量子力学ラブレター
週に一度の部活。科学準備室では先輩が一人で文庫本を読んでいた。
「先輩、何読んでるんですか?」
先輩は顔を上げた。真ん中から分けている黒い髪が頬から落ちる。
「エルヴィン・シュレーディンガーの『生命とは何か』だよ」
「シュレディンガーってもしかして『シュレディンガーの猫』の、あのシュレディンガー」
「そう。この本はあまり量子力学は関係ないんだけどね。でもね、思いついちゃったんだ」
「思いついた?二重らせん構造ですか?」
「違うよワトソン君。『シュレディンガーの猫』に代わる量子力学の説明を思いついたんだ」
僕がワトソンなら輩はクリックか。いやいや、おこがましい。
「たしか『シュレディンガーの猫』って量子力学の説明ではなくて、コペンハーゲン解釈を批判する思考実験ですよね。量子が確率的に存在するのなら生きている猫と死んでいる猫も確率的に存在しちゃうよね、っていう」
「そう。だから考えたの。批判じゃないコペンハーゲン解釈に基づく現実的な量子力学の簡単な説明を。その名も『先輩のラブレター』」
ラブレター?量子力学からは想像もしない突飛な単語に戸惑った。
「ラブレターが確率的に存在するってことですか?」
「そうじゃなくて。君が熱烈なラブレターを書いて私に渡すとね」
「……書いてないですよ」
「思考実験さ。私は君が書いたラブレターを受け取り、返事は1週間後と答える。するとその1週間、君の熱烈な愛を受け入れる私と拒否をする私、どちらも生まれるの」
「返事を聞くまではイエスとノーが確率的に存在する?」
「そう。デートはどこに連れて行くんだろう、君は私をなんて呼ぶんだろう、とか。波のように考えている間は」
「でも僕が返事を聞くと、どちらか一方に収束する。確かにそれっぽいですね」
「そうでしょ。でも決定的なミスがある」
「ミス?なんですか?量子力学の例えとしていい線だと思いましたよ」
「だって君は書いてくれないでしょ、ラブレター。だから確かめられない。これがいい例えなのかが」
「思考実験……なので」
「だから私が書いたの」
先輩は文庫本に挟めていた白い封筒を僕に差し出した。
先輩の目線に促され、僕は封筒に貼られたフラスコのシールを剥がして読んだ。
熱烈で、いたってシンプルな文面だった。
「じゃあ1週間後」
そう言って立ち上がった先輩は文庫をカバンにしまう。
「……ミスです」
「どうして?」
「僕の返事は確率的ではなく確定的ですから」