表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/43

彼方への列車、沈黙の終わり

 夜明け前のホームは、白く凍りついていた。

 吐く息が白く広がり、遠くで信号機が赤く瞬く。

 佐伯悠真は、手に小さなトランクを一つだけ持ち、線路の先を見つめていた。

 始発まで、あと十五分。

 風が、薄く残った雪を吹き上げる。


 彼の耳には、まだ昨夜の娘の声が残っていた。

 ――「パパ、帰ってきてね」

 その一言が、何度も胸の奥で反響する。

 あの小さな声だけが、今も彼を現実に繋ぎ止めていた。


 だが、彼はもう戻ることを選ばなかった。

 復讐の果てに残ったのは“誰も救われない真実”だけ。

 その真実から、最も遠い場所へ行くことが、唯一の償いに思えた。


 列車がゆっくりとホームに滑り込む。

 「北行特急、間もなく発車します」

 アナウンスが響く。

 悠真は小さく息を吸い込み、ポケットから一枚の紙を取り出した。

 それは娘の書いた手紙――幼い文字で綴られた言葉。


 > 「パパ、またいっしょにごはんたべようね。」


 指先が震える。

 紙を胸に押し当てると、心の奥に鈍い痛みが走った。

 「……珠希、すまない」


 扉が開く音。

 悠真は足を踏み出した。

 列車の中は暖かく、窓の外の世界がゆっくりと遠ざかっていく。


 ◇


 一方、自宅では、朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。

 茜はテーブルに座り、冷めたコーヒーを見つめている。

 昨夜の涙の跡がまだ残る頬を指でなぞりながら、ふと微笑んだ。

 「……あの人、きっと生きてる」


 リビングの奥で、珠希がランドセルを背負って出てくる。

 「ママ、パパのノート、学校に持っていっちゃダメ?」

 「……いいわ。でも、落とさないでね」

 「うん!」

 小さな背中が玄関へと駆けていく。

 茜はその後ろ姿を見つめながら、深く息を吸い込んだ。


 ――残された者にも、生きる理由がある。

 それが、悠真が最後に望んだ「罰」なのだと、今は少し分かる気がした。


 ◇


 列車の車窓から見える景色は、東京のビル群を離れ、灰色の郊外へと変わっていく。

 悠真はノートを開き、ページの端に小さく書き込んだ。


 > 「罪とは、他人の痛みを理解できなかった時間のことだ。」


 窓の外では雪が舞い始めていた。

 白い粒が線路に落ちて、すぐに溶ける。

 彼はその光景を見ながら、わずかに微笑んだ。


 「……茜、珠希。どうか、俺のいない世界で生き直してくれ。」


 列車は北へ向かって走り出す。

 その先に何があるのか、彼には分からない。

 だが、初めて“静かな心”を感じていた。


 ◇


 午後。

 茜は警察からの電話を受けた。

 「ご主人と思われる人物が、北行特急に乗った形跡があります」

 「……ありがとうございます」

 電話を切った後、彼女は深く目を閉じた。

 涙は出なかった。

 代わりに、胸の奥で静かな光が灯る。


 その夜、珠希は窓辺で星を見ていた。

 「ママ、あの一番光ってる星、パパかな?」

 茜は微笑み、そっと頷いた。

 「そうね。たぶん、あの光の向こうで、私たちを見てる」

 「じゃあ、手を振るね」

 小さな手が夜空に伸びる。

 茜も同じ方向に手を伸ばした。


 母と娘の間に、静かで確かな温もりが戻っていた。


 ◇


 列車の終点はまだ遠い。

 悠真は目を閉じ、胸ポケットの中の小さな手紙を指で撫でた。

 車窓の外、白い雪原の彼方に、ひとすじの光が差していた。

 その光は、遠く離れた家の灯と同じ色をしていた。


 ――これでいい。

 そう呟いたとき、彼の心は、ようやく静かに止まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ