社内広報 ― すり替えられた正義
午前九時、社内ポータルに臨時のお知らせが掲示された。
> 【危機対処広報】
> 「当社は内部通報制度に基づき、倫理・法令遵守を徹底しております。
> 通報者の匿名性は最大限保護されます。」
そこで言及された“通報者”は、誰でもなかった。
だが社員たちには、誰のことかが分かってしまう。
――“茜ではない誰か”、そして“茜は対象側”。
言葉は中立でも、行間が裁きを下した。
昼、会議室。
社外弁護士が主導するヒアリングが始まった。
録音機が置かれ、議事メモが淡々と取られる。
「佐伯さん、これは攻撃ではありません。事実確認です。」
弁護士の声は滑らかで、角がない。
だが質問は鋭かった。
「退勤後の行動予定は事前申告されましたか。」
「社内メッセンジャーで“私的連絡”を行いましたか。」
「内部監査に関わる情報の取扱いにつき、教育を受けましたか。」
“はい/いいえ”で積み上がるのは、疑いの輪郭だった。
茜の言い分は、どの設問にも収まらない。
反論は、議事メモの余白に沈んでいった。
同じころ、別フロア。
HRは“ハラスメント相談窓口の拡充”を掲げ、匿名フォームを開いた。
> 「見聞きした懸念を、安心して書き込めます」
フォームには日付・部署・目撃情報――
**具体性を装った“印象の集積”**が流れ込む。
「前から親しげだった」「上席と近すぎる」
“事実”ではなく“社交の記憶”が、茜を形作っていく。
午後には、フォームの集計がボードに上がった。
> 【傾向】社内の倫理観に対する不安の声が増加
“傾向”は、判決に変わる一歩手前だった。
夕方、都心のカフェ。
悠真は弁護士からの返信を読み、短くメモをとる。
> 「広報ラインは“通報者保護”を楯にする。
> 次は“再発防止策”として組織改編を促せ。」
彼は準備していた“ホワイトペーパー”を二社の経済記者に投げた。
タイトルは**《倫理統治の盲点:通報制度は誰を守るのか》**。
固有名詞は伏せ、図表と脚注で“構造の欠陥”を示す。
――具体を言わず、誰かを確実に想起させる文章。
画面のカーソルが点滅する。
> 「名誉は判決で消えるのではない。
> それ以前に“制度設計”で削れる。」
悠真はファイルを送信し、カップの底を見た。
冷めた苦味だけが残った。
夜、社内タウンホール。
執行役員が壇上で語る。
「全社員の安全・尊厳を守ります。
内部通報の保護を最優先に、必要な人事措置を行います。」
会場は拍手した。
倫理と安心が並ぶスライド。
スクリーンの白が、誰かの居場所を消す白に見えた。
解散後、廊下に小さな噂が広がる。
「対象者、もう来月いないって」
「通報者保護だから、名前は出せないけどね」
茜が通りかかると、噂は音を失った。
沈黙は、もっと雄弁だった。
夜更け、法務から茜に文書が届く。
> 【就業上の制限に関する合意書(案)】
> ・社内システムへのアクセス一時停止
> ・対外発信の事前承認
> ・社内関係者との非公式接触の自粛
サイン欄に、空白。
その空白が、“立場”よりも大きく見えた。
茜はペンを握り、止めた。
――書けば、生き延びる。
――書かなければ、消える。
窓の外、オフィスの灯が一つ、また一つと落ちていく。
茜はペンを置き、深く息を吐いた。
「正義に、私の声は要らないのね。」




