冬の帰り道 ― 小さな背中
放課後の風は、刺すように冷たかった。
冬の陽が落ちると、校庭の影は長く伸び、白い息が空に消える。
珠希は一人、ランドセルを背負ったまま歩道橋を渡っていた。
笑い声が遠くで聞こえる。
だが、それはもう自分には関係のない音だった。
クラスメイトたちは、最近もう話しかけてこない。
母親の名前が“ニュース”になったあの日から、空気が変わった。
「かわいそう」と言う声の裏にある軽蔑。
「うちは違う」と言う視線の壁。
――学校は、戦場よりも冷たい場所になった。
珠希は手袋の上から拳を握った。
「……お母さん、どうして。」
声に出すと、雪の粒が頬に落ちた。
職員室。
担任の藤本先生が、電話を持ちながら眉をひそめている。
「佐伯さんのお父様に連絡は……はい、そうです。
最近、珠希さんの表情が少し硬くて。家庭の方で何か――」
彼女は視線を窓の外に向けた。
校門を出ていく小さな背中が、雪の中に溶けていく。
> 「……あの子、ひとりで帰ってるのね。」
その頃、病院の一室。
白いカーテンの隙間から、弱い光が射していた。
茜はベッドの上でペンを握っていた。
机の上には便箋。
冒頭に書かれた一行――
> 「珠希へ」
手が震える。
その下に続く言葉が出てこない。
脳裏に浮かぶのは、娘の笑顔。
そして、あの夜、泣きながら自分を呼んだ声。
> 「まま、どうして帰ってこないの?」
唇を噛み、茜は小さく声を漏らした。
「……ごめんね。」
けれど、その言葉はかすれ、すぐに消えた。
喉が塞がるような痛み。
看護師が静かに入ってきて言った。
「佐伯さん、少し休みましょう。今日は無理をしないで。」
茜はペンを置き、天井を見つめた。
その目から、涙が一筋だけ滑り落ちた。
夜。
珠希が家に帰ると、リビングの灯りがついていた。
テーブルの上には、簡素な夕食。
だが、椅子は一つ分だけ空いている。
「お父さん、また遅いの?」
声に出しても、返事はない。
テレビをつけると、ニュースが流れていた。
> 「先日話題になった内部不正問題、関係者は依然消息不明――」
隼人の名前がぼかされた映像が流れる。
珠希はチャンネルを変えようとして、リモコンを落とした。
画面が暗転し、自分の映る影だけが残った。
その小さな影が、部屋の中で震えていた。
深夜。
玄関の鍵が回る音。
悠真が帰宅した。
疲れた顔でコートを脱ぎ、無言のままテーブルに座る。
珠希がキッチンから顔を出した。
「おかえり。」
小さな声。
悠真は一瞬驚いたように娘を見た。
「起きてたのか。」
「うん……学校で先生が言ってた。面談したいって。」
沈黙。
時計の秒針の音が響く。
悠真はゆっくりと頷いた。
「わかった。行くよ。」
それだけを言って、視線を逸らした。
珠希は小さく唇を動かした。
「……お父さん、ママに会いたい。」
その言葉が、悠真の胸を突き刺した。
返す言葉が、なかった。
その夜、悠真は書斎でひとり、茜の名前を検索した。
結果に出てくるのは、報道、SNSの悪意、掲示板の嘲笑。
どのページにも、かつての“家族”の姿はない。
ディスプレイの光が、顔を白く照らす。
手のひらが震え、指が止まる。
> 「……俺は、本当に正しかったのか?」
画面を閉じても、その問いだけが残った。
そして、隣の部屋からは、娘のすすり泣く声。
悠真は目を閉じた。
静寂の中で、復讐の音が軋むように崩れていった。




