【短編】転生した妻の置き手紙
「――父さん。これ、母さんから」
久方ぶりに会った息子の顔は濃い隈とげっそりこけた頬のせいで、まるで病人か死人のようだった。
しかしそれとは別に随分と会っていなかったからか、いつの間にか身長を越されていたのだと気付かされる。
「それ、読み終わっていらなかったら俺が貰う約束だから捨てんなよ」
「……あ、ああ」
押し付けられるように渡された厚めの封筒を受け取り、呆気に取られた隙に息子が用件は済んだとばかりにさっさと去って行った。
今回の葬式は息子が全ての手筈を整えていた。この後も参列者への対応や、今後の予定で忙しいのだろう。
妻に関する何かの重要書類の確認をしろということだろうか?
いやしかしそうなると要る要らないという話になるだろうか?
渡された封筒を不思議に思いつつ、とにかく時間は沢山あるのだしと近くの客間で中身を確認することにした。
つい数年ほど前に当主の座を息子に引き継いでから、重荷から解放されたように自由の身になり、暇を持て余しているのだ。
几帳面な息子に文句を言われないよう、丁寧に封筒を開ける。
中身は便箋の束になっていた。
便箋の装飾は我がクライモルテ公爵家の紋章が描かれた正式な便箋であった。
これが使えるのは公爵家当主、夫人、次期当主だけだ。
私は普段便箋など使わんし、当主となった息子はどうか知らないが、わざわざ紙にせずとも口で伝えられるのに忙しい中で遠回し過ぎる。
そして婚約者はいるものの、息子は未だ未婚だ。
つまり、これは、まぎれもなく妻からの最期の手紙だということだ。
――妻。先ごろ、静かに息を引き取った私の妻の手紙だ。私宛ての。
彼女とのことで思い出せるのは、いつも気難しい顔で淡々と話してくる隙の無い姿だけで、思わず顔を顰めてしまう。
時折、息子に穏やかに微笑む彼女を遠くから見つけることはあったが、ついぞ私に笑いかけてくれる姿は思い出せなかった。
故人の、それも妻の最期の手紙。
いったい何が書かれているのか。
一番あり得るのは、私への恨み言だろうか。
それでなければ、私への怒りか説教かもしれない。
それほどのことをしていた自覚は、ある。
生前、ただでさえ妻と碌に楽しい会話をした記憶がない。
それなのにこれほど分厚い束になるほど私へ何をしたためたのか。
おそるおそる便箋の一枚目、その一行目を確認する。
『――セドリック・クライモルテ様
こうして死後、不躾に文を送る不作法をお許しください。
息子に託してしまった不甲斐ない妻より謹んでお詫び申し上げます』
あの妻らしい、丁寧で綺麗な字で書かれていたのはそんな出だしだった。
この手紙を綺麗な姿勢でスラスラ書いている光景が容易に想像出来て、あまりにらしいだろう姿に知らず笑む。
が、
『セドリック様。私はあなたに怒っています。
どのくらい怒っているのかというと、くたばれくそ野郎!
って結婚前からずっと思っていました。結婚後も変わらずです』
「は!?」
いきなりの、妻からは出そうもないだろうあり得ない激しい文言に、思わず指に力を入れてしまい紙がくしゃっとなりかけるが、慌てて指の力を抜いて読み直した。
……読み間違いではないようだ。
『何故って言わなくてもお分かりでしょう。
分からないのなら重病患者です。もはや救いようがありません。
しっかりと手遅れなので、この機会に去勢をお勧めいたします』
苦笑が漏れる。ひどい言われようだった。
だが、妻には私をここまで詰る権利があった。
なにせ、私はとても不誠実であった自覚があるからだ。
『あなたと結婚する直前、私へなんて言ったか覚えていますか?
“子どもを産んだら、愛人をつくっていいよ”です。
初々しい生娘に対して大した配慮でしたね。
その後続けて、“私には既に愛人が何人かいるからね”です。
聞いていた話との齟齬に、寝耳に水とはこのことでした。
お蔭様で、初夜の前に愛人への対処法を先に学ぶことになりました』
……そういえば、妻との結婚後に何人も私から離れた娘がいたな。
どの娘も段々と鬱陶しく厄介になっていたから離れたことを喜びこそすれ、薄情にも何故かと理由を気にすることは無かった。
『しかし、いくら私が巣を駆除しても、
次々に新たなる巣作りをされては為す術もなく。
ひそかに新巣発見の報告を受けるたび、冗談ではなく
いっそちょんぎってやろうかと何度も何度も血迷ったものです』
ひゅっ、と思わず楽に開いていた足を勢いよく閉じた。
何度も何度もの部分だけ、筆圧が他と比較して明らかに強かった。
『カールトンが決死の思いで私を引き止めていなければ、
息子たちは誕生することが出来なかったので、今では笑い話です』
カールトン……。
カールトン……ッ!
我が家に代々使える家系出身の執事、カールトン。
当主として執務を行う際には沢山世話になった。
今は私の息子とカールトン自身の息子と孫の補佐を引き受けてくれていたはずだ。
まさか、妻の凶行を未然に防いでいてくれたとは知らなかった。
『ですが、正直言うと今となってはかなり悔しい思いです。
こうして余命幾許かとなり、
優秀で素直で一途な良い子に育った子どもたちに囲まれていても、
脳裏を過ぎるのは、相変わらず愛人造りに邁進するあなたでした』
妻が、……。
妻の容態が良くはないと聞いた時、私は――会いに、行かなかった。
もとより合わせる顔なんて無かった。
会ったとしても、私への怒りで寿命を縮めるのではと内心怯えていた。
私のようなろくでなしより、真っ当に育った子どもたちに囲まれていたほうが穏やかに最期を過ごせるだろうと。
それに妻とだけならともかく、大きくなるにつれて私を嫌う感情が膨らむ子どもたちと共に家族の団欒が過ごせる気がしなかった。
だから、全てを紛らわせるように愛人に走った。
『悔しい。口惜しい。恨めしい。
なにより、私に対して後ろめたく思っているあなたの行動が。
そう思わせてしまった私たちの今まで積み重ねたはずの関係が』
「――――」
そんな風に、考えていたのか……。
『どうしてか。子どもたちの明るく純粋な未来よりも、
私が去った後のあなたの爛れた未来が心配でなりません』
「――――」
『私が初めてセドリック様をお見掛けしたのは、デビュタントでした』
妻の、若かりし頃が走馬灯のように思い出された。
『あなたは覚えていないでしょうが、幾人かの後にあなたと踊りました。
緊張のあまり、何度もあなたの足を踏みつけてやりました。
今更ですが、あの時に幾らかあなたへお仕置きすることが出来て、
無意識とはいえとても良い仕事をしたと自負しております』
「――ふ」
覚えているとも。
まるで親の仇かのように、真っ赤な顔で遠慮なく足を思い切り踏みつけてきた無垢で可憐な少女だったころの妻を。
妻との忘れがたい、大事な思い出のひとつだった。
むしろ、忘れられていたと思っていたのはこちらだ。
なにせ、――。
『そしてあなたに再び会えた時、
意気地なしにも“はじめまして”と言ってしまいました。
ごめんなさい。いらない見栄を張りました。
ギコギコ踏んづけ娘のまま記憶に残りたくなかったからなのです。
だから、敢えて“はじめまして”と告げてしまった。許して。
可愛い嘘でした。なのに。なのにそれで、
あなたがあまりに平然と“はじめまして”を返してきたので、
とても憤慨しました。
いくら女の子にモテモテの色男で、たくさん愛人を侍らせていても、
あなたはやっぱりあの頃からとっても不器用で!
朴念仁で鈍感で乙女心の理解出来ていない最低な男でした』
「…………」
そこまで言うか……。
『ああ! 最低! ほんとうに最低!
最低な理由なんて挙げればキリがないけれども。
なんでこんな男と結婚しなければならないのか、
と初めて真剣に考えたのは結婚式の途中ででした。たしか、
既に契約違反してる未来の夫と結ぶ誓いのなんたらの最中でしたね』
結婚式か……。
ふ、その時点だと止まるにはもう微妙に手遅れだったろうな。
『だから、挙げればキリがないあなたの最低な理由ではなく、
どうしてあなたと結婚することになったかに思い馳せました』
「――――」
切り替えの早い、あの妻らしい。
『はっきり言いましょう。これはれっきとした政略結婚でした。
愛情なんて求めるべくもなく、ただただ義務で成り立つ契約。
事前に愛人だとかについて言及した分、あなたは随分と良心的でした。
まあ、とはいえとっても不愉快な話であることに変わりはなかったけれども!』
何故かあの日の――式の後、むすっとしたまま初夜の為に準備すると連行されていった妻の姿がまたしても思い出された。
そこからどんどん月日を思い返せば、息子が出来るまでしばらくずっと、むっつりとしたままの顔の妻がいた。
……あの時は妻が妊娠するまで一緒にいたはずなんだがなぁ。
『あなたはきっと、あの時は妊娠するまでつきっきりだったから。
なんて、他では当たり前のことを思い返すのかもしれませんね。
ですけれど、閨でしか会えなかった当時の私にとって、
これは義務でしかないと言われているように感じるだけでしたが』
「……む」
まるで心を読まれたみたいだな。
『今思えば、あなたなりの健気な誠実さの裏返しだったのでしょう。
ええ、ほんと。妊娠した途端、喜びを噛み締める間もなく
愛人とのごたごたを解決させられる疲労を押し付けられるとは。
まったく。これっぽっちも、思い至りませんでしたけれども!』
「う……」
当時、妻の妊娠に浮かれ、それをあろうことか暢気にぽろりと愛人に漏らしてしまい、後々大変なことになった記憶は未だ鮮明だ。
あまりの大騒動に、未だに尾を引く大きな心の傷になったと言っても過言ではない。
あれ以来、妻に関することを外へ、特に愛人たちへ漏らすなとキツく言い含められなくとも言いつけ通りにしていた。
それに付随して、ほぼいないと言ってもいいような最も愛人の少なくなった時期ともなった。
『息子が誕生した時、初めてあなたの心からの笑みを知りました』
「――――」
心からの笑み?
『私はその時、どうしてだか、あなたに抱かれて泣き叫ぶ息子よりも、
息子に泣き叫ばれて困り果てたまま、それでもしっかり離さずに、
泣きそうに息子を抱いて笑うあなたの姿が嬉しくて、悲しかった』
「――――」
出産直後で気怠げに寝台に横たわった妻が、胡乱気な視線で私と抱いている息子を見ている光景が瞬間的に過ぎった。
あの時のことだろうか。
『だからなのでしょう。今わの際という今頃になったというのに、
しっかりすくすく育ってくれた可愛い子どもたちよりも、
いい大人のくせに幼い迷子の子どものように泣き笑いを浮かべた
あの日のあなたが脳裏に灼けついて、心配する心が消えないのです』
「――――」
ピクリ、とこめかみが勝手に動いた。
『ですから私、もしも奮闘虚しくあなたより先に死んでしまったら、
あなたにだけ、私のとっておきの秘密を明かそうと思い至ったのです。
ええ、安心して。私自身は大事な秘密を墓場まで持っていきますが、
死んだ後の私は秘密にすることなど何もありませんから無問題。
あなたは知らないけれど、他の誰かが知っていた事柄なんて、
それほど多くはないのだけれど。これだけは。本当にこれだけは。
本当に私だけが知っていた秘密を、あなただけにあげようと思います』
ごくり、と知らず喉を鳴らした。
あの妻が、死んでなお私にだけ教えてくれるという秘密。
知りたくないなんて人がいれば、教えて欲しいくらいだ。
これほど前置きするだなんて、どれほどの秘密なのか――。
計算したのか偶然なのか、ちょうど次の便箋へと文字が途切れている。
速くなる胸の動悸を感じながら、妻のとっておきの秘密を読み進める。
『――転生って知っていますか?』
「てんせい?」
書かれた文字は読めたが、聞き馴染みの無い単語だった。
拍子抜けするような気分で続きの文字を追った。
『前世は知っていますか?』
「ぜんせ?」
またしても聞き馴染みの無い単語だった。
これは何かの専門用語だろうか。欲しかった説明が続いた。
『転生、というのは何らかの要因で死んだ後に、
何かの拍子で新たな生命に生まれ変わる事象のことを言います』
「……ん?」
死ん……? え?
『前世、というのは何らかの要因で転生した後に、
何かの拍子で生まれ変わる前の、
死んで転生する前の記憶を思い出してしまう事象のことを言います』
「は……?」
記憶……生まれ変わる前の……。
『つまり、私は前世で死んでしまう直前までの記憶があるまま、
この世界に生まれてきたということです。
前世は、この世界とは別の世界で暮らしていた時の記憶でした。
異世界だなんて概念、こちらではあまり聞かないけれど』
「――――」
ひどく、混乱した。
つまり、妻は、死ぬ前に、既に一度死んでいた……?
そういう意味、なのだろうか――。
『まあ、転生も前世もそれほど重大な秘密ではないから忘れていいです』
よくない……。
なら何故そのことをここに書いたんだ……。
『与太話と片付けられる類のものですが、ここで今更冗談は書きません。
生きている時に教えていれば、笑われたかもしれないけれど……。
きっとあなたは、死んだ後の私の言葉を蔑ろにはしないでしょうから』
「――――」
次の文字が、震えている。
妻にしてはとても乱れた筆跡だった。
『あなたは来世を、信じてくれますか』
なんとなく、知らないはずの単語の意味を理解出来た。
「ふぅ……」
続きを、――読む前に。
一度、近くにあった机に丁寧に妻の手紙を置き、天井を見上げた。
見慣れた天井は過去に雨漏りでもしたのか、所々染みが目立っていた。
「――――」
続きを、読むべきか。
情けないことに、私はここにきて盛大に尻込みした。
妻が何を考えてこの手紙を残して逝ってしまったのか。
なんとなく、分かってしまったからだ。
「すぅ、――」
深く、深く、深く息を吸って、吐いた。
迷った。困った。なんと、息苦しいことか。
きっと、この先を読めば後悔する。そんな確信があった。
今ならばまだ、――まだ、止められる。
中途半端に読んだまま、何も知らぬままに息子へと渡せばいい。
息子へ渡していいという約束を残してくれた妻は、きっと私がそうしても呆れながらも仕方ない人だと、許してくれるだろうから。
――そんな確信が、あった。
ゴーン、ゴーン。
未練たらしく迷い、考えに耽ていると、遠くから大鐘の音色が響いて聞こえた。
すでに妻の遺体が入れられた棺との別れは済ませていた。
おそらく今は、参列した者たちから息子が当主として御悔みの御言葉を頂いている頃だろうか。
棺の中身は、昼過ぎにはもう灰となっていた。
――ふと、声を掛ければ。
そのまま起き上がってくれそうな、どこか穏やかな寝顔のままの妻を見送った。
妻の好きだった、綺麗で色とりどりの花に囲まれていた。
なのに、どこか私には彩りを感じられない花に囲まれた妻という景色は、どこもかしこも色褪せて見えてしまっていた。
これほどまでに美しくも儚く、けれどどんなに色褪せようとも綺麗な景色の中で、ほのかに笑みを浮かべる妻を見るのはいつぶりだっただろうか。
――『あなたは来世を、信じてくれますか』
その文字は、ひどく私の心を揺さぶった。
まるで妻から直接語り掛けられたような衝撃だった。
私は妻を――のかと。
「ふぅ……」
迷いは、ある。
苦しみも、ある。
だが、それ以上のものが確かに私の中に存在していた。
私は手紙の続きを手に取った――。
『初恋は叶わないもの、ということわざはご存じですか?
私がこれほど嫌う言葉など、この世でこれ以上には存在しません。
セドリック様はどのような初恋をしましたか。
きっと、あなたのことでしょうから、
とびっきりの悪い女にころっと騙されたに違いありません』
「私の初恋、――」
それは、
『私の初恋は誠に遺憾ながらも、散々な結果に終わりました。
なにせ、悪の権化のように悪どい色男に騙されてやったからです。
けれど、それについては特に後悔はしていません。
だって、たとえ散々な結果だったとしても、自信満々に言えるのです。
私は確かに、最期までこの世で最も幸福な女でしたから、と』
「――――」
騙されてやった、か。
『不器用で朴念仁で鈍感で、乙女心なんてまったく理解出来ていない
とっても最低な男で――この世でとっても愛した男だったから』
「――ッ!!」
『私がぷりぷり怒っていると、その日の夕食に好物がよく出て来ました。
たまに朝寝坊してしまうと、何故か必ず邸宅全てもお寝坊さんでした。
外へと出掛けようとすると、何故か毎回ただの視察と化していました。
せっかくお揃いの食器を購入したのに、何故か私だけしか使わないし。
私が何をあげても、使ってくれたことなんて数えるほどしかない』
「――――」
あの時のことか……?
機嫌が悪そうな妻の為に、好物は確かによく出していた。
疲れているから、なるべく休ませようとしただけだった。
なるべく傍で見守りたくて、仕事を強引に混ぜ込んでしまった。
大事な思い出の品だから、万が一壊してしまったらと怖かったんだ。
君が選んでくれただけで良い、使い減らすなんてそんな勿体ないことは出来なかった。
『直接問い質してやろうと何度も突撃したというのに、その度に
どこぞで囲ってた愛人のもとへ一目散に逃げ込んで情けない男でした』
「――――」
それは、あまりに君が恐ろしい顔で睨むものだから……。
『そんな色男がご自慢の愛人たちにも、実は手出しなんて一切合切、
まったくこれっぽっちも、一度もしてなかった、だなんて。
そんな衝撃的な事実を知った時は驚愕で引っくり返るかと思いました。
いえ、正しくは引っくり返るより先に盛大に呆れかえりましたが』
「は、――」
くしゃ、と今度こそ便箋に皺が入ってしまった。
予想外の文面に、まるで動揺がそのまま移されてしまったようだった。
『これを言っても、一体誰が信じてくれるというのでしょうね。
あの女食いと悪名高かった色男、セドリック・クライモルテの話だと』
「――――」
どうして君が――。
『まさかこれほどまでとは思いませんでした。やっぱり重病患者です。
これほどまでに誠実で一途で照屋なだけの義理堅いだけの男なら、
惚れてしまっても、愛してしまっても致し方ないではありませんか』
「――え」
まさか、――。
『確かに、最初は社交界の噂を鵜呑みにしていました。
けれど、そんなもの、あなたと過ごすうちにすぐに剥がれ落ちました』
「――――」
そんな、それなら結婚してからの今までずっと――。
『あなたは私の最期の瞬間まで、色男のままであるとして隠し通せたと
見当違いにも勘違いしているのかもしれませんけれど、
とんでもない! ハナから嘘だってばればれのみえみえでしてよ!』
「ふ、――」
これは、手厳しい。
得意満面でこれを書いていただろう妻の姿が容易に想像出来た。
『――セドリック・クライモルテ様
こうして死後、不躾に文を送る不作法を平にお許しください。
死期を悟ってもなお、手紙だけで済まそうとするような
可愛げのない妻から、謹んでお詫びとお礼を申し上げたいのです。
あなたにどうしても、伝えたい心があったのです』
「――――」
急に雰囲気の変わる文面に、情緒の安定しなかっただろう当時の妻の様子が垣間見えて胸が余計に痛んだ。
文面から伝わる想いが切実であればあるほどに、更に。
『言葉にしようとすれば、きっとあなたはまた逃げるだろうからと。
それを見逃せるほどの、余裕も無くなった妻をお笑いください』
「――ッッ」
まるでこちらの情けなさや痛みを理解したかのように、労わるように、気にするなと慰めるように、妻の文字はどこまでも美しくも力強かった。
けれど、彼女がこちらを気遣えば気遣うほどに、それはある意味で逆効果をもたらす諸刃の言葉でもあった。
『セドリック・クライモルテ様。
初めてお会いしたあの日、あの時より、お慕い申し上げております。
愛しています。あなただけを、愛しています。セドリック』
「――ぁッ」
穏やかに微笑んでいた、妻の最期が忘れられない。
『逃げるばかりのあなたからは、ついぞ、
その言葉は聞け出せませんでしたし、私からも言えませんでしたが。
私の最期の言葉くらい、迷い悩み、それでも最後の最後には結局、
あなたは読んで下さるのでしょう? そう、確信しております』
「ぁあッッ」
情けない。情けない。情けない。
死してなお、妻は多くのものを私へ残そうと抗い努めてくれたのに。
『セドリック様。あなたは来世を、信じてくれますか。
たとえ来世で交わる未来が、途方もなく先であったとしても。
また、あなたに会いたいと願う私を許してくれますか。
まだ、あなたを恋慕っている私を見つけてくれますか。
セドリック様。セドリック様。
――ああ、セドリック様。こんな無機質な文字などではなく、
ただただあなただけへ特別な、声だけでも残すことが出来たならば。
あなたを想う私の声を、あなたの最期が寂しくないように添えるのに』
「ぃ――ッ!」
大丈夫、伝わっているよ。不安にならないで。
ちゃんと君の声で。君の声音で。君の想いが。
心に届いている。私へと、ちゃんと響いている。
聞こえているよ。とても、綺麗で穏やかな君の声が。
私は君の最期に寄り添えなかったのに。
君の最期の瞬間を看取ることすら出来なかった、臆病な夫だったのに。
それでも君は、私に何かを残そうと、寄り添おうとしてくれるのかッ。
最期まで。最期のその先ですらも――ッ!!
『何も残せず先にいってしまう私をどうか、どうかお許し下さい。
最期まで共にあることも出来ない、不束な妻をどうか。
こんな苦しいだけの置き手紙を残してしまった弱い妻を、どうか』
「う、ぅ……」
違う、違う違う違う!!
何も与えられなかったのは私であって、君ではない!
君の最期の瞬間になっても、勇気の欠片も振り絞れなかった私は許されざる大罪人となっただけだった。
君は強かった。
不治の病に侵されたのに、最期までとても、ただただ強かった。
どこまでも芯の通った素敵な女性で、私にはもったいないっ……。
……勿体ないほどに素晴らしい女性だった。
『セドリック様。あなたは来世を、信じてくれますか。
信じてくださるのなら、私はきっといくらでもお待ちできます。
けれど、あんまり早く来られるというのも嫌なので、ゆっくりと。
あなたは遠慮していたけれど、息子たちはずっと気に掛けていますよ。
是非、彼らの楽しい未来の、沢山の土産話を先に行って待っています』
「――ぁあ」
ほら、やはり君は強い。
視界が滲んで、君の贈り物を汚してしまいそうになって慌てている私とは比べるべくもないほどに。
『セドリック様。セドリック様。
やっぱり文面では何も伝えられませんね。
だって、これほど愛おしい気持ちで何度もお呼びしているのに、
それを伝えきる為には籠められる心の余白が全くもって足りません』
「あぁ゛ッ……!」
大丈夫。聞こえているよ。伝わっているよ。
少し、不満そうにむくれている君が見えている。
君の心は、声は、いつまでもここにあるから。
全て、私に残してくれたのだから、もう心配しないで――。
『そうだ! 来世で会えた時の合言葉を決めておきましょう。
この合言葉には自信があるんですよ。
なにせ、あなたと私、たった二人だけの秘密ですから。
あ、それとあなたのことだから、先に沢山練習しておくといいですよ』
「――ふっ、そうだな」
最後の文面に目を通して、思わず穏やかな笑みがこぼれる。
つられるように頬を撫でる感触を感じ取り、随分すっきりとした心地を味わった。
きっと、また妻に会いたくなる。
だからこれは大事に大事にしまっておこう。
そうして汚れないように色々と整えてから、
なるべく丁寧に、元の封筒へと妻の便箋をしまった。
「あ、父さん、読み終わった? 貰っていい?」
「――だめだ」
見計らったかのように現れた長男を見て盛大に顔を顰めて拒絶した。
誰が渡すものか――。
「はー、やっぱりか。そんな気はしてた」
諦めたように頭を掻いた息子は、呆れたようなため息を吐いて素直に手を引っ込めてくれた。
が、
「じゃあ父さんの葬式の時にでも勝手に読まさせてもらおうかな」
「おい……」
縁起でもないことを言い出した。
「冗談冗談! 真に受けんなって。そん時は残念だけど。――いやほんと、めちゃくちゃ気になるけど! ……母さんとの約束は約束だからな。残念ながら諦めて責任もって読まずにそのまま一緒に灰に還してやんよ」
「頼んだ」
満足げに返事をすると、またしても盛大にため息を吐かれた。
しかし、息子の表情はどこか楽しげでもあった。
「はぁ……まあいいけど。出来ればもっとずっと先にしてほしいね」
「ふ、なんとか頑張ろう」
息子の苦笑につられて素直な笑みを返すと、途端、意地悪でも思いついたような顔で余計なことを言われた。
「おう。ろくでなしだけど、母さんの分も長生きしてくれよ!」
「おい……」
「じゃ! 片付けあっから!」
「おいっ!」
今までの意気消沈はどこへやら、妻譲りの切り替えの早さに色んな意味で苦々しい思いを抱いた。
しかし、今更になってしまったが、そんな感想が芽生えるのはなんだか悪い気分ではなかった。
それは、確かに妻の名残りを感じたからかもしれなかった。
「……もうこんな時間か」
随分長い間、妻と向き合っていた気がする。
それはとても苦々しくも、温かい、そんなひとときであったのだと、確かな悲哀と喜びをもって心に陽だまりのように満ちていた。
その晩。
『ねえ、あなた合言葉はちゃんと練習しましたか』
『ああ、もちろん』
『じゃあ早速、その成果を聞かせてくださいな!』
『いいだろう。心して聞いてくれ』
『ふふふ、はい、どうぞ!』
――転生した妻の置き手紙を読んで、土産話と一緒にゆっくり来た。
前世でも来世でも、どんなときでも君を心から愛してる。
それはきっといつか必ず叶う、来世の夢だった。
最後まで読んで頂きありがとうございます!
雰囲気はなにやら悲恋と言えなくもないですが、
作者的にはそこまで悲恋にしたつもりはないです。
でも、正直書いてる間ずっと、だばーーっとな
鼻水の洪水でキーボードが大変なことになっておりました(笑)。
泣きながら書いたので、たぶん、ちゃんと入り込んで読んだら泣けたはず。
感情に乏しい人でも、ひそかにうるっとはいったはず!
……そこ! 汗がどうのとか、嘘ついちゃだめですよ!
セドリックと同じになっちゃいますからね……!
ちなみに、このお話は衝動で一気に書いちゃいました。
(前にもあったような……?)
いやほんと突然、頭に情景が思い浮かんで同調して泣いてしまったので。
(その時はまだお外だったので、急に泣き出すただのやべーやつでしたが)
そんな複雑(?)な事情もあり、
さっさと書き出さないと頭の中に残ってずっと大変な状態に陥っていたので勢いで執筆。
こういう系のって、映画にするとちょうどいい内容と尺な気がします。
というか、今更ですが、どこかにごろごろと似たような作品ばかりありそうで恐怖しかない。
二番煎じもいいところかもしれませんね(震え声≪大量の予防線≫。
そんなこんなで、不覚にも泣いちゃったら「いいね」ください!
残念ながら泣くまではいけなかった悲しみの人は、とりあえず風呂入って水飲んで下さい。
「いいね」以外にも良かったら感想や評価を頂けると嬉しいです!
今後とも色んな作品をせっせと世に出せるように頑張ります。
なんか、うん、よろしくお願いします!
≪追記≫
後日譚のようなの、書きました。
完結「クライモルテ公爵家の最愛」全6話。
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短編「奥様専属侍女の追憶」
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