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崩壊の音 ― 消えた二人

 冬の朝。

 リビングの時計が、いつものように七時を指していた。

 だが食卓の上には、湯気の立つ味噌汁も、パンの香りもない。

 佐伯悠真はスーツを着たまま、黙って冷めたコーヒーを見つめていた。


 テーブルの端に、娘・**珠希たまき**の教科書が置かれている。

 表紙には、小さな落書き――

 「がんばれ、まま。」

 震えた字で書かれたその言葉に、悠真の指が一瞬止まった。


 玄関の音。

 珠希が制服姿で立っている。

 「おはよう、お父さん。」

 その声は、少し乾いていた。


 悠真は笑おうとしたが、喉が動かなかった。

 > 「……おはよう。行ってらっしゃい。」

 少女は頷き、靴を履いて出て行った。

 扉が閉まる音が、やけに重く響いた。


 その日、会社では隼人の件が正式に通達された。

 > 【社員 高城隼人:自己都合による退職】

 だが実際、彼の姿を見た者はいない。

 マンションの部屋は空になり、ポストには新聞と広告だけが詰まっていた。


 隣人の話では、数日前の夜、誰かが荷物を持って出ていったという。

 それが最後だった。

 ネットの噂では「逃亡」「自殺」「国外逃避」――真相は誰にもわからない。


 茜はニュースを見て、手に持ったカップを落とした。

 陶器が床で割れ、破片が散る。

 そのまま、彼女は声を出さなかった。


 鏡の前で、唇を動かそうとしても音が出ない。

 喉が震え、声が途切れる。

 ――言葉が出ない。


 医者は“急性ストレス反応による失語”と診断した。

 薬と休養を、と言われても、彼女の目には焦点がなかった。


 一方、珠希の学校。

 休み時間、教室の隅で、友人たちの声が聞こえる。

 「ねえ、あの子のママって、ニュースの人でしょ?」

 「なんか悪いことしたんだって。」


 笑い声。

 珠希は席を立った。

 視界が滲み、息が詰まる。


 帰り道、公園のベンチに座り、空を見上げた。

 冬の空は、まるで割れたガラスのように冷たく光っていた。

 ポケットからスマホを取り出し、母の番号を押す。

 ――呼び出し音が続くだけ。


 「……お母さん、どうして?」

 声が震え、涙が頬を伝う。

 その瞬間、彼女の背後に悠真の影が落ちた。


 「珠希。」

 娘は驚いたように振り向いた。

 「……お父さん、迎えに来たの?」

 悠真は頷いた。

 「寒いから、帰ろう。」


 二人は黙って歩いた。

 家までの道のりは、わずか十五分。

 けれど、互いに一言も交わさなかった。


 玄関を開けると、リビングの明かりがついていた。

 机の上に一枚の封筒。

 差出人は「佐伯茜」。


 中には、乱れた字で書かれた短いメモ。

 > 「私はもう、誰の妻でもない。

 > でも、母であることだけは失いたくない。」


 悠真の手が震えた。

 封筒の端が濡れて、涙の跡のような染みが広がる。


 夜。

 家の外は静かだった。

 窓の外で雪が舞い、街灯がぼんやりと滲む。


 珠希は自室のベッドで眠れずにいた。

 隣の部屋からは、父の低い声が漏れてくる。

 独り言のように、途切れ途切れに。


 > 「俺は……間違ってない。

 > 間違ってないはずだ。」


 その声に、少女は布団を握りしめた。

 > 「お父さん……怖いよ。」


 ――復讐の静寂は、ついに家庭にまで侵食していた。

 音もなく、壊れていく家の中で、

 悠真は初めて、自分の勝利が何を奪ったのかを理解し始めた。

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