母の手紙 ― 言葉にならない想い
昼下がりの病院。
白いカーテンの隙間から、冬の日差しが柔らかく差し込んでいた。
茜はベッドの上で、小さな封筒と便箋を前にしていた。
昨夜から、何度も書いては破り、また書いては涙で滲ませた。
今日は、もう逃げない。
そう決めて、ゆっくりとペンを握った。
> 「珠希へ。」
言葉を選ぶように、一文字ずつ綴る。
> 「あなたが笑うと、冬でも部屋が明るくなるの。
> あなたの声を聞くたびに、私はまだ母でいられる気がした。
> なのに、その手を離してしまったね。ごめんね。」
指が震える。
インクが便箋の端に滲み、涙と混ざる。
> 「お父さんを、責めないで。
> あの人は、誰よりも真っすぐな人だから。
> でも、真っすぐすぎる人は、時々、自分を壊してしまうの。」
書き終えた瞬間、胸の奥が静かに痛んだ。
「……届いてほしい。」
それだけを呟いて、封を閉じた。
病院の廊下を、看護師が通りかかる。
茜は呼び止めた。
「これ、郵便に出していただけますか。」
封筒には、宛名が丁寧に書かれている。
> 東京都文京区〇〇町 佐伯珠希様
しかし――手が震えたせいで、数字の一部が滲んでいた。
看護師は善意で確認もせず、封筒を受け取り、郵便ポストへ投函した。
その“わずかな誤差”が、運命を変えるとは誰も知らなかった。
数日後。
佐伯家のポストに、一通の封筒が届いた。
悠真が仕事帰りに取り出す。
表の宛名には、見覚えのある筆跡。
――茜の字だ。
封を切る前に、胸の奥がざわついた。
部屋に戻り、静かにソファに腰を下ろす。
手紙を開くと、インクの跡が涙で滲んでいた。
読み進めるうちに、手が止まる。
> 「あなたが笑っていた頃、
> 私はその笑顔の影で、ずっと怯えていました。
> “いつか、あなたが私を嫌う日が来るのではないか”って。
> その不安に、私は自分を見失っていったの。」
> 「私はもう、妻としては失格です。
> でも、母としてだけは、あなたたちを想っていたい。
> たとえ、もう会えなくても。」
便箋の最後に、震える字で一文が書かれていた。
> 「悠真へ。
> あなたが選んだ“正しさ”の先に、
> まだ私たちの幸せの欠片があると信じています。」
悠真は、しばらく動けなかった。
目の前の文字が、ぼやけていく。
その言葉の一つひとつが、胸に突き刺さるようだった。
机の上のスマホが震える。
ディスプレイには「学校:藤本先生」の文字。
だが、悠真は応答ボタンを押せなかった。
> 「……俺は何を、守りたかったんだ?」
自分の“正義”が、すでに誰かを殺していた。
その事実を、やっと理解した瞬間だった。
夜。
病院のベッドの上で、茜は夢を見ていた。
雪の降る庭で、珠希が手を振っている。
その後ろには、笑っている悠真の姿。
手を伸ばそうとした瞬間、視界が白くかすむ。
モニターの警告音が鳴る。
ナースコールの声が響き、看護師が駆け寄った。
> 「脈が落ちています!心拍数低下!」
ベッドの上で、茜の手から便箋の切れ端が滑り落ちた。
そこにはたった一言。
> 「ゆるして。」




