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再生できない通信で、君と話した48時間

作者: はちねろ
掲載日:2025/08/15

──最後の通話を、あの人と使い切るために。

そして、応答ボタンを押した。

 通信ログは、あと四十八時間。声は送れても、録音も再生もできない。俺は救助艇の操縦桿を握ったまま、その数字を見ていた。


 あの人を助けるために、ここまで来た。


 警告音が、狭いコクピットに細く残っている。呼吸はまだ確保できる。推進剤も残っている。だが、救助には足りない。信号源までは近づけた。けれど、相対速度を合わせられない。接舷できない。牽引もできない。


 広域救難波は、もう投げてある。返答はない。できるのは、通信範囲に入り続けることだけだった。


「……ログ、再生不可か」


 ヘルメット越しの声が、コクピットに落ちた。パネルには、通信モジュールの仕様が白い文字で並んでいる。最大接続時間、四十八時間。録音、再生、解析保存、不可。


 残るのは、接続開始時刻と終了時刻だけ。俺はグローブの指先で操作パネルを押し、信号源の座標を睨んだ。


 赤い点滅。青い通信枠。保全欄の白は、まだ沈んだままだった。


 声だけなら届く。


「いるんだよな」


 通信ログ:00:00:01。


 起動。


『……っ、こちら……誰……? 応答……願いま……す……!』


 音は歪み、ざらつき、ところどころ欠けていた。それでも、あの頃の響きがあった。


『お願い……誰か、誰か聞こえてたら……』


「……俺だ」


 通信の向こうで、音が途切れた。違っていたら。彼女じゃなかったら。グローブの内側で指が固まる。


 やがて、小さく息を呑む音が届いた。


『……え?』


「俺だよ。覚えてるか?」


『……うそ。まさか……』


 声の奥に水気が混じった。


『……本当に、来てくれたんだ』


「今、お前の声が聞こえてる」


 通信演習で何度も耳にした声より、少し擦れて、弱くなっている。それでも、彼女の声だった。


『信じられない。ほんとに、ほんとに』


 彼女は短く笑った。その笑いは、最後まで形を保てずにノイズへ崩れた。


『でも、本当は私の方が迎えに行きたかったのに』


「お前が?」


『うん。だって、その方がカッコいいでしょ。助けに来てもらうより、私がそっちの艇に飛び込んで、ほら、迎えに来たよって言う方が、たぶん私らしい』


「無茶を言うな」


『無茶くらい言わせてよ。現実の方が、ずっと無茶なんだから』


 昔の口ぶりだった。強がって、軽口にして、痛みを後ろへ押し込む。青い通信枠の下で、秒数だけが増えていく。


 00:03:42。彼女の呼吸が、ノイズの奥で一度遅れた。


 00:04:01。俺は推進剤の針から目を離した。


「酸素は?」


『最初にそれ聞く?』


「聞くだろ」


『……だよね。そういう人だった』


 彼女は笑おうとした。けれど、息が先に引っかかった。


『普通に起きて話せるのは……あと一日ちょっと、かな』


「通信は、四十八時間ある」


『うん。数字だけ見ると、すごく優しいね』


「数字は優しくない」


『知ってる』


 小さなノイズが流れた。


『そっちの燃料、削ってまで来てくれたの?』


 推進剤の針は、赤い領域に沈んでいた。これ以上動けば、俺も帰還軌道を失う。


「……会いたかったからだよ」


 返事はすぐに戻らなかった。その奥で、彼女の息が一度だけ揺れる。


『昔と変わらないね、そういうとこ』


「お前もな」


『私は変わったよ。少しは。たぶん、昔よりは素直になった』


「それは助かる」


『……そこは喜んでよ。今の、結構がんばって言ったんだから』


 彼女は笑った。今度は、最後まで笑いきった。


 そのすぐ後ろで、低い警告音が一度鳴った。彼女は何も言わない。俺も聞かなかった。


『……あの時さ、放課後。グラウンドの端でさ』


「ああ。野球部の声がやたらうるさかった日な」


『うん。私、あなたがこっちを見てたの、知ってたよ』


 映像はない。座標もない。ただ、音だけがある。


『あの時、話しかけてくれたらって、少し思ったんだ』


「……無茶言うなよ」


『無茶じゃないよ。こっちは、わざとゆっくり歩いてたんだから』


「そうだったのか」


『そうだったの。靴紐も、別にほどけてなかった。結び直すふりまでしたのに、あなた、ずっと遠く見てる顔してた』


「見てたのは、お前だ」


『知ってる。だから、余計に腹が立った』


 彼女の声に、かすかな笑いが混じる。


『でも、私もずるかった。待ってるだけで、傷つく準備だけしてた。話しかけて、なんでもない顔をされたら嫌だったから』


「俺も似たようなもんだ」


『じゃあ、二人とも負けだね』


「だな」


『ひどい勝負』


「勝者なし」


『でも、今は話してる』


「ああ」


『じゃあ、まだ負けっぱなしじゃないね』


 送信ボタンの横で、通信セル残量が一つ落ちた。残り、九十七%。


「最後とは決まってない」


『そう言うと思った』


「実際、まだ話せる」


『うん』


 彼女は息を吸った。その音が、ノイズの奥で細く震えた。


『じゃあ、話そう。ちゃんと。今度は、途中で逃げないで』


「逃げない」


『約束?』


「約束する」


 通信ログ:00:11:27。


 推進剤の針は戻らない。通信セルも減り続ける。赤い点滅は、信号源の横で規則正しく続いている。


 二時間後、回線を開くと、彼女は夢の話をした。


『ねぇ、さっき、夢を見たの』


「どんな夢だ?」


『川があってね。私たち、制服のまま川の中に立ってた。冷たかったけど、怖くはなくて。あなたが笑って、私も笑って……それだけの夢』


「……いい夢だな」


『うん。いい夢だった』


 それから、彼女は何も言わなかった。回線は開いたまま、ノイズだけが薄く流れている。七秒。十秒。また七秒。途切れたと思うたび、かすれた息が戻ってくる。


『起きてる?』


「起きてる」


『何も話してないのに?』


「話してるだろ」


『これ、話してるうちに入る?』


「入る」


『そっか。じゃあ、もう少しこのままがいい。何か話さなきゃって思うと、変に力が入るから。あなたがそこにいるって分かるだけで、今は十分』


「ああ」


 通信ログ:34:26:18。


『ねえ、さっきの川、まだ見える?』


「川?」


『うん。制服のまま入ってた川。足、冷たかったでしょ』


 彼女の声のあとに、警告音が重なった。返事を待つあいだ、回線の奥で浅い呼吸だけが続く。信号源の横で、赤い点滅が少し速くなる。青はまだ残っている。


「……見えるよ」


『よかった』


「水、深いのか」


『足首くらい。転んでも、たぶん笑えるくらい』


「俺は転ばない」


『夢だもん。私の好きにできる』


 彼女は笑おうとした。だが、音になる前に息が引っかかった。咳にもならない。笑いにもならない。細い空気だけが、回線の奥で擦れる。


『あの川ね、変なの。水の底に星があるの。昼なのに、そこだけ夜で……あなた、そこに立ってた』


「俺が?」


『うん。ずっとこっち見てた。今度は、目を逸らさなかった』


 彼女のいる船内に、川などない。あるのは、割れた隔壁と、薄くなる酸素と、鳴り止まない警告音だけだ。けれど、俺はそれを言わなかった。彼女が川の中にいるなら、俺もそこに立つしかなかった。


「酸素は?」


『川の底にね、星があるの』


 返ってきたのは、その声だった。


 俺は、酸素の数字を見なかった。


「寒かったか」


『少し。でも、怖くなかった』


「なら、よかった」


『うん。あなたがいたから』


 その言葉のあと、回線の奥で警告音が一つ増えた。


 俺の指が、送信ボタンの縁で止まる。押せば声は届く。だが、声を届ければ、彼女は返そうとする。返そうとすれば、そのぶん呼吸を使う。


 それでも、彼女は待っていた。


『ねえ』


「ああ」


『普通の話、していい?』


「ずっとしてるだろ」


『違うよ。酸素とか、警告音とか、昔の後悔とかじゃなくて……もっと、どうでもいい話。あとで思い出した時に、なんであんな話をしたんだろうって笑えるようなやつ』


 通信ログ:42:16:58。


 こちらの通信セル残量は、もう三割を切っている。青い枠は生きている。赤い点滅は止まらない。


 彼女は、そのどれにも触れなかった。


「じゃあ、何を話す」


『朝ごはん』


「宇宙でか」


『宇宙でも。こういう時だからこそ、朝ごはんの話がいいの。酸素の残り時間なんかより、ずっと人間っぽいでしょ』


「……何が食べたいんだ」


『卵焼き。少し甘いやつ。しょっぱいのじゃなくて、甘いやつね。たぶん、子供っぽいって言われるんだろうけど、こういう時くらい、好きなもの食べたかったなぁ』


 その言葉の終わりだけが、回線の上に残った。


 彼女も気づいたのだろう。次の息が少し乱れた。ノイズが先に戻ってきて、そのあとで、かすれた呼吸だけが続く。


『……ごめん。今の、なし』


「なしにはできない」


『できない?』


「できない。聞こえた」


『そっか。じゃあ、覚えてて。甘いやつ。焦がさないやつ。あなた、たぶん真面目に作るから、形は悪くても味はちゃんとすると思う』


「勝手に決めるな」


『決めるよ。だって、もう食べられるか分からないから。想像くらい、私の好きにさせて』


 彼女は笑った。笑いは途中でほどけて、息だけになった。


「……誰に食わせるんだよ」


 言ってから、喉の奥が詰まった。


 回線の向こうで、彼女が少し息を吸う。


『あなた』


「俺が?」


『うん。あなたが、帰って。朝になって。ちゃんと作るの。私が食べられなくても、作って。食べる相手がいなくても、作って。そうしたら、たぶん……少しだけ、私はそこにいる』


 青い接続枠が震えた。


 警告音が鳴る。


『変なお願いだよね。でも、今の私にはそれくらいしか渡せない。あなたを帰らせる理由を、何かひとつ置いておきたいの』


「……作る」


『うん』


「絶対に作る。甘いやつを」


『じゃあ、焦がさないでね』


「努力する」


『そこは頑張ってよ』


 彼女は、息だけで笑った。


 通信ログ:47:56:11。


 通信セル残量、三%。


 警告音は、もう彼女のすぐ後ろで鳴っていた。遠い船内のどこかで鳴っているはずなのに、まるで彼女の肩越しに聞こえてくる。


 青い接続枠が細く震える。赤い点滅は止まらない。


『ほんとに、普通の話ができたね。こんな場所で、こんな音の中で、卵焼きの話をしてる。変だよね。でも、私、こういう話がしたかったんだと思う。訓練のことでも、成果のことでも、誰が正しいとかでもなくて、朝に何を食べるかとか、そういうどうでもいいこと』


「もっと早く、こうすればよかった」


『うん。でも、それをあなた一人のせいにしないで。あの時、グラウンドで、あなたが声をかけてくれなかったこと、ずっと覚えてる。でも私も、あなたが来るのを待ってただけだった。こっちから行けばよかったのに、傷つくのが怖くて、平気な顔をしてた』


 ノイズの奥で、彼女が息を吸う。細い。けれど、まだ声にしようとしている。


『だから、半分こ。後悔も、言えなかった時間も、半分こ。……でも、今だけは半分こじゃなくて、あなたの口から聞きたい』


「何を」


『昔、飲み込んだこと』


 通信ログ:47:58:43。


 警告灯の赤が、バイザーの端に滲む。グローブの中で、指が動かない。


 言えば、終わる気がした。


 言わなければ、またあの夕暮れに戻る。野球部の声が遠くで跳ねて、砂の匂いだけが残って、彼女の横顔が夕陽の中に立っている。俺はまた何も言えないまま、ただ見ている。


 その夕暮れに、もう戻りたくなかった。


「……好きだった」


 回線の向こうで、彼女の息が止まった。


 ノイズが、その間を埋める。


『……遅いよ』


「悪い」


『ほんとに、遅い』


「ああ」


 俺は送信ボタンの縁を握ったまま、続けた。もう、短い言葉だけでは足りなかった。足りるはずがなかった。


「ずっと好きだった。たぶん、自分で思っていたより、ずっと前から。通信演習で声を聞いた時も、廊下でお前が誰かと笑っていた時も、グラウンドの端で靴紐を結び直していた時も、俺は気づかないふりをしてた。話しかけなかったんじゃない。話しかけたら、何かが変わるのが怖かった」


 息が喉の奥で引っかかる。


「でも、変わらない方がよかったわけじゃない。何も言わなかった時間が、こうして最後まで残るなら、俺はあの時、壊れてもいいから声をかけるべきだった。お前が振り返ってくれなくても、笑わなくても、変な顔をされても、それでも一度くらい、ちゃんと呼ぶべきだった」


 回線の奥で、彼女の呼吸が戻る。細い。けれど、まだそこにある。


「だから、今言う。遅いのは分かってる。今さらなのも分かってる。でも、聞いてくれ。俺はお前が好きだった。あの頃も、今も。助けに来たのに、手が届かない場所で、こんなことを言うしかできない男だけど、それでも、これだけはもう飲み込まない」


『……うん』


 彼女の声が震えた。


『聞こえた』


 少しだけ、笑った気がした。


『ずっと、聞きたかった』


「……俺も、言いたかった」


『知ってる』


「知ってたのか」


『うん。見れば分かった』


「じゃあ、言わせろよ」


『言わせたよ。今』


 通信ログ:47:59:07。


 回線の奥に、川の音はない。野球部の声もない。放課後の風もない。


 あるのは、船内警告と、細く戻ってくる呼吸だけだった。


『全部。……話してくれて、聞いてくれて、来てくれて』


「当然だろ」


『当たり前じゃないよ』


 短い警告音が重なった。


 彼女は少し息を吸う。吸い切る前に、回線の奥で音が擦れる。青い接続表示が細く震えていた。赤い点滅は、もう音もなく続いている。


『ねえ……』


「ああ」


『もしまた声が届くなら……今度は、最初に呼んで』


「呼ぶ」


『ほんとに?』


「呼ぶ。今度は、途中で飲み込まない。朝になったら、卵焼きも作る。甘いやつを作る。たぶん形は悪い。たぶん焦げる。お前に文句を言われるくらいには失敗する。でも作る。お前が食べられなくても、俺が食べる。食べて、覚えてる。お前が最後に、俺を朝へ戻そうとしたことを」


 言葉が止まらなかった。


「俺は帰る。帰って、作る。甘いやつを作る。焦がしても、形が崩れても、作る。たぶん泣く。馬鹿みたいに泣く。でも食べる。残さない。お前がそこに少しだけいるって言ったから、俺はそれを信じる。聞こえてるか。聞こえてなくても言う。俺は、ちゃんと帰る」


 返事は、すぐには戻らなかった。


 送信ボタンの縁に置いた指が、グローブの中で固まる。ヘルメットの内側で、自分の呼吸だけが近い。


『……なら、いい』


 彼女の声が、ノイズの向こうで少しだけほどけた。


『最後に、呼んで』


「今か」


『今』


「泣くぞ」


『私も、たぶん泣く』


「聞こえなくなるかもしれない」


『それでも、呼んで』


 喉の奥で、ずっと置き去りにしてきた音が震えた。


 名簿で見た。通信演習で聞いた。誰かが呼ぶのを、何度も横で聞いていた。


 けれど、自分の声で呼んだことはなかった。


 通信ログ:47:59:55。


 俺は口を開いた。


 最初の音が、ヘルメットの内側で擦れる。回線の向こうで、彼女が息を吸った。


 待っている。


 それだけは分かった。


 通信ログ:47:59:58。


 名前の一音目を、ようやく声にした。


 音が、途中で欠けた。


 彼女が息を吸ったのか、回線が途切れたのか、分からなかった。


 通信ログ:48:00:00。


 数字は、そこで止まった。


 何も聞こえない。ノイズすら戻らない。ヘルメットの内側で、自分の呼吸だけがやけに近かった。


 俺は送信ボタンに指を置いたまま、動けなかった。押す。何も返らない。もう一度押す。画面の端で、接続不可の文字だけが短く瞬いた。


「……聞こえたか」


 声は、ヘルメットの内側で落ちた。


 返事はない。


 最後に呼んだ名前は、どこにも残っていない。彼女の声も、もう聞き返せない。


 手元の端末が小さく震える。


 通信履歴。


 残っていたのは、接続開始時刻と終了時刻だけだった。音声ファイルはない。波形もない。再生ボタンもない。


 ただ、四十八時間ぶんの空白だけが、掌の中で冷えている。


 俺はそれを握った。


「……次は、飲み込まない」


 声は、どこにも届かない。


 それでも、俺は耳を澄ませていた。


 消えた通信の向こうで、白い点滅だけが、暗い画面の隅に遠い星のようにまだ小さく瞬いていた。

通信は、もう聞き返せません。

だから、いま思い出した言葉だけが、あなたに残ります。


間に合わなかった言葉でも、消えないまま残ることがある。

──そういうものを書きたくて、この物語を書きました。



……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、

星をそっと置いてもらえると、うれしいです。


……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。

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― 新着の感想 ―
美しい話だけど……キッツイですなぁ……
二人の間にある愛と友情の複雑な混じり合いに、胸が苦しくなりました。 声だけで繋がるという設定がとても切なくて、ふたりの会話の一言一言に重みを感じました。とくに、この極限状態で後悔と安堵が交じり合う感じ…
冒頭の通信シーンから、無音とノイズのあいだに漂う緊張感が胸に迫ります。 声しか届かない世界で、二人がわずかな時間を紡ぐ姿が切なくも温かい。 過去の思い出や未完の想いが、宇宙という極限状況に重なり、よ…
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