壊れていく声 ― 信頼という罠
東京の朝。
冬の光がビルの窓に反射し、街はいつものように動いていた。
だが、グローバル・ストラトン本社の一角だけは、静かに熱を帯びていた。
内部監査部から新しい報告が届いたのだ。
> 「高城隼人の調査過程において、
> 情報提供者と目される佐伯茜氏にも一部関与の疑い。」
会議室の空気が凍りつく。
上司が低い声で言った。
「……つまり、茜さんが“知っていて黙っていた”ということか?」
「その可能性があります。」
机の上には一通の匿名報告書。
そこには、社内文書を模した正確な書式、内部データの断片、
そして最後に――
> 「この報告は、組織を守るための内部是正を目的とする。」
署名は、Z.P.。
その昼、茜は何も知らずに部署へ戻ってきた。
同僚たちの視線が、いつもより少しだけ長い。
コピー機の前で、小さく聞こえた。
「……やっぱり、グルだったんじゃない?」
「奥さんなのに、知らなかったっておかしいよね。」
茜の手から書類が滑り落ちた。
拾おうとした瞬間、彼女の耳に別の声が刺さる。
「部長が上に報告するらしい。」
「もう戻れないんじゃない?」
その言葉が、静かに彼女の心を締めつけた。
夕方。
茜はオフィスを出ると、近くのカフェに逃げ込んだ。
カップの中のコーヒーはほとんど減っていない。
スマホの画面を見つめたまま、指が動かない。
通知がひとつ。
> 【差出人:不明】
> 「あなたが“知らなかった”ことを、誰が信じる?」
震える手で返信を打つ。
> 「あなたでしょ、悠真。やめて。」
数秒後、返事が届いた。
> 「やめる? それはあなたが、俺を止めたときの台詞だろう。」
茜の目に涙が滲む。
あの日の記憶が甦る――
リビングのテーブル越しに、悠真が静かに言った言葉。
> 「俺は奪わない。ただ、信じさせないだけだ。」
翌朝、社内で“通達”が出た。
> 「高城・佐伯両名について、暫定的に倫理調査委員会を設置する。」
全社メールで、たった一行。
それだけで、十分だった。
沈黙していた社員たちは、これを“確定情報”と受け取る。
昼のカフェテリア。
茜が席に着くと、周りの会話が止まった。
数秒後、誰かがそっと席を立つ。
一人、また一人――。
残されたのは、彼女の前に置かれたトレーだけ。
温かいはずのスープは、もう冷たくなっていた。
その夜。
悠真は弁護士と小さな居酒屋で話していた。
弁護士が苦笑しながら言う。
「あなたの通報、ずいぶん波紋を呼んでますね。」
「波紋でいい。俺は波を起こすつもりはない。
ただ、彼女の“足元”を消してるだけだ。」
「彼女?」
悠真はグラスの中の氷を見つめた。
「茜だ。」
弁護士が一瞬、言葉を失う。
悠真は続ける。
「裏切りを罰するのに、暴力も怒りもいらない。
信頼をひとつずつ外していけば、人は自分で落ちていく。」
グラスが机に触れ、乾いた音を立てた。
深夜。
茜のスマホが震えた。
画面には新しい通知。
> 【INTRA HUB】社内コメント:「佐伯さん、少し距離を置いた方がいいかも」
その一行が、何よりも重く感じた。
職場の“声”は、いつだって匿名より冷たい。
窓の外では、夜の雨が静かに降り続いていた。
茜の中で、何かが折れる音がした。




