消えた父、残された言葉
朝の風が冷たい。
十一月の空は低く、灰色の雲が街を覆っていた。
佐伯茜は窓際に立ち、外の通りをぼんやりと見ていた。
昨夜、悠真の手紙を読んでから、眠ることができなかった。
家の中は静かだが、その静けさが逆に不気味に響く。
テーブルの上には、悠真の名刺と鍵束。
車の鍵、家の鍵、会社のセキュリティタグ――
どれも今はもう、ただの金属の塊に過ぎなかった。
「……どこに行ったの」
小さく呟いた声は、自分でも聞き取れないほど弱かった。
スマホを手に取っても、通話履歴の最上段には“佐伯悠真”の名前。
押すことができない。
かけたところで、もう繋がらないことを、茜は分かっていた。
◇
その頃、警察署の生活安全課では、一枚の失踪届が受理されていた。
届出人:佐伯茜。
「夫が家を出てから連絡が取れません」
担当の刑事は淡々と記録を取る。
「自殺をほのめかすようなことは?」
「……分かりません。でも、手紙が残っていました」
茜の指先が震える。封筒の角は、何度も握られたせいで皺になっていた。
刑事はそれを受け取り、目を通す。
「遠くへ行く、ね……」
「どこかに、行き先の手がかりは?」
茜は首を振る。
「彼は、全部消していったんです。パソコンも、メールも、アカウントも」
刑事は短く息を吐いた。
「しばらく待ちましょう。自発的な家出かもしれません」
その言葉が、茜の胸に鈍く刺さった。
――“家出”という二文字が、あまりにも軽く響いた。
十年の結婚、共有した時間、その全部が「一時的な失踪」という言葉で片付けられていく。
◇
午後、珠希は学校の帰り道で足を止めた。
空は夕暮れの色に変わり、冷たい風が頬を撫でる。
ランドセルの中には、父がくれたキーホルダー――小さな銀色の星。
「パパ、星が好きだったよね」
彼女はつぶやき、空を見上げた。
まだ星は出ていない。けれど、どこかで見ているような気がした。
帰宅すると、母が電話で誰かと話していた。
「……はい、分かりました。連絡があればすぐに」
受話器を置いた茜の目の下には、濃い隈。
「珠希、今日は早く寝なさい」
「ママ、パパは?」
「すぐ帰ってくるわ」
その言葉を言う声が、震えていた。
◇
夜。
茜は一人、書斎に入った。
机の上には、悠真のノートパソコン。
電源を入れると、黒い画面に一行のメッセージが浮かび上がる。
> 「君がこれを見つけたなら、もう僕は戻らない。」
ファイル名は《Final_Log.txt》。
開くと、短い文章が続いていた。
> 「僕はすべてを壊した。正義も愛も、信頼も。
> でも、珠希だけは守りたかった。
> だから、これ以上、僕の影を見せないようにする。
> もし、あの子が大きくなってこの記録を読んだら――
> どうか、彼女に伝えてくれ。
> “父は間違えた。でも、愛していなかったわけじゃない”」
画面の光が茜の頬を照らす。
涙が静かに落ち、キーボードの隙間に染み込む。
「……どうして、こんな終わり方を選ぶの」
声にならない問いが、闇の中に消える。
そのとき、部屋の外から小さな声がした。
「ママ?」
珠希が扉の前に立っていた。
「ママ、泣いてるの?」
茜は慌てて涙を拭い、微笑みを作った。
「ううん、大丈夫。……パパの手紙を読んでただけ」
「パパ、帰ってくる?」
「きっと、いつかね」
珠希は頷き、母の隣に座る。
「パパがいなくても、ママがいるから大丈夫だよ」
その言葉に、茜の肩が震えた。
小さな手が、自分の手を包み込む。
家の中の灯りが、少しだけ温かく見えた。
外では風が強くなり、どこか遠くの踏切が鳴っていた。
まるで、誰かが遠くへ旅立つ音のように。




