橘瑠衣 ― 真実を設計した女
札幌の市街地から車で四十分。
郊外の山裾に、ひっそりと古い研究棟が佇んでいた。
冬の空気は鋭く冷たく、建物の窓には薄い霜が張りついている。
そこが――橘瑠衣がかつて所属していた大学研究所だった。
悠真と茜は入口の前に立ち、互いに短く息を整えた。
この先に進むことで、もう後戻りはできないと分かっていた。
「本当にここにいるのかしら……」
「監査局の男が言っていた。
“彼女は事件後、ここに戻ってきたきり姿を見せていない”って。」
鉄製の扉を押すと、薄暗い廊下が続いていた。
古い床の冷たさが靴底から伝わり、遠くで換気扇の低い音が鳴っている。
二人は研究室の番号を順に確認していく。
304、305、306――
そして、一番奥の307号室で足が止まった。
ドアの隙間から光が漏れている。
誰かが中にいる。
悠真がノックすると、しばらくの沈黙のあと、
澄んだ声で「どうぞ」と返事があった。
扉を開けると、机に向かう一人の女性がいた。
黒髪を後ろで束ね、白衣を羽織り、
静かな目で二人を見つめている。
その目は、何かを見抜くように深かった。
「あなたが……橘瑠衣さんですか。」
女性は軽く頷いた。
「そう。そしてあなたたちが――“Report_0”を世に出した人ね。」
茜の肩がわずかに震える。
「どうして、私たちのことを……」
「ニュースを見たわ。
それに、あなたたちがあのUSBを回収しに来るのは予想できた。」
瑠衣は眼鏡を外し、指で軽く眉間を押さえる。
「座って。何から話せばいいのか……私にも整理が必要だから。」
三人は研究室の隅にある小さな丸テーブルを囲んだ。
瑠衣は一枚の古いノートPCを開き、画面にログファイルを表示した。
「これが、最初の“匿名告発システム”の原型。
五年前、会社の依頼で私が開発したものよ。」
画面には、初期のメール送信ログが並んでいた。
そこに――三つの名前が確認できた。
高城隼人
佐伯悠真
そして、橘瑠衣
茜が息を呑む。
「あなたも……告発に関わっていた?」
瑠衣は静かに首を振った。
「違う。
私は“君たちの送ったメールが、どこへ流れたか”を知っているだけ。」
悠真が眉を寄せる。
「どういう意味だ。」
瑠衣は画面を指差した。
「これ。本来、匿名通報システムは
“監査局直通”になっているはずだった。
でも実際は――別の部署を経由していた。」
ログには、見覚えのないラベルが表示されている。
Internal Security Division
内部警備部門
“ISD – Gate 03”
「……ISD?」悠真が呟く。
「聞いたこともない部署だ。」
瑠衣は小さく笑った。
「普通は知らないわ。
機密情報を“選別”し、“必要なものだけ監査に送る”。
つまり、通報内容を操作するためのフィルターよ。」
茜は凍りついた表情で言った。
「じゃあ、あの時私が送った告発メールは……」
「隼人に届いたのではなく、
ISDで“内容を書き換えられてから”監査部に転送された。」
研究室に沈黙が落ちた。
冷たい蛍光灯の光が瑠衣の横顔に影を作る。
「だから、あなたたちはお互いを誤解し、
隼人は会社から排除され、
あなたたち夫婦は――壊された。」
悠真は拳を握りしめた。
「つまり、俺たちは……会社内の権力争いに利用された?」
瑠衣は頷いた。
「もっと正確に言えば――
“内部の誰かが隼人を潰すために、あなたたちを利用した”。」
「誰が?」
瑠衣は画面を閉じ、二人を見つめた。
深い黒い瞳には、迷いも震えもなかった。
ただ、静かな真実だけが宿っていた。
「その人物の名前なら分かっている。
でも、教える前にひとつだけ答えてほしい。」
「何を。」
「あなたたちはまだ――
“真実を最後まで見る覚悟”がある?」
茜は迷いなく頷いた。
悠真も静かに息を吸い、瑠衣を見つめ返した。
「ここまで来て、逃げる理由はない。」
瑠衣は小さく微笑んだ。
その笑みは悲しく、どこか安らぎがあった。
「では、教えるわ。
あなたたちを壊し、隼人を追い込み、
告発システムの裏で糸を引いていた人物の名前――」
そして瑠衣は、ゆっくりとその名前を口にした。
「“黒瀬翔一”。
あなたの元上司よ、悠真さん。」
研究室の窓の外で、雪が激しく降り始めた。
まるで、これから暴かれる真実に耐えるかのように。




