プロローグ 消えた実験室
プロローグ 消えた実験室
深夜の東京大学物理学研究棟。蛍光灯の冷たい光に照らされた実験室で、田中隆は粒子加速器のモニターを見つめていた。
「また失敗か……」
博士課程3年目の隆は、量子もつれ状態における情報転送の実験に取り組んでいた。理論上は完璧なはずなのに、現実は理論通りにはいかない。それが物理学の難しさであり、面白さでもあった。
時刻は午前2時を過ぎている。指導教授からは「無理をするな」と言われていたが、どうしても今夜中に結果を出したかった。明日は学会発表の締切日。この実験が成功すれば、量子情報学の新たな地平が開かれる。
「もう一度だけ……」
隆は装置のパラメータを調整し直した。量子もつれを起こすための光子対生成装置、観測装置、そして情報を転送するための量子ゲート。すべての数値を理論値に合わせ、慎重に実験を開始する。
モニターに次々と数値が表示される。光子の偏光状態、もつれの相関係数、情報転送の成功率——すべてが理論予測と一致している。
「これは……まさか……」
興奮で手が震える。ついに理論通りの結果が出始めたのだ。量子もつれによる瞬間情報転送、いわゆる「量子テレポーテーション」が完全に成功している。
しかし、その時だった。
突然、装置から激しい光が放たれた。警報音が実験室に響き渡る。モニターの数値が異常な値を示し始める。
「おかしい……エネルギー値が理論限界を超えている!」
隆は慌てて緊急停止ボタンに手を伸ばしたが、もう遅かった。実験装置から放たれる光がどんどん強くなり、空間そのものが歪んで見える。
「これは……まさか時空の歪み?そんなことが現実に……」
物理学者としての知識が、今起こっている現象の恐ろしさを教えていた。だが、同時に研究者としての興味も抑えられない。未知の現象を目の当たりにしているのだ。
光の渦が実験室全体を包み込む。隆の視界は真っ白になり、意識が遠のいていく。最後に頭に浮かんだのは、量子力学の根本原理だった。
「観測が現実を決定する……まさか、俺が観測したことで、現実そのものが書き換わったというのか……?」
そして、田中隆の意識は闇に沈んだ。
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次に目を覚ました時、隆がいたのは見知らぬ森の中だった。頭上には見慣れない星座が輝き、空気中には不思議なエネルギーが満ちている。
遠くから聞こえてくるのは、現代日本では聞いたことのない獣の鳴き声。そして——
「おい、あそこに人が倒れてるぞ!」
「魔力を感じる……魔法使いかもしれない」
魔法?隆は混乱した頭で立ち上がろうとした。自分に何が起こったのか、ここがどこなのか、まったく分からない。
ただ一つ確実だったのは、あの実験が予想もしない結果をもたらしたということ。そして、自分が今、物理法則すら違う世界にいるらしいということだった。
「大丈夫ですか?」
声の方を向くと、ローブを着た少女が心配そうに隆を見つめていた。その手には、小さな光の球が浮かんでいる。
魔法——本当に存在するのか。
物理学者田中隆の、新たな世界での冒険が、今始まろうとしていた。