【私と足長おじさんの別れ】
ドキドキと胸の鼓動が高まる。
私はどれ程このときを待っていたことだろうか。
「やあ、すまない。面倒なことをさせてしまって」
男の言った面倒な事の意味が今のことなのか、それとも過去のことを指すのか分からなかったが、その声を聴いた途端その様なちっぽけなことなど考える余地もないほど胸の奥から熱いマグマが溢れ出しそうになるくらい嬉しかった。
「いいの、そんなこと」
しかし胸のうちに秘めた熱い思いは、もう昔ように素直に伝えられなくて、素っ気ない返事をしてしまった。
「座っていいかい」
「どうぞ……」
ジャーヴィス・ペンドルトン氏と名乗る男は、私から一人分離れて席に座った。
その席の開け方を見て、流石だと思った。
彼はこの席を開けることで、私に今の私たちの距離を伝えた。
たった人一人分。
けれどもこの広い教会の中に居るのは、私たち2人だけ。
だからこの距離を埋めるように促す人も居なければ、中に入って間を取り持とうとする人も決して現れない。
お互いに譲り合うことがない限りこの距離は埋まらないし、最初にこの距離を突き付けられた以上譲り合う事も許されない。
「元気そうで安心した」
「死ぬつもりだった人に、そんなこと……」
「まさか僕の送った贈り物を、突き返されるとは思ってもいなかったよ」
「悪かった?」
「……いや、でも少し色が変わっていて驚いたよ」
「色が変わった?」
私は思いがけない彼の言葉に驚いて聞くと、彼はこう言った。
「君色に染まっていた」と。
彼の言葉に私は鼻がツンとするほど、感情が込み上げてきた。
もう立場なんてどうでもいい。
今すぐ会社も辞める!
しかしその後の彼の言葉は残酷だった。
彼は私に、どうしてあの子を解き放ったのかと聞いた。
残忍な野獣を殺すことは出来なかった。
しかし永遠に檻の中に閉じ込める手立ては立てた。
それを私は、解き放ったのだ。
私利私欲のために。
彼は私に、どうするつもりなのかと聞き、私に逃げ道を与えてくれた。
しかし私は譲歩してくれた彼の言葉に逆らうように、許せないと言ってしまった。
いまはそれ以外考えられないし、ここで妥協してしまう事は強硬派の急先鋒として幹部から認められた今の彼の地位を陥れることにも繋がってしまう。
私は保守派の若きリーダー。
彼は屹度私の味方になってくれることは分かっているが、それは裏切りに他ならない。
決して相まみえることは許されないことは、私だって分かっている。
「どうやら、まだ会うべきではなかったようだね」
彼はそう言って席を立とうとして、私は彼の方を振り向きもせず「さようなら」と言った。
ケーニヒスベルク大聖堂のパイプオルガンが4度目のベートーヴェンの交響曲第5番「運命」を奏で始める中、彼の足音が遠ざかって行った。
私は彼の温もりを求めるように、彼の座っていた場所に蹲り「待って」と言えなかった事を後悔して泣いた。
いつまでも、いつまでも。
こうしてジャーヴィス・ペンドルトン氏と名乗った彼は、私の傍を離れて行った。
ジャーヴィス・ペンドルトン。
これは1912年にジーン・ウェブスターが発表した小説「足長おじさん」の中で孤児院に住む主人公のジュディを支援してくれる足長おじさんの本名。
私は今、自身の我を捨てきれずに、足長おじさんを失ってしまったのだ。




