彼方への列車、沈黙の終わり
夜明け前のホームは、白く凍りついていた。
吐く息が白く広がり、遠くで信号機が赤く瞬く。
佐伯悠真は、手に小さなトランクを一つだけ持ち、線路の先を見つめていた。
始発まで、あと十五分。
風が、薄く残った雪を吹き上げる。
彼の耳には、まだ昨夜の娘の声が残っていた。
――「パパ、帰ってきてね」
その一言が、何度も胸の奥で反響する。
あの小さな声だけが、今も彼を現実に繋ぎ止めていた。
だが、彼はもう戻ることを選ばなかった。
復讐の果てに残ったのは“誰も救われない真実”だけ。
その真実から、最も遠い場所へ行くことが、唯一の償いに思えた。
列車がゆっくりとホームに滑り込む。
「北行特急、間もなく発車します」
アナウンスが響く。
悠真は小さく息を吸い込み、ポケットから一枚の紙を取り出した。
それは娘の書いた手紙――幼い文字で綴られた言葉。
> 「パパ、またいっしょにごはんたべようね。」
指先が震える。
紙を胸に押し当てると、心の奥に鈍い痛みが走った。
「……珠希、すまない」
扉が開く音。
悠真は足を踏み出した。
列車の中は暖かく、窓の外の世界がゆっくりと遠ざかっていく。
◇
一方、自宅では、朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
茜はテーブルに座り、冷めたコーヒーを見つめている。
昨夜の涙の跡がまだ残る頬を指でなぞりながら、ふと微笑んだ。
「……あの人、きっと生きてる」
リビングの奥で、珠希がランドセルを背負って出てくる。
「ママ、パパのノート、学校に持っていっちゃダメ?」
「……いいわ。でも、落とさないでね」
「うん!」
小さな背中が玄関へと駆けていく。
茜はその後ろ姿を見つめながら、深く息を吸い込んだ。
――残された者にも、生きる理由がある。
それが、悠真が最後に望んだ「罰」なのだと、今は少し分かる気がした。
◇
列車の車窓から見える景色は、東京のビル群を離れ、灰色の郊外へと変わっていく。
悠真はノートを開き、ページの端に小さく書き込んだ。
> 「罪とは、他人の痛みを理解できなかった時間のことだ。」
窓の外では雪が舞い始めていた。
白い粒が線路に落ちて、すぐに溶ける。
彼はその光景を見ながら、わずかに微笑んだ。
「……茜、珠希。どうか、俺のいない世界で生き直してくれ。」
列車は北へ向かって走り出す。
その先に何があるのか、彼には分からない。
だが、初めて“静かな心”を感じていた。
◇
午後。
茜は警察からの電話を受けた。
「ご主人と思われる人物が、北行特急に乗った形跡があります」
「……ありがとうございます」
電話を切った後、彼女は深く目を閉じた。
涙は出なかった。
代わりに、胸の奥で静かな光が灯る。
その夜、珠希は窓辺で星を見ていた。
「ママ、あの一番光ってる星、パパかな?」
茜は微笑み、そっと頷いた。
「そうね。たぶん、あの光の向こうで、私たちを見てる」
「じゃあ、手を振るね」
小さな手が夜空に伸びる。
茜も同じ方向に手を伸ばした。
母と娘の間に、静かで確かな温もりが戻っていた。
◇
列車の終点はまだ遠い。
悠真は目を閉じ、胸ポケットの中の小さな手紙を指で撫でた。
車窓の外、白い雪原の彼方に、ひとすじの光が差していた。
その光は、遠く離れた家の灯と同じ色をしていた。
――これでいい。
そう呟いたとき、彼の心は、ようやく静かに止まった。




