屍装騎士⑨
「あのさ、そういうやつまだあんの?」
呆れ顔のガーニャが、変態した螽兜に侮蔑の嗤いを投げた。
「これで打ち止めだよ。あんまりにも殴られるから、腹が立ってさ」
再度、螽兜の姿が消える。再度、背後からの斬撃。右回転肘撃を空振ったところにまたも背中を切りつけられる。
「じたばたする相手の姿を見るのは気分がいいね」
螽兜が五メートル先に姿を現した。ガヴリラは舌打ちした。
ガヴリラは思案する。ディンプルスタイルの超高速斬撃でさえ撥無の前には無力だ。螽兜は、何を狙う?
スタヴローギンの言葉が事実かどうかはどうでもいい。問題は、何を持ち出そうとも撥無の攻略は不可能であるということだ。しかし、こちらの攻撃とて掠りもしない。
「持久戦になってきたね」
螽兜が含み笑いの声を上げた。ガヴリラは耳を傾けない。
「ところで、ぼくは君の魔法の秘密に気づいたよ」
ばくん。ガヴリラの心臓が跳ねた。ありったけの力を注いで、ガヴリラは表情の平静を保つ。このままだ。むやみに突っ込めば、能力看破に過剰な恐れを抱いていると自ら暴露するだけ。聞き流せば良い。
「君はルールの例外にいるんだ、ガヴリラ。ぼくと同じように」
螽兜が語り始める。
「ぼくは二つの魔法を持っている。蔵置と屍操だ。蔵置の力で屍装鎧を収納し、屍操の力で魔物の屍を身に着けている。君が、撥無と急駛、二つの魔法を操っているように」
ガヴリラは表情を変えない。黙って螽兜の話を聞いている。
「そしてぼくは、君の急駛を破る術を思いついたよ。聞きたい?」
「……教えてくれるわけねーだろ?」
「もちろん。知るのは、君が死ぬときだ」
ガヴリラは、確信した。
この自警団気取りの間抜けを、今ここですぐに殺せる。
螽兜は、ガヴリラの魔法について何も理解していないのだ。屍装騎士自身が二つの魔法持ちであるからこそ、至った勘違いであろう。
今にして思えば、最初から螽兜の作戦は一貫していた。隘路での戦闘と奇襲、分厚い鎧による防御、薄い鎧の高速機動。そしてこのばかげたハッタリが決定打となった。なにもかも、急駛封じが目的だった。
「そんなら、破ってみろよ」
挑発に乗ったフリをする。鎧の下で螽兜の筋肉が緊張するのをガヴリラは見る。怯えていやがる! 残虐な気持ちがガヴリラの心中に湧き上がる。イカサマにハメた相手の命がけのブラフを鼻で笑い、賭け金を更に吊り上げる賎劣なポーカー・プレイヤーのように。
「なンてなッ!」
ガヴリラは鋭いステップインから右フックを繰り出した。当たる直前、螽兜の姿が消えた。ガヴリラは前腕を眼前で交差しながら振り向いた。ここまでの切り結びで、行動を読むのは容易いことだった。高速機動形態を採ってからの螽兜は、必ず背後に回ってきた。
果たして、誘いこんだ先に獲物がいた。ディンプルソードを振り上げた姿勢。薄手の鎧と、この至近距離。必ず当たる。必ず殺せる。躊躇はない。ガヴリラが、急駛を発動する――
「……え?」
ガヴリラは、どういうわけか横たわっている自分を発見した。立ち上がろうとして果たせず、生ぬるい水たまりの上に倒れ込んだ。水たまり? 違う、これは……血だまり。
「俺……俺の、血? は? なんで……?」
見上げた螽兜が、悠揚たる仕草で剣の血を払った。
◇
「そうだ、重要なことを話さなくちゃね」
ガヴリラの直下に当たる岩をダイヤルメイスで削りながら、スタヴローギンが口を開いた。
「ガヴリラの魔法について、ですね」
「そう。二つ持ちの可能性がある」
一人の者に魔法は一つ。リリャであれば慧眼、リザヴェータであれば渺鎧、レオニード・ペトロフであれば魔銛。それがルールであるはずだ。
「もちろん、どんなことにも例外はある」
「ニコルーシャも、そのひとり」
スタヴローギンは頷いた。
「あなたは蔵置つかいでもあるし、それから……魔物の屍を操っている」
「その通り。蔵置と屍操、この二つがぼくの魔法だ」
纏身に用いる焼け焦げた人骨の鍵が、屍装騎士の秘密を握っているのだろう。だがリリャはそこに立ち入らなかった。過去を暴いていいほど、スタヴローギンと深く通じていない。今は、まだ。
「ぼくはぼく以外に、二つ持ちの魔法使いを見たことがない。だけど、可能性は排除しきれない」
音速撃たる急駛、絶対防御たる撥無。二つ共に破らねば、ガヴリラを殺すことはできない。
「でも、そんなことって考えられますか? たまたま相手にした敵が、たまたま魔法をふたつ持っていたなんて」
「どうだろうね。ぼくは見境なく殺して回っているから、そういうことだってあるかもしれない。でも、リリャには考えがあるんだね」
「話していいですか?」
「頼むよ、相棒」
認められたのだ。これから誰かを殺しに行く算段だというのに、リリャの心は躍った。
「ガヴリラが撥無つかいだとしても、急駛は説明できるんです」
「なるほど。君は単一魔法仮説を唱えるわけだ。興味深いね」
二人は坑道を歩き続ける。
「撥無は、攻撃を拒絶します。それは自動発動するリザヴェータの渺鎧とはちがって、ガヴリラの意志で起動できる」
「そうなるね。そうでなくちゃ、向こうの攻撃もぼくに透らないから」
「ガヴリラが急駛を発動するとき、魔力の流れを観ていたんです。加速開始と同時に……えと、ぱっ、ぱっ、って、点滅するみたいに魔法を発動させたんです」
「二回?」
「え? ああ、点滅ですか? はい、二回です。こう、ぱぱって感じで、すごく早くて」
スタヴローギンは拳を口に当て、考えた。
「最初の点滅が、急駛の発動だ。次の点滅は……急加速によって自らにかかる衝撃を、撥無で無効化している? 面白い」
思考を巡らせながら、スタヴローギンは笑みを浮かべる。
「ちょっと待ってくれないかな。自分でも答えが出せそうなんだ。撥無……攻撃の無効化……急加速……二回の点滅……」
ぶつぶつ呟きはじめるスタヴローギンの、好奇心をむきだしにした幼い表情がリリャには意外だった。なぞなぞを出された子供のような、スタヴローギンの無邪気さだった。
「……そうか、分かったぞ。すごいね、リリャ。ぼくひとりでは、こんなこと絶対に思いつけなかった。推理の補助線は?」
「えと、急駛の来る方向です。必ず東から西だったんです。それから、速度。三百メートル以上先で発動して、一秒で目標に到達してましたから」
あけっぴろげな賞賛に面映ゆくなりながら、リリャは答えた。スタヴローギンは何度もうなずいた。
「なるほど、なるほど。リリャは急駛を三度見ているんだ。パターンを割り出したわけだね。いや、そこからの発想がすごいなあ。これはすごいぞ」
スタヴローギンは知的興奮を抑えきれないとでも言いたげに、何度も足踏みした。
「リリャも自分で答えを明かしたいよね。でも、ぼくも自分で分かったことを証明したいんだ。うーん、どうしよう」
「え? いや、わたしは別に、そういうのはいいんですけど」
「ダメだよ、リリャ! 君の発見は君の誇りに属さなければならない」
どういうこだわりなのか、さっぱり分からない。だが少なくとも、見下されているわけではない。スタヴローギンは、リリャと対等で公正な立場にいようとしてくれている。そのことは、嬉しかった。
「分かった、せーので言おう」
「えと……それでニコルーシャがいいなら」
「ようし、せーの」
「自転の慣性」
二人の声が、ぴったりそろった。二人はまったく同じ表情をした。つまり、目をまんまるにしたあと、のけぞって大声で笑ったのだ。
「ぼくたち、悪くない組み合わせになれそうだね」
「あはは! そうですね、相棒!」
◇
蓋を開けてみれば、ごく単純な論理であったのだ。撥無が地球の自転、その慣性を対象に取るとき、急駛となる。
ガヴリラの撥無は先ず、自らの肉体に残る慣性を無効化する。これが最初の点滅だ。
これにより、自転から置き去りにされたガヴリラの肉体は、自転の逆方向……すなわち、東から西へと超高速移動したかのように見える。その速度たるや、中緯度帯たるコザースクにおいては音速にも達しよう! 再度の点滅で急加速によるおよそ50Gにも及ぶ衝撃を無効化! これこそが一撃鏖殺音速撃の正体であった! 魔法の看破、為る!
この発見により、急駛の重大な脆弱性も突き止められた。東から西への一方向にのみ加速することの確定。つまり、どのタイミングで発動されるかを絞り込める。となれば、後は屍装騎士の十八番だ。陋劣下賤たる精神戦によって他者の行動を操ることこそ、魔法戦以上に螽兜の得意とするところであった。
故に、ガヴリラの思考を操った。言葉と身振りのあらゆる手管で、ここしかないと思わせた。ガヴリラの撥無は、慣性と衝撃を分けて対象に取る点から、複数同時発動は不可能。そうであるならば、発動の瞬間こそが機! 自らを死地に晒し、飛び込めば殺せる!
螽兜の刃、絶対高速斬殺武装たるディンプルソードはガヴリラの腹に深く突き刺さり、内臓を引っ掻き回し、背骨の脇から飛び出した。螽兜はガヴリラを蹴り飛ばして刃を引き抜き、血を払った。
そして、我を取り戻したガヴリラは、死にかけている自分を見つけたのだ。
致命傷の肉体を、螽兜の蟲貌が見下ろす。仮面の奥には愉悦の笑みでも浮かんでいるのだろうか? 意識を保っていられるのは二分程度か。あまりにも短すぎる残り時間とその先の死を想像するが、絶望さえもが意識と共に霧散しつつあった。
「さっさと……殺せよ……」
寝入り端に見る夢のように雑音まみれの意識の中、ガヴリラは悪態をついた。地の底で生き、地の底で死ぬのだとして、殺人鬼には殺人鬼の矜持がある。
「リリャ」
螽兜はリリャを呼んだ。ディンプルソードをくるりと回し、持ち手を少女に差し向けた。あるいは、突きつけた。
リリャは剣を受け取った。
「首を狙って。即死させるんだ」
深く息を吸った。
天色の虹彩には、ガヴリラの魔力が萎れる花のように小さく弱くなっていく様が映っていた。
両手で握りしめた剣は、この場には不釣り合いと思えるほど軽い。そして、ひどく重い。
深く息を吐いた。
振り下ろした。
死への無為な抵抗を続ける心臓の送り出した血液が、裂けた血管から噴き出した。雨のように注いだ。小ぬか雨のように。
数十キロの肉塊が、数秒前まで保っていた温度を発散している。血から、内臓から、あたたかな湯気が湧き上がる。
この温度が、この湿度が、春だった。
◇
全天の群青に薄青の兆しが見え、長い長い夜が明けようとしていた。
スタヴローギンとリリャは、邸宅の屋根の上で東の空を見つめていた。
空虚と空疎がリリャを満たしていた。奪われて、奪った相手を殺して、何も戻ってくることは無かった。敵であれ友人であれ、死の手応えは平等に重かった。
夜明け前の、最も寒い時間だった。濡れた血を吸った服が凍りはじめていた。
「終わったね」
スタヴローギンが白い息を吐きだした。リリャは弱弱しくうなずいた。
「ニコルーシャは……いつから、こんなことを?」
「実働で言うと、もう十年ぐらいになるかな」
「ずっと?」
スタヴローギンは大げさに笑った。韜晦するときのくせだと、リリャは知っている。
「君は、ぼくのことを快楽殺人鬼以外のなんだと思っているの?」
嘘だ、と、リリャには分かる。仮面の向こうで、死に行くガヴリラを観ながら、スタヴローギンはきっと顔を歪めていた。後悔と嫌悪とが、蟲のように彼の肉体を内側から食い荒らしていた。
寄り添うことはできないし、赦しを与えることもできない。スタヴローギンはそんなものを求めていないだろうし、リリャにも与えることなどできない。
だけど、一つの確信があった。その確信は、リリャとスタヴローギンをこれからも繋ぎ留めるだろう。溶けて再び固まった鎖のように、ひどく歪んだ、強固な形で。
ひとたび燃え上がった憎悪と殺意の炎は、消し止められないのだ。燃え尽きて、灰と化すまで。
必ずリリャはまた誰かを憎み、殺したいと思うだろう。弱者をないがしろにし、いたぶり、地虫かなにかのように踏み潰して顧みない誰かを、たしかな殺意で切り裂くだろう。
その呪いの炎こそが、確信だった。
だからリリャは大げさに笑った。韜晦するときのくせを、まねてみた。
「わたしにも快楽殺人鬼の素養があったみたいです」
「それはいいね。司法騎士団の悩みの種がひとつ増えるわけだ」
冗談に包んだ、それはスタヴローギンの優しさだろう。彼は、日常に戻れとリリャに言わなかった。
「実際のところ、リリャがいなかったらぼくは死んでいただろうからね。助かった……っていうのも変だな。ぼくたちは相棒なんだから」
「そうですよ。お互いに、当たり前のことをしただけです」
「そう、当たり前のことだ」
ちょっと躊躇してから、スタヴローギンは、
「これからも」
そんな風に言った。リリャの顔ではなく、薄暮の空を見上げながら。
きっとそれは、絞り出された言葉だった。
「さて、それじゃあ始めようか」
スタヴローギンは立ち上がった。リリャも、続いた。
二人は、光差さぬ闇の坑道へと迷わず進んでいった。
二人の春は、そこにしか無い。