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教室の沈黙 ― 娘が背負う名前

教室の窓から、冬の光が差し込んでいた。

いつもと同じ朝。

同じ机、同じ黒板、同じ席。


けれど、珠希には分かっていた。

今日は、昨日までと同じ日ではない。


席に着くと、周囲の視線が一瞬だけ集まり、

すぐに逸らされる。

囁き声が、風のように耳元をかすめた。


「……あの子だよね。」

「ニュースの……。」

「かわいそう。」


かわいそう。

その言葉が、胸の奥で小さく刺さる。


先生が入ってきて、出欠を取り始める。

珠希の名前が呼ばれた。


「佐伯、珠希。」

「……はい。」


返事をした瞬間、

教室の空気がわずかに沈んだ。


誰も何も言わない。

でも、何も言わないこと自体が、

すでに“違い”を作っていた。


休み時間。

珠希は机に伏せたまま、ノートを開くふりをしていた。

視界の端で、数人の女子が集まって話している。


「ねえ、聞いた?」

「お母さん、不倫だったんでしょ。」

「お父さんも告発者なんだって。」


誰かが、珠希の方を見た。

すぐに目を逸らした。


珠希は、何も聞こえないふりをした。

聞こえないふりは、

大人になるための最初の嘘だった。


昼休み。

いつも一緒に食べていた友達が、今日は来なかった。

代わりに、机の端に誰かが置いたプリントが落ちてきた。


そこには、落書きのような字で書かれていた。


「裏切り者の娘」


珠希は、その紙を見つめたまま、

ゆっくりと折り畳んだ。


破らなかった。

捨てなかった。


ただ、ポケットに入れた。


それが、自分の名前と一緒に

これから持ち続けるものだと分かっていたから。


放課後。

校門の前で、珠希は立ち止まった。


スマホを取り出し、

母からの未読メッセージを開く。


「今日はどうだった?」


指が動かない。

何を書けばいいのか、分からなかった。


“普通だった”と書けば嘘になる。

“つらかった”と書けば、母を壊してしまう気がした。


珠希は、ただ一言だけ打った。


「大丈夫。」


送信。


それだけで、胸が少しだけ苦しくなった。


帰り道、

公園のベンチに座り、

空を見上げる。


雲がゆっくりと流れている。

何も知らない空。


珠希は小さく呟いた。


「……私、悪いことしてないよね。」


答える人はいない。


家に帰ると、

悠真と茜が並んで待っていた。


二人とも、珠希の顔を見た瞬間に分かった。

“何かが起きた”ことを。


「珠希……。」


茜が近づこうとする。

だが、珠希は一歩だけ後ろに下がった。


「……今日ね。」

小さな声。

「私の名前が、みんなの中で違う意味になった。」


悠真は息を詰めた。


「でもね。」

珠希は、無理に笑った。

「私、ちゃんと学校行くよ。

 逃げないから。」


その言葉は、

大人よりもずっと重かった。


茜の目から、静かに涙が落ちた。


「……ごめんね。」


珠希は首を振った。


「ママのせいじゃない。

 パパのせいでもない。

 ……でも、私の人生に来ちゃった。」


それだけ言って、

自分の部屋に入った。


ドアが閉まる音が、

悠真と茜の胸を深く打った。


悠真は低く呟いた。


「……俺は、あの子の未来まで使ってしまった。」


茜は、何も言えなかった。


窓の外では、

夕焼けが街を赤く染めていた。


その色は、

誰にも見えない“痛み”の色だった。

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