沈む夕日、冷たい計算
夕暮れの光が、リビングの壁を橙色に染めていた。
佐伯悠真は、ソファに腰を下ろし、手元のノートPCを静かに閉じる。
画面には、午前中に整理したタイムライン――茜と隼人の接触履歴、会社の内部メールの転送記録、GPSの移動データが整然と並んでいた。
「裏切りは感情で返すな。構造で潰せ」
それは、かつて上司が口にした言葉だった。
皮肉にも、いまの彼に最もふさわしい哲学になっている。
茜はキッチンで夕食の支度をしている。包丁の音が一定のリズムで響く。
彼女は何も知らないふりをしている。あるいは、本当に気づいていないと思いたいのかもしれない。
だが、悠真にはもう、そんな想像に意味はない。彼にとって茜は「感情」ではなく、「変数」に変わった。
テーブルに置かれたスマホが震える。
画面には、部下の一人・宮下からのメッセージが届いていた。
> 「高城さん、監査部から追加資料を求められています。かなりピリついてます」
> 「田代部長も巻き込まれてるみたいです。気をつけた方がいいですよ」
悠真は短く「ありがとう」と返す。
その瞬間、彼の中の“計画”はひとつ次の段階へ進んだ。
――組織を使え。人は正義の名で動く。
彼は即座にメールを開く。宛先はコンプライアンス部門の責任者。件名は「データアクセス権限に関する確認」。
本文は淡々としていた。
> 「一部の社員が、外部ストレージを経由して資料を持ち出している形跡があるようです。
> 念のため調査をお願いできませんか。
> 関連ログの一部を添付します。
> ※私が特定の人物を疑っているわけではありません」
送信ボタンを押す。
送信後、彼はゆっくりとカップに手を伸ばした。冷めたコーヒーの味は、妙に現実的だった。
◇
夜八時過ぎ。
茜はようやく食器を洗い終え、疲れたように椅子に腰を下ろす。
「今日は静かだね」
「仕事が多いんだ」
「……そう」
会話は薄い紙のように脆く、風が吹けば破れそうだった。
「高城くん、最近どう?」
悠真はわざと何気ない調子で尋ねた。
茜の手が一瞬止まる。
「……元気みたいよ。なんで?」
「いや、監査部で名前を聞いたから」
「え……」
その小さな声に、恐怖が混じった。
彼女の指が震えるのを、悠真は見逃さなかった。
「仕事のことだから、君が心配することじゃないよ」
そう言いながら、彼は立ち上がる。
背中越しに茜の息が詰まる音がした。
その音が、まるで勝利の証のように聞こえる。
◇
深夜。
書斎の灯りだけが、家の中でひとつだけ残っていた。
悠真はパソコンの前で、エクセルのシートを開く。
タイトルは《Operation AKANE – Phase1/Control》。
列には、次のような項目が並んでいる。
- 【目的】信用破壊/心理的圧迫
- 【対象】高城隼人・佐伯茜
- 【手段】社内調査/SNS拡散/匿名通報
- 【進捗】第一段階完了(社内監査発動)
- 【次段階】茜の人間関係切断、社会的孤立化
- 【想定リスク】娘(珠希)への影響/外部介入
行間に、彼の筆跡が小さく添えられていた。
> 「感情を入れるな。敵を愛した瞬間に敗北する。」
画面の光に照らされる顔は、もはや“家族を守る父親”のものではなかった。
そこにあるのは、冷徹な管理者の表情――「壊す側」の人間の顔。
机の隅に置かれた写真立て。そこには三人で撮った家族写真。
茜の笑顔はまだ、幸福を信じている頃のものだった。
悠真はその写真を一度だけ見つめ、やがて伏せた。
復讐は愛の延長線ではない。愛の終点だ。
そう自分に言い聞かせるように、静かにノートを閉じた。
◇
翌朝。
出社前のニュースアプリに、一つの記事が目に入る。
> 「○○コンサル社員に情報漏洩疑惑。内部調査進行中」
記事の中には、名前は出ていない。だが、写真の一部に隼人のシルエットがぼんやり映っていた。
悠真はスマホをポケットに入れ、無表情のまま家を出る。
背後で茜の声がした。
「ねえ……あなた、最近冷たくない?」
彼は立ち止まらず、ただ一言だけ残した。
「冷たいんじゃない。現実を見てるだけだ。」
玄関の扉が閉まる音が、家の中に響く。
その音は、二人の関係の終焉を告げる鐘のように静かだった。




