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オラルメンテシリーズ

黒朝顔

作者: 蒼崎 恵生

 他サイトのコンテスト用に創作した《黒》をテーマにした短編になります。




 まただ。あの男がこっちを見てる。

 視線を感じてこっちが目を合わせると同時に男は目をそらす。そして、しばらく経つとまた見てくる。

 なんなんだ? 結局そらすなら、はじめから見てこなければいいのに。


 講義の後、大学のテラスでブラックコーヒーを飲んでいると、決まって遠くの席から視線を感じる。そちらを見ると必ず同じ男がいる。

 年下か。同い年の人達と比べると顔が幼い。大学入りたて、高校生ぽさが抜けきらない表情。

 彼はたいていVネックの黒いTシャツを着ている。冬ならオシャレに感じるその色味も、蒸し暑いこの季節に見ると暑さを増すようだ。

 "黒朝顔"。私は心の中でその男にあだ名を着けた。朝顔のように中性的な顔立ちで、いつも全身黒っぽい服装だから。

 黒朝顔の視線に気付きはじめて一週間。視線のやりとりの攻防を続けるのも嫌になってきた。用事があるわけでもなく、知り合いなわけでもなく、なのに見てくる。



 大学三年になった私は、講義や就活もそこそこにバイトや遊びに明け暮れていた。近所で幼なじみの美波みなみが誘ってくれた飲食店。気まぐれに長時間働く日もあれば予定のある日は休ませてもらえたり。シフトの融通が利くので助かっている。

「おつかれー。日奈ひな、今日は浮かない顔してんねー。どした?」

 バイトの休憩中、美波が話しかけてきた。手狭な休憩室の唯一の家具、長テーブルを挟んで私達は向かい合って座る。

「んー。学校でやたらこっち見てくる男がいてさ」

「なにそれストーカー?」

「どうだろ。後付けられたりはないけど、テラスに行くと絶対いて、こっち見てくる。用があるわけでもなさそうで」

「こわいね。変なことになる前に牽制しとく?」

「牽制?」

「そういうのは、こっちが下手したてに出るとますますつけ込まれるから。先手を打つのが大事! エスカレートする前に一発ぶん殴っとく?」

「いや、さすがにそこまでは。何かされたとかでもないし。だから難しいんだけど……。単なる視線を通り越してもはや監視されてるようでやっぱり気分悪いんだけどね」

「だったら! なんなら私がケリつけてもいいよ。一緒に行こうか?」

 さすが美波。空手の有段者なだけあって頼もしい。考え込むより即行動な気質。たしかに私だけで考えてもどうにもならないことだし、かといってこのままでも気持ちは晴れないし、放置はやめて黒朝顔とちゃんと話した方がいいのかもしれない。

「ありがとう。いざって時はお願いしていい? まずは黒朝顔と話してみるよ」

「黒朝顔って、その男のこと?」

「うん。勝手にそう呼んでる」

「昔から好きだね、人を花に例えるの」

 たしかに、小学生の時からクラスの子に花の名前にちなんだあだ名をつけたり花言葉を調べるのが好きだった。

「黒朝顔、変な奴じゃなきゃいいけど、ちょっと心配。何かあったら遠慮なく呼んでね」

「頼りにしてるよ。ありがとう」


 美波と話すのも久しぶりだった。後々心置きなく自由な大学生活を満喫したいと考え一年生のうちに単位を取りまくった私とは逆に美波はまだ単位が残っていて学業メインの生活なので、バイト先は同じでもシフトがかぶることは滅多になかった。

 それでも、こうして会えば気軽に話せる相手だ。昔からいろいろ相談しあったりバカ話ができたのは彼女だけ。本当は一年の頃みたいに夜通し話したりご飯に行ったりしたいけど、近頃はお互いの予定がなかなか合わずそういう機会も減っていた。



 翌日。大学へ行くなり私は黒朝顔を探した。美波に話を聞いてもらって少し気が楽になったものの、いざここへ来ると気が重い。足取りまで重たくなってくる。

 話すといっても、何をどうしたら。穏便にすめばいいけど。変に争いたくはない。とにかく、視線さえなんとかしてくれればいい。

 いつも通りテラスで適当な席を選びブラックコーヒーを飲んでいると、ほどなくしてから黒朝顔が現れた。彼も飲み物を買うとここから少し離れた席に着き、やっぱりこちらを見始めた。目が合う。

 いつもならここで終わりなのに、今日は彼に話をつけるのだと思うと途端に嫌な緊迫感に包まれた。こっちは何も悪くないのに、どうしてこんなに怯えるみたいな心地にならなきゃいけないんだ。

 いつもはもう少し学生が居るのに、今日に限ってはほとんどいない。話しかけるのには絶好のロケーションだった。それがよけいプレッシャーになる。

 あと一口、飲んだら彼に話しかける!

 意を決して残りのブラックコーヒーを口に流し込み、香りを強く感じながら席を立った。目が合ったままの状態で私がそうしたものだから、さすがに黒朝顔も少し驚いたような顔をした。

「何か用ですか?」

 思い切って放った第一声は緊張で少し震えた。黒朝顔は席に座った状態でこわごわと私を見上げる。

 黒朝顔の顔を初めて間近で見てドキッとした。黒朝顔の目は、よく知る誰かにとてもよく似ていた。誰だか思い出せないけど、これと似た目を知っている気がする……。

 自分でも忘れてしまった嫌な記憶が身体中に流れ込んできそうだった。それを遮るように、

「いつもジロジロ見てきますよね、もうそういうのやめてください。迷惑です」

 強めに主張し、その場を後にした。足元にまとわりついてくる無意識下の何か。記憶にない記憶を断ち切るべく私は走った。

「すみません! 待ってください! あの!」

 黒朝顔は私の後を追ってきた。走り疲れた私は気持ちとは裏腹に廊下の隅で立ち止まってしまった。肩で息をしていると、黒朝顔は追いついてきて気遣わしげなまなざしで謝ってきた。

「嫌な思いさせてごめんなさい。でも、最近様子が違ったから心配で……」

 どういうこと? そんな風に言われるほど関わりなんてないのに。私の気持ちを読んだみたいに黒朝顔は言った。

「やっぱり……。覚えていないんですね」

「?」

「少し前まで、俺達はよくあそこで一緒にコーヒー飲んだりしてたんですよ。日奈さんは、テラスで会うと必ず声をかけてくれて」

「そんなわけない。あなたのことなんて知らない」

 しゃべったのも今日が初めてだ。

「人違いじゃないんですか?」

 そう尋ねつつも、私は自分で発した言葉の違和感にのまれそうになっていた。黒朝顔は私の名前を知っている。

 今朝改めて、スマホの電話帳を確認してみた。やはりと言うべきか、一件知らない名前が登録されていた。その名前は――。

「日奈さんを間違えたりしません。だって俺達は……」

「やめて。聞きたくない」

 黒朝顔の言葉を遮り、私は再び走り出した。黒朝顔はもう追ってこなかった。

 なんだろう。言いようのない恐怖と不安感でめまいがする。心臓がバクバクしているのは走っているからだけじゃない。私は何か重大なことを忘れているのかもしれない。

 大学の最寄駅につく。電車待ちの間、スマホでもう一度電話帳を開いた。

多岐たき日佐人ひさと

 知らない名前。これが多分、黒朝顔の連絡先だ。連絡先を交換しあっているわりに、メールやラインに彼とのやり取りの痕跡はなかった。

 なのに面識があった? テラスで一緒に過ごしたとも言っていた。

 彼は私に何を伝えようとしたのだろう。無意識とはいえ、私は彼のどんな言葉を想像して拒絶反応を示してしまったのだろう。

 中学時代からぼちぼち続けている日記アプリを見返してみても黒朝顔についての記録はなかった。直近の日記には、大学が落ち着いてヒマになってきたこと、最近なかなか美波に会えず寂しい気持ち、お父さんが出張で買ってきてくれたお土産のこと、初めて行った一人旅でのハプニングについて書かれていた。

 念のため、電話帳内のメモ欄に多岐日佐人についての記載がないか確認したが何も書かれていなかった。なんだっていうんだ。

 こんなまどろっこしいことをしていないで、黒朝顔のことが知りたいのなら直接本人に聞けばよかったのだろう。でも、私はそれをできなかった。体全体が彼の語る真実を嫌がるような感覚だった。

 もう、黒朝顔には会わないようにしよう。


 それから私は学内のテラスには行かなくなった。ブラックコーヒーは学内の売店か駅前のコーヒーショップで買うようになった。お手頃価格ゆえ節約にもなっていた学内テラスで飲めないのは少し痛いけど仕方ない。出費は増えてもはるかに気は楽だった。

 おかげで黒朝顔とは会わなくなった。学年ごとに講義日程も内容も違うのだから当たり前か。テラスという共用スペースをのぞいて。

 そんな日が半月ほど過ぎ、もうこのまま会うこともないだろうと半分安心していたら、スマホにショートメールが届いた。発信元は多岐日佐人の携帯電話だった。

《この間はすみません。やっぱりもう一度話したくて連絡しました。

 日奈さんは俺の大切な身内だから。》

 無防備にメールを開いてしまったことを後悔した。

 身内? ふざけないでほしい。私の身内はお父さんだけだ。体の中心部から焼けるような怒りが込み上げてくる。

 メールを無視していると、今度はSNSのダイレクトメールが届いた。普段使わないそれは、疎遠になってしまった昔の友達とたまに近況報告をしあう場で、こうして誰かからダイレクトメールが来るのも久しぶりだった。

 もしかしたらまた黒朝顔からかもしれない。少し警戒しながらダイレクトメールを開くと、これまた知らないアカウントからの謎なメッセージだった。

《規定を破って連絡してしまいました。本当にすみません。

やっぱり日奈さんのその後が心配で……。

最近は大丈夫ですか?

平穏にやれていますか?

暮らしに異変など起きていませんか?

M》

 誰!?

 Mという名前にも心当たりがない。ん? まさか美波がイタズラしてる? いやいや、それはない。今の美波は大学とバイトで多忙だ。そんな時間はないはず。

 向こうはイニシャル(?)なのに一方的にこっちの名前は知っている。意味が分からなくてこわいけど胸がざわつく。黒朝顔の事とこの人は関係があるのだろうか。

 めちゃくちゃ不審だけど、この人はなぜか私の事をものすごく心配してくれている……。特殊を超えた特殊詐欺の可能性もあるけど、お金をやり取りする系の話になったら無視すればいい。

 思い切って、Mなる相手に返信をした。

《なんの事でしょうか?

あなたは私とどんな関係なんですか?》

《あなたは私の顧客…相談事の依頼者で、私はそれを引き受けた者です。ワケあって正体は明かせませんが……。すみません。》

《いえ。

相談事とは? ダイレクトメールで?》

 心臓が破裂しそうな音を立てている。正体不明の相手と関わるのはよくないのかもしれない。でも、それ以上にこわい何かが迫ってくるようで、どんどん文字を打ってしまう。

《はい。ウチのやり取りは基本的に全てダイレクトメールですませています。

こうして依頼解決後に連絡をするのは規約違反なのですが、どうしても日奈さんの心情が気になって……。

相談事とは…あなたは、自分のとある記憶を消したいと言っていました。》

 即レスだった。

 記憶を消す? 何を言っているんだ。と心の中でツッコミつつも、黒朝顔もとい多岐日佐人の件が浮かんでくる。

《それが本当だとして、そんなことが実現できるんですか? にわかには信じられないんですが》

《そうですよね。日奈さんは依頼時もそう言っていました。当然の反応です。普通は信じられないでしょう。

でも、それを可能にする力を私は持っています。トラブル回避のため、このように対面はせず依頼を請けているのです。

この力は諸刃の剣。

本当に日奈さんの依頼を受けてよかったのか。あなたの心を救えたのか。わからなくなってしまって。》

《記憶を消してほしいと頼んだのなら、私はそれを望んでいたんだと思います。》

《そうかもしれませんが、望みが叶うことが必ずしも幸せとは限らないんです。

いいえ、私なんかが人の幸せを定義するつもりなど全くないのですが……。

記憶関連の依頼は特にデリケートで、忘れたい事柄ほど実は大切なことだったりする場合もあります。

それに、依頼を受けた時の日奈さんの言動が頭から離れなくて。》

《最近、変なことがあったんです。大学で知らない男の視線を感じたり、その人と話をつけようとしたら私の身内だと言われたり。混乱することばかりで。》

 すがるような気持ちで文字を打っていた。Mは相変わらず謎で怪しいけど、悪意とかも感じない。むしろ私のことを気遣う雰囲気すらある。

 文章だけのやり取りだけど何となくそう思う。私はこの人にとんでもないことを依頼してしまったのではないか。

《混乱するのも当然です。本来人の記憶に関する依頼は、依頼者だけでなくその周辺の記憶も操作するのが定石です。でないと依頼者と周囲の人々の間で保持する情報に齟齬そごが生じ、依頼者が記憶を消した意味がなくなってしまう。でも、日奈さんは自分の記憶だけを消してほしいと言いました。周囲の記憶はそのままにしておいてほしいと。

私もそのリスクを再三説明しましたが、結局は日奈さんの要望百パーセント聞き入れる形で依頼に応じました。

でも、それが日奈さんをさらに追いつめることになっているのなら本末転倒です。

日奈さんの身内を名乗るその男性は、日奈さんにとって重要な何かを知っている可能性があります。》

 そうなるよね。

 Mの言葉が本当なら、黒朝顔の言っていたことに真実味が増す。

《日奈さん、大丈夫ですか?》

《わかりません……。正直もうあの人には会いたくないです。けど……》

 どうして記憶を消す前の私は、自分の記憶だけを消したいと思ったんだろう。そんなことをしたからこうして無駄に考え込むはめになった。それがわかっていても、周囲の人々から記憶を消したくない理由があったのか。

 私の言葉を待つような間を持たせ、再びMがメッセージしてきた。

《差し出がましいのですが、私が知る限りの情報から日奈さんの現状を推察してもいいですか?》

《はい。お願いします》

《日奈さんは依頼の時点で、人間関係に苦しみと喜びを感じていたようです。仲の良い親友と疎遠気味なことはとても寂しいけど、最近大学内で新しい友達ができて嬉しい、と。その友達と遠出の約束もしたと話していました。》

《もしかして……》

《はい。新しい友達というのが、その男性なのかもしれません。》

《私は、遠出の約束に浮かれるほど親しくなった友達のことですら記憶から消したがっていた、ということですか?》

《そうなりますね。》

 新しい友達が黒朝顔なのだとしたら、黒朝顔の話とつながる。私は彼のことを忘れたがっていた。それなら、Mの言う通り彼の記憶から私の存在も消すのが普通だ。そうすればお互い二度と関わることなく思い出すリスクもないのだから。

 けれど、なぜか私は黒朝顔の記憶はそのままに自分だけ記憶を消した。その結果、大学で黒朝顔とあんなことになった。自業自得だった。

 Mの推察はこうだった。

《日奈さんは、彼に忘れてほしくなかったのかもしれません。たとえ自分が忘れようとも、その友達には自分のことを知ったままでいてほしかった。私はそう思いました。》

 たとえそうなのだとして、なぜそんな複雑なことを私は選んだのだろう。自分のことのはずなのにその時の気持ちが全く分からない。

 それこそ、消えた記憶が戻ったりすれば分かるんだろうけど。

《日奈さんは、記憶を元に戻したいですか?》

 まるで私の気持ちを読んだみたいに、Mは問いかけてきた。

《今の日奈さんが笑顔でいられないのなら、私はあなたの記憶を元に戻したいです。》

 私は今、不幸せなんだろうか。たしかに平穏ではあるけれど。心なしか不機嫌でいることが増えた気がする。黒朝顔に無駄に突っかかったりして。

 私の返事が止まったことで何かを感じたのか、追加でMのメッセージが届いた。

《すみません。傲慢なことを言いました。人の幸せを自分の物差しではかるようなことを……。》

《いえ。こちらこそ返事がスムーズにできなくてごめんなさい。幸せなのかそうじゃないのか、考えてみてもわからなくて。もう少し様子を見て考えてもいいですか?》

《はい。もちろんです。もし何かあったらいつでもここへ連絡してください!寝ている時間以外は即レスしていますので。》

 Mは親切にも、今後のダイレクトメールを許可してくれた。いったんやり取りを終え、気合い入れに深呼吸をした。

 それから私は自分の日記アプリをもう一度読み返してみた。記憶を消すと決める に至った手がかりがあるかもしれない。

 前の私はよほど用心深かったのか、記憶を消す前にラインもメールもほとんどまっさらにしていたようで、直近の日記も短文ばかりだった。アプリの機能で、一週間前、一ヶ月前、一年前の日記に一瞬でさかのぼれる。それで適当に過去の日記に飛んでみると、アプリを始めた中学時代にさかのぼるほど文量が多かった。

 にしても、記憶を消してラインや日記にも痕跡を残さないようにしておきながら多岐日佐人の番号は残していたりと、詰めが甘いと思う。消した記憶を思い出すリスクを冒してまで、周囲の記憶をそのままにした理由がやっぱり気になる。

 多岐日佐人の番号を残しておいたのもわざと?

 中学時代の長文日記は、思い出すのもしんどいほど苦い出来事がつづられていた。

 生まれながらに父子家庭だった我が家。私のお母さんは事情があって離れたところで暮らしているけど、いつかは戻ってくる。父はずっとそう言っていた。今思えば、幼い私に配慮してのことだろう。

 その母が、本当は別の家庭を持っているのだと知ったのは、中学生で父方の祖父の葬式に出た時だった。普段は滅多に関わることのない親戚達から聞かされた。

『あなたのお母さんは変わっていてね、人からいつもチヤホヤされていなきゃ気に食わない性格で。あなたを産んでおきながらロクに育児もせず夜中も遊び歩いて、一年も経たずに旦那を捨てて離婚したのよ!』

『そうそう!あの時はひどかったわよ。日奈ちゃんもまだ小さいのに、すぐに別の男と再婚してすぐ子供ができたんだって』

 私の母はお父さんと私を捨てて若い男と再婚し、その人との間に息子を授かった。なぜそのことを親戚が知っているのかというと、親戚と近所の人が母の新しい家庭を見かけ、親戚に話したからだそうだ。

 知った時、私は絶望した。そして、お父さんに尋ねてみた。

『あの人達の話は本当なの? うちのお母さん、別の人と暮らしてるって』

『ごめんな、日奈。今まで言えなかったけど、全部本当のことだ』

 お父さんは申し訳なさそうに目に涙を浮かべ、苦しそうに告げた。

『最初は父さんも信じられなくて、単なる噂だと相手にしなかった。日奈のこともある。日奈には母親が必要だ。せめて日奈にだけは定期的に会いにきてほしいとお願いしたくて、居場所を調べて会いに行ったんだよ。そしたら本当に、聞いていた話の通りだった。新しい家族に申し訳ないから、日奈には会わないと言われたよ』

『そんな……』

『こんな風に知られてしまうのなら、初めから本当のことを話すべきだったよな。日奈、ごめんな。父さんが悪い。出産を終えたばかりで心細かっただろう母さんを支えてやれなかった』

 お父さんは、私が生まれたことでより仕事に熱を入れなければと思ったらしい。たくさん稼いで妻と子供にいい思いをさせてあげたい。そう思うあまり、産後に精神不安定になってしまった母をおざなりにしてしまったという。お父さんは自分の行いを悔いていた。

 でも、私はお父さんのせいではないと思った。親戚の人達が言うように母がおかしい。結婚して子供が出来た後も自分を可愛いがってほしいだなんて、許されるわけがない。

 実際お父さんは私を一人で育ててくれ、寂しくないよういろんな所へ連れていってくれた。母はなぜ、優しいお父さんを切り捨てたんだろう。

 そうだ。お父さんは何も悪くない。母が変なんだ!

 そう思うことで私は自分を守った。

 中学時代の日記の内容は、しばらく母への恨みつらみで溢れていた。私を捨てておきながら別の人との子供を育てていることも理解できなかった。

《どうせまた子供を捨てるに決まってる。あれはひどい女だから!》

 そんな悪口も書いていた。

 月日が流れるにつれ、荒れた言葉ばかりだった日記には別の感情が見えてくるようになった。高校生活にも慣れてきた高一の夏頃の文章だった。

《母のもう一人の子供はどんな子なんだろう。会うのは嫌だけど見るだけ見てみたい。でも、お父さんには絶対聞けない。》

 この頃の私は少なからず異父キョウダイのことを気にしていた。それは同じ母を持ってしまったことの哀愁からなのか、単なる好奇心なのか。

《お父さん以外にも血の繋がりの濃い人が存在しているなんて不思議な感じ。母のこと嫌い一辺倒だったけど、今は少し違う感情も混ざってきたかもしれない。チヤホヤされたい変わった人だって噂の母だけど、そうなった理由が今は気になる。なんでだろ?》

 母に対する意識も変化していた。

 その頃、学校では画像投稿系のSNSがやたら流行りはじめて、自撮り写真や自分の食べた物、見た景色を投稿することに必死なクラスメイトがたくさんいた。いつも一緒にいる友達も、だいたいそういうのを当たり前にやっていた。

 私は友達の投稿を見るためだけにアカウントを作ったけど、自ら積極的に何かを載せることはなかった。周りに合わせてちょこちょこ写真を載せてみたりはしたけど、載せたら載せたでつまらない写真だと言われたり、もっと映えを意識しないととかアドバイスされ、そこまでしてやるのもなぁとめんどくさくなってしまい投稿はやめた。

 一方で、必死に映え写真とかを狙う友達がいた。完璧な加工をほどこし、載せた写真に友達からのイイネ評価がたくさん来ることを望んでやまない。たくさん見てもらうために素敵で綺麗な自撮りを載せる。無理してまでもきらびやかな景色をアップする。し続ける。

 彼女達の一部は、とてもヒマだったらしい。親とはあまり口を利いていない子もいた。ヒマだけどかまってくれる相手がいない。いるとすればSNSを共有できる学校の友達や同級生。そしてインターネットを介して繋がる未知の人々。

 そういう子達みんながそうとは決めつけられないけど、イイネをもらって喜んで、そうやって誰かに認められようと必死になるのは時間に余裕があるからではなく、心が枯渇している証拠なのかもしれないと思えた。

 クラスのあちこちでそんな光景を見ていたからか、母への見方も変わっていった。

  実際、母も認められたくて必死だったのかもしれない。親戚の人達は『母親のクセに夜も出歩いて』と非難していた。たしかに、一人で何もできない赤子を放置するのは大問題かもしれない。でも、母親でももっと息抜きの時間を持ってもいいんじゃないか?

 そういう、何何だからこうしなければならないという世間の常識が母を追いつめた可能性もある。

 もちろん正論は正しくて、物事をスムーズに回すために必要なものなのかもしれない。でも、人の感情は正論通りにいかない。それぞれの背景や経験もあればなおさら。

 高校三年になってすぐの日記の一文、

《お父さんに、母のことを少し聞いてみた。申し訳なくてあまり深くは聞けなかったけど、思い切って聞いてみてよかった。少しだけ母を理解できた気がする》

 と、書いてあった。

 母が結婚してからのことではなく、結婚前のことをお父さんに尋ねた。

 母の両親は共働きだったため、母は生まれてから数年間、祖父母の家に預けられていることが多かったという。親が仕事へ行く姿を玄関先で見ると悲しくなってきて、誰にも見つからないようカーテンにくるまって泣いているような子供だった。

 お父さんとの交際中、恥ずかしそうにそんな話をしたらしい。母はいつも明るく天真爛漫な性格で異性にもモテて友達を作るのもうまかった。でも、一方で身近な人に愛情を示すのが下手だったという。わざと不器用に傷つけるようなことを言ってお父さんの気持ちを試したりもしてきたらしい。

《母も一人の人間なんだと思った。でも、私も人間で。母を知るごとに、許せそうと思う気持ちと、許したくない、私をちゃんと愛してほしかった、傷ついた自分をなかったことにしたくないという気持ちがないまぜになる。こわい。いつまでこんな思いをするんだろう。》

 そこで、長文日記は終わっていた。

 大学入学前後からは、そんな感じのことが短文で書かれているだけの日記で終わった。


 迷いに迷い、私は黒朝顔に会いにいくことにした。この前は一方的に彼の話に耳を塞いで逃げ帰ってきてしまったけど、もうこのままにはしておけない。

 彼と関わりたいというより、私が起こした行動の謎を解き明かしたかった。

 記憶を消せばこの人とは関係を切れるのかもしれない。でも、自分自身とは一生付き合っていかなきゃいけない。逃げられはしないんだろうから。

 期待通り、黒朝顔は飲み物片手に大学のテラスにいた。人の気配も希薄な昼前。同じく何の講義もないのだろう黒朝顔は私の姿を見つけるなり飛び上がるように席を立ちこっちを凝視した。

 声をかけるかどうか迷ったように無音であたふたしている様子の黒朝顔に、私はゆっくり近づいていった。

「この前はごめん」

「いえ。俺の方こそぶしつけに、すみませんでした」

「あの時の話の続き、聞きたい。教えてくれる?」

「いいんですか? 日奈さんは記憶が……」

「うん。まだ忘れたままで、あなたのことも結局分からないまま。そんな状態で話を聞いてもついていけなくなるかもしれない。悩んだけど……。たとえ混乱することになっても聞かなきゃいけない気がする」


 テラスを出た私達は、気分を変えるため学内の講堂に来た。三階にあって景色の眺めもいいうえ冷房完備。居心地がいい空間なのに不思議と人がこない。込み入った話をするには充分なロケーションだった。

 窓に向け水平に設置されたソファに並んで座る。お互いの顔が見えないので少しホッとした。

「この大学来たの、日奈さんに会いたかったからなんです」

 黒朝顔が切り出した。

「入学してわりとすぐ、俺から声をかけたんです。テラスで」

 本当は理解していたテラスの利用方法を、新入生だから分からないというフリで私に話しかけたらしい。

「母から、日奈さんがここに通ってるって聞かされてたから」

「母?」

「俺達、母親が同じなんです。前の旦那さんとの間に生まれたのが日奈さんだって、母から聞きました」

 心臓が跳ねるように鳴った。やっぱりそうだったんだ。それに驚いた。母が私のことを話していたなんて。にわかには信じられない。

「何であの人が私の大学のこと知ってるの?」

「日奈さんのお父さんが、ずっと手紙で教えてくれていたそうです。日奈さんの近況を」

 お父さんが? それは知らなかった。

「日奈さんのお父さんは、日奈さんが母と絶縁状態なのを解消させたかったようです。今の家族を大切にするのも大事だけど、そのうえで日奈さんとも向き合ってほしい。何度も母にそうお願いしていたそうです」

 母とヨリを戻すためではなく、あくまで私のためだけにお父さんはそこまでしてくれていたんだ……。どれだけ気力が必要だっただろう。自分を捨てた相手に何度も娘のことをお願いするなんて。

 お父さんのことを思うと泣きそうになった。自分だってつらいはずなのに。

 多岐日佐人は言った。

「初めは母のことは言わず、あくまで友達として関わっていくだけのつもりでした。でも、日奈さんと仲良くなるにつれてやっぱり本当のことを打ち明けたくなりました。俺達はキョウダイなんだって。黙っているのは騙しているようで心苦しくて」

「そんなに気が合ったの? 私達は」

「はい。ブラックコーヒーが好きなところも、夜が好きなところも。黒い色が好きなところも」

 聞くと、多岐日佐人の車は黒だそうだ。お父さんが私の大学の入学祝いにと買ってくれた車も黒だった。デザインも色も私に選ばせてくれた。

「日奈さんがブラックコーヒーを飲んでること、母に話したら泣きそうに嬉しそうな顔をして言ってたんです。妊娠中はカフェイン我慢してたから産後にどうしても飲みたくなって、でも授乳期の日奈さんに影響出るといけないからノンカフェインのブラックコーヒーで乗り切ったって。コーヒーを飲んでると、母のそばに寝転んでいた日奈さんは必ずジーッと母の顔を見ていた、と」

 苦い味が苦手だという同級生が多かった子供の頃からブラックコーヒーが好きだったのは、母の好物だったから?

 なんともいえない心地がした。母の思い出なんてどこにもない、親はお父さんだけと思って生きてきた。そんな私にも母の記憶が知らず知らず定着していたなんて。

「母は言ってました。嬉しいなんて言える立場じゃないけど、日奈さんの中にカケラでも自分が存在していられるのが嬉しいって。産んでよかったって」

「でも、あの人はお父さんと私を捨ててる」

「そうですよね……」

 多岐日佐人は悲痛な面持ちだった。

「でも、日奈さんから離れたことを後悔しない日はないと。俺を産んで育ててよけい、自分のした事が身に染みたと。どうしてあの頃の自分はこうやって心安らかにいられなかったのかと。泣いていました」

「お父さんには別のことを言ってたって聞いたよ。今の家族が大事だから私には会えないって」

「それは多分父のことが原因だと思います」

 黒朝顔の父親。母の再婚相手が原因?

「恥ずかしいんだけど、俺の父は嫉妬深いというか、母への束縛が激しい人で……。母の前の結婚を知って受け入れているけど、一方で、日奈さんや日奈さんのお父さんの存在にものすごくヤキモチを焼くんです」

 うちのお父さんとは真逆の人だ。でも、だからこそ母は安心できる相手なのかもしれない。わかりやすすぎるくらい、時には度を超えて困惑するくらい愛情を示されていないと満足しない。母はそういう人な感じがする。

「私の話さえしなきゃ家庭円満ってわけだ」

 申し訳なさそうに眉を下げ、黒朝顔は言葉を継ぐ。

「母の肩を持つみたいな話ばかりしてごめんなさい。俺にとっては日奈さんも母も等しく大切な人だから。日奈さんの中にある悲しみも、母の中にある悲しみも、なんとか昇華されたらいいなと思って……」

「もし私がその立場なら同じこと言ったんだろうけど、そう簡単にもいかないよ」

 黒朝顔には母と暮らした年月がある。私にはない。

「日奈さんがどういう経緯で記憶をなくしてしまったのかは分からないです。でも、ひとつだけ分かる気がします。日奈さんが自分の記憶だけ消して俺の記憶はそのままにした理由」

「…………」

「日奈さんは、俺を通して母と交流を持ちたかったんじゃないでしょうか」

「そんな……」

 そんなわけない。否定したいのに否定しきれない。気持ちの隅で"たしかに"と思ってしまった。

 過去は変えようがないけど、人の気持ちが変わるように未来は未知数だ。母への気持ちが憎しみから分析、そして関心へと変わっていったように。

「認めたくないけど、そうかもしれない」

 母と交流できる糸口を望んでいたのかもしれない。それと同時に、かつての私が求めていた生活を当然のように享受してきた黒朝顔を妬ましくも思い、苦しんだ。

 黒朝顔が好きなのに大嫌い。

 記憶を消せば、相反した感情と向き合わずにすむ。一方で悲しんだ私がなかったことになるのも悔しい。当事者の黒朝顔の記憶には刻みつけておきたい。

 ハッとした。

 これは推測ではないと確信した。記憶を無くすことで、私はもう一度前と同じ気持ちの流れを追体験している。

 黒朝顔の記憶を消さずにおいたのは、母との関係修復の機会を待ちたかった。

 それだけではない。もうひとつ、黒朝顔の気持ちを試したかったからだ。勝手に私が忘れても、彼はキョウダイの関係を諦めず私と関わりを持ってくれるのか。それが知りたかった。

 良くも悪くも親子なんだな……。

 母がかつてお父さんの気持ちを試したように、私も黒朝顔の気持ちを試そうとした。

 黒朝顔はまんまとそれに引っかかって、記憶を消した私に怪しい男扱いされてしまったわけか。

「そっちの父親のこともあるし、私の気持ちもついていかないし、いきなり母と対面は無理だろうけど……」

「父のことはともかく、俺が許してくれるのなら日奈さんに会いたい。母はそう言っています。お酒を飲んだ日は、日奈さんの成長を見届けられなかった自分の弱さが憎い、とも……」

「お父さんには、私に会う気はないって言ってたクセに」

「素直じゃないんですよ、あの人。大事なことほどなぜか必死に隠そうとする」

 勝手なことばかり言う人だ。でも、正直嬉しかった。ブラックコーヒーのエピソード。母との共通項。なにより、母の中に私の記憶がささいながらもあったこと。捨てたことを後悔して息子にもそれを打ち明けていること。

「結果だけ見れば捨てられた子供。でも、それだけじゃなかったって、今は思いたい」

「日奈さん……」

「あなたのこと、私は何て呼べばいい?」

「日佐人と。そう呼んでくれていました」

 日佐人か。慣れなくて変な感じだけど。

「薄々気づいてはいたけど。私達、母親の名前から漢字一文字ずつ与えられてるんだね」

「はい。嬉しかったです」

 だからって、平等に愛されていると手放しに楽観視はできないけど。少なくとも母の中では、私と日佐人、どちらにも均等に愛があるつもりなのだろうか。そうであったら、私の心の荒れ果てた部分が少しは癒されるのかもしれない。

「日奈さん。改めてこれからもよろしくお願いします」

「うん。また一緒にコーヒー飲も」


 その夜、Mにダイレクトメールを送った。

《記憶の件ですが、このままで大丈夫そうです。一件落着しました。

心配してくれて本当にありがとうございました》

《こちらこそ、ご連絡ありがとうございます!良い方向へ進めたようで安心しました。

本当によかったです!》

《あの。やっぱりMさんの能力については、質問タブーなんですよね?》

 日佐人との件で人に踏み込むことを知った私は、好奇心のままMに尋ねていた。前だったら無難にやり過ごそうとしていたところを。

《すみません。それだけはご容赦を。

教えてしまって日奈さんに危険が迫る事態になるのは避けたいものですから。》

 そんなにまずいの?

 私のことを自分事のように気にかけてくれたMの素性。とても知りたいけど、これ以上はかないでおこう。

《いえ、こちらこそ図々しい質問でした。すみません。

今回のことがキッカケで内省できたし、Mさんのおかげで前に進めました。

気遣ってもらえて嬉しかったです。

本当にありがとうございました》

《日奈さんの一助になれたのなら本望です。

今後、日奈さんにたくさんの幸せが舞い込みますように。》

 その瞬間、私の記憶からMの存在がじょじょに消えていった。同時に彼女とやり取りしたダイレクトメールの内容も全て消去された。きっと彼女の能力が使われたのだろう。

 結局どんな能力なのか、彼女が何者なのか、知るよしはなかったけど。

 きっと、世の中はそうなっているんだろう。知らなくていいことはそのまま素通りしていき、知るべきことは時がきたら目の前に訪れる。

 日佐人が私の人生に現れたように。









《完》


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