名を失う日 ― 社会の判決
午前九時。
会社の会議室には、いつもより多くの人が集まっていた。
だが、誰も目を合わせようとはしなかった。
悠真は一番奥の席に座り、
机の上に置かれた一枚の書類を見つめていた。
人事処分通知書
その文字だけで、内容はもう分かっていた。
部屋に入ってきた役員の声が淡々と響く。
「本日付で、佐伯悠真は職務停止。
社内アクセス権はすべて凍結。
調査が終了するまで、業務から外れてもらう。」
誰も反論しない。
誰も擁護しない。
悠真はゆっくりと立ち上がり、短く頭を下げた。
「……分かりました。」
それだけだった。
怒りも、抗議も、もう出てこなかった。
会議室を出ると、
廊下の窓から、冬の光が差し込んでいた。
その光は、彼の肩に当たり、
まるで“役割”を剥がすように冷たかった。
同じ頃、別の場所。
茜は、スマートフォンの画面を見つめていた。
画面には、SNSの記事タイトル。
「告発事件の中心人物・佐伯茜、
社会的信用に深刻な影響」
コメント欄には、無数の言葉が流れている。
「被害者ぶってるだけ」
「家庭を壊した女」
「同情できない」
茜は画面を閉じた。
手が震えていた。
鏡を見ると、
そこに映っているのは“妻”でも“母”でもなく、
ただの“名前を持つ標的”だった。
夕方。
ニュース速報が流れる。
「高城隼人氏、内部規定違反により正式解雇」
その一文を見た瞬間、
悠真は目を閉じた。
隼人はもう、この社会に居場所を失った。
名誉も、立場も、説明する権利さえも。
それは、
彼が生きていた証を消されるという意味だった。
夜。
家のリビング。
三人は、同じ空間にいながら、
まるで別々の世界にいるようだった。
テレビは消され、
時計の針の音だけが響いている。
珠希が、ぽつりと呟いた。
「……パパは、悪い人なの?」
悠真は答えられなかった。
茜が、代わりに言った。
「悪い人じゃない。
でも……間違えたの。」
珠希は静かに頷いた。
「じゃあ……私も、間違えるかもしれないね。」
その言葉に、
悠真の胸が締めつけられた。
深夜。
悠真は一人、ベランダに立っていた。
冷たい空気が肺に刺さる。
ポケットの中には、
社員証と名刺。
それらは、もう役に立たない。
“佐伯悠真”という名前は、
今日という日で、
社会の中で意味を失った。
背後で、茜が静かに言った。
「……私たち、もう戻れないね。」
悠真は、空を見上げたまま答えた。
「……うん。」
星は見えなかった。
雲に隠れた夜空は、
まるで彼らの未来そのものだった。
だが、雲の向こうには、
まだ空があることも、
彼は知っていた。
ただ――
その空に辿り着くまでに、
どれほどの痛みが必要なのかを、
まだ知らなかった。




