壊れ始めた距離 ― 何も起きない一日
朝は、静かすぎるほど静かだった。
キッチンで湯を沸かす音。
食器が触れ合う小さな音。
カーテンが風に揺れるかすかな音。
それだけが、この家の“会話”だった。
茜は黙ったまま朝食を並べ、
悠真は新聞を読むふりをし、
珠希はスマートフォンの画面から目を上げなかった。
誰も、昨日のことを口にしない。
学校のことも、会社のことも、ニュースのことも。
まるで――
話さなければ、何も起きていないことになる
とでも信じるように。
「……行ってきます。」
珠希が立ち上がる。
その声は、驚くほど淡々としていた。
茜は一瞬、何か言いかけて、
結局ただ頷いた。
「……気をつけて。」
珠希は靴を履き、
ドアを開け、
一度も振り返らずに出て行った。
ドアが閉まる音が、
やけに遠くに聞こえた。
家の中に、二人だけが残る。
悠真はコーヒーを一口飲み、
苦味にわずかに顔を歪めた。
「……最近、珠希と話してるか。」
茜は少し考えてから答えた。
「……必要なことは、話してる。」
その言葉の曖昧さが、
二人の距離そのものだった。
悠真は続ける。
「必要なことだけじゃ、足りないだろ。」
茜は視線を落としたまま、
静かに言った。
「……何を話せばいいのか、分からないの。」
その声には、怒りも責めもなかった。
ただ、疲れだけがあった。
悠真は何も言えなくなる。
正論はあった。
でも、正論で埋められる隙間ではなかった。
昼過ぎ。
悠真は珠希の部屋の前に立っていた。
ドア越しに、何度かノックしようとして、
結局、手を下ろした。
“今じゃない。”
そう自分に言い聞かせて、
その場を離れる。
その背中を、
茜は廊下の奥から見ていた。
声はかけなかった。
かけられなかった。
夕方。
珠希が帰ってくる。
「……ただいま。」
茜が言う。
「おかえり。」
悠真も続ける。
「……おかえり。」
珠希は軽く頷くだけで、
そのまま自分の部屋へ向かった。
ドアが閉まる。
また、音だけが残る。
悠真は低く呟いた。
「……あの子、俺たちの前で呼吸してないみたいだ。」
茜は小さく答える。
「……私たちが、息苦しくさせてる。」
それ以上、言葉は続かなかった。
夜。
珠希の部屋の灯りは、早く消えた。
茜はソファに座ったまま、
何も映っていないテレビ画面を見つめている。
悠真は隣に座った。
だが、触れなかった。
距離は、ほんの数センチ。
でも、その数センチが、
今の二人には越えられなかった。
「……ねえ、悠真。」
茜が小さく言う。
「この家、
壊れてるって思う?」
悠真はすぐには答えられなかった。
少しして、静かに言った。
「……壊れてるんじゃない。」
「壊れ始めてる。」
茜は目を閉じた。
その言葉は、
否定でも希望でもなく、
ただの事実だった。
その夜、珠希はベッドの中で、
天井を見つめながら考えていた。
“今日は、誰とも喧嘩してない。”
“でも、誰とも近くなかった。”
それが、いちばん怖かった。
誰も泣かなかった。
誰も怒らなかった。
誰も声を荒げなかった。
それでもこの日、
家族は確かに、
ほんの少しだけ――
遠くなった。




