める。会社は責任の所在を問われ、週刊誌は更に取材を重ねる。隼人の友人の中には、彼を公然と擁護する者も出るが、それはさらに複雑な人間関係を生むだけだった。


 数日後、珠希が幼稚園の保護者会で涙を見せたことが、また別の親の耳に入り、拡散される。小さな子どもの涙が、想像以上に大きな反応を生む。悠真はそれを知り、胸の奥で何かが揺れる。だが彼は工作員ではない。彼は一人の父であり、同時に復讐という設計図を動かす男だ。その二つの顔が、夜ごとに擦れ合い、摩耗していく。


 ◇


 ある深夜、悠真はふと立ち上がり、家族写真を取り出した。三人で写った笑顔の瞬間。茜の頬に指を添える。写真は冷蔵庫の扉に磁石で留めてあった。珠希の小さな手が、その写真に触れて笑っている。悠真はその笑顔を見て、鋭く息を吐いた。胸に宿る冷たさが、一瞬だけ溶ける気配がした。だがそれは長くは続かなかった。


 「これが終わったら、全部元に戻せるのか」——彼は自問する。答えは誰も知らない。おそらく、戻ることはできないのだろう。復讐は被害の対価ではなく、時間と人間関係の不可逆的な改変を招く。


 外の街灯が一つ、また一つと灯る。窓の外の影は伸び、家の中の灯りと混じり合う。悠真は静かに写真を冷蔵庫に戻し、鍵をかける。その音は小さかったが、彼にとっては決意の合図だった。

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