屍装騎士⑦
リザヴェータがピンク色の粘液と化す、その少し前。
捜査の末に辿りついた環状運河沿いの廃墟でソフィアが見たのは、地面に転がる団員たちの姿だった。
「何があった! ヤーナ! ザミーラ!」
声をかけると、掠れた呻きが返った。生きてはいる。どうやら一撃で昏倒させられたらしい。
「団長! こっちに首のねえ死体が! こいつ、黒髪団でさあ!」
イワンのだみ声が、廃墟の裏手から聞こえてきた。
「う……あ、れ? なん、で、え?」
黒髪の女団員が、薄目を開ける。
「私だ、ヤーナ。分かるか?」
「なに……あ」
とろんとした半眼は、意識が清明となるなり眼輪筋の許す限り見開かれた。跳ね起きたヤーナは、打ち上げられた魚のように激しく震えた。
「ひっ、ひっ……あ、う! あ、ああ……! き、来たんです、螽が! 夜、まっくらで……目が、わたしを……それで!」
「落ち着け、ヤーナ」
ソフィアはヤーナの頬に手を当てた。ヤーナはすがるようにソフィアの手を掴んだ。凍ったように冷たい。
「はあぁ……はっ、はっ……」
「目を閉じて、私の手の熱を追え。ゆっくり息を吸うんだ……そう、いいぞ。落ち着いたか」
ヤーナはうなずき、身震いした。
「蟲貌の夜魔が――屍装騎士が、来たんだな」
「わたし、はじめてで、怖くて……」
建物が、揺れた。魔法戦が繰り広げられているのだ。ヤーナは口元を手で抑え、背を丸めた。
螽兜は誰に対しても躊躇なく、人間離れした暴力を叩きつける。なによりも、螽の醜悪な模倣である仮面と鎧が、コザースク市民の集合的恐怖を掻き立てるのだ。
「団長。突入しますか」
イワンはモーニングスターを握りしめている。剛力のイワンに持たせれば、その使用をソフィアが制せねばならぬほどの武器となる。だが咎人狩りが相手となれば、棘だらけの鉄球も丸めた紙屑に等しい。
「コザースク司法騎士団こそは公国法の砦。黒髪団も屍装騎士も、法の前では等しく犯罪者だ。立て、貴様ら!」
ソフィアが声を張り上げた。昏倒し、螽の影に怯えていた団員たちは、しかし不屈の決意を瞳に宿して立ち上がった。
「子供たちを救い、無法者を鎖で繋ぐ! 総員抜剣!」
鞘鳴りの音を立てて抜かれた直剣が、銅い月の下で冴えて輝く。ソフィアは剣を高く振り上げ、廃墟の入り口めがけて振り下ろした。
「突入! 行けぇーええええ!?」
「わあああああ!」
ぼろぼろの扉が内側から裂け、一かたまりになった子供たちが、階段を落ちる樽のように転げまわりながら飛び出してきた。
「な……な……?」
「ソーニャ! ソフィア・イワノヴナ!」
かたまりから這い出したリリャが、唖然とするソフィアに駆け寄った。
「リリャか! よかった、生きていたんだな!」
片膝をついたソフィアが、両手を大きく広げる。リリャは少し照れてから、おずおずとソフィアの抱擁を受けた。
「ワルワーラは……そうか、よくがんばったな、リリャ。よくやった。よく、生きていてくれた」
抱きしめるソフィアの、鎧の向こうにある温かさをリリャは感じる。力が抜けそうだった。泣きわめいて甘えたかった。ワルワーラの死を悼んでもらいたかった。だがリリャの祭壇にはもう炎が灯されていた。彼女は誓いと呪いの火の司祭であることを自らに課したのだ。
「屍装騎士が、助けてくれたんです」
リリャがその名を口にすると、ソフィアの身体がかすかに揺れた。強く抑制された感情が、わずかに漏れ出したのだとリリャは感じる。
探らねばならない。司法騎士団が螽兜と、どのように結んでいるのか。絵解かねばならない。コザースクを綾なす感情と利害の綴織を。
「……そうか。だが、リリャ。あなたは決して、あの夜魔に心許してはいけない」
「殺すから、ですか?」
「裁くからだ」
ソフィアはリリャから離れた。
「最後に立っているのが黒髪団であれ屍装騎士であれ、それが我らの、公国法の敵だ。リリャ、人には人を裁けない。ただ法だけが、人を裁くのだ」
両親は無思慮な偏見に曝され、最後には殺された。父が何をした? 異臭を放つ工場で、ニシンを煮て油を搾っていただけだ。母が何をした? 移民仲間相手のつくろいもので日銭を得ていただけだ。どこに殺される道理があった!
孤児院への補助金は気まぐれに削られ、やがて打ち切られた。法は一度たりともリリャを救わなかった。ソバすらろくに育たない故郷で死ぬのが正しかったのか? 互いの陣営が家に火をつけあい、井戸に毒を投げ込みあい、畑に塩を撒きあうような土地で、誇りだけを食べて?
それが正しい裁きであるのなら、ばかげた正当性もまた、呪いの火に捧げる慨嘆と憤激の薪でしかないのだ。
怒りがリリャの口から言葉の奔流となって飛び出しかけた。
だが感情はたちまち、強い魔力の流れと不快な金属音に霧消した。
あらゆることが、同時に起きる。
窓をぶち破って、ワルワーラを抱いた螽兜が飛び出した。
東の空に円錐状の雲が湧いた。
突風と衝撃がひとびとを打ち倒した。
着地した螽兜の背後で建物の上階部分が吹っ飛び、砕けた木材が高速で飛散した。
リリャは、見た。
誰もが地面に伏して呻く中、突として撒き散らされた暴威に、螽兜だけが敢然と立ち向かっていた。
ワルワーラを抱いたままで骨の戦棍を力強く揮い、飛散物から人々を護っていた。
孤児も司法騎士団も遺体も例外なく、傷つけさせまいと。
梁だったものが、回転しながら螽兜に迫った。避けきれぬと見た螽兜は、ワルワーラを抱きしめ、飛来する質量に背を向けた。
脊椎に直撃を受けた螽兜は、内臓を吐き出すような異音を漏らして膝をついた。
まったく無意味に傷を負っただけだった。ワルワーラはもう死んでいる。
それでも螽兜は、ワルワーラを護ろうとしたのだ。
ただ一人で、名も知らぬ少女を。
螽兜はほとんど這うような歩き方でリリャに近寄った。ワルワーラの遺体を、そっと地面に横たえた。
「ちょっと待たせちゃったかな? でも安心して。死んだほうがましだって何度も思わせてから殺したよ」
リリャは泣きながら笑った。
「やあ、ソフィア・イワノヴナ」
「なんだ、通り魔」
頭を押さえながら立ち上がったソフィアが、螽兜を睨む。
「実は今のぼくは、すごく疲れているんだ。邸宅法廷に連れていくなら良い機会だよ」
ソフィアは鼻を鳴らした。それどころか、わずかに笑みさえ浮かべた。ほんの一瞬のことだったが、たしかにリリャは、見た。
「おまえのようなごろつきに構っていられるか。子供たちの保護が最優先だ」
「それなら、はやめに撤収するべきだね」
螽兜はウォードクラブを握りなおし、崩壊した建造物に向き合った。
やがて埃と暗闇の中から、人影が姿を現した。
「こんばんは。君が黒髪団のボスかい?」
まだ相手が闇の中の影である内に、螽兜は声をかけた。影は答えず、歩み出た。
「へェー? アンタが屍装騎士? 意外に弱そうじゃん」
丸坊主の若者である。コートのポケットに手を突っ込み、どこか垢ぬけた雰囲気がある。
「ぼくは昨日から今日にかけて、君の手下を六人殺したよ。ところで、部下の質は上司の質に直結するっていうのが父の口癖だった」
「フはっ! すっげ。ホントにめちゃくちゃ減らず口じゃん。へェー。なんか感動だわ。ホントにそうなんだなーって思ったわ今」
男は挑発するように笑った。
「ヴィセーリツスクのちんぴらにまで名前が通っているとは光栄だよ、ガヴリラ・イワノヴィチ・ラドムスキー。ガーニャと呼んでも?」
驚いたのは、名を呼ばれた若者ばかりではない。司法騎士団員たちもまた、面食らっていた。
「〝脂喰い”のガヴリラ……」
ソフィアは息を呑んだ。脂喰いのガヴリラ・ラドムスキーと言えば、首都ヴィセーリツスクに恐怖を振りまいた冷酷無慙な猟奇殺人鬼であった。
ガヴリラは、太り肉の中年男性の、ざくろのように弾けた屍肉を偏愛する。階級も資産の多寡も関係なく、彼はヴィセーリツスクの男を殺して回った。その痕には、破壊された建物と損壊された死体があった。毀された死体の吐き気を催す有様ゆえに、ガヴリラは脂喰いと称されるようになったのだ。
ヴィセーリツスク司法騎士団とクリェートカ巡察騎士団の連携により捕えられたガヴリラが、北の牢獄から脱走したという話を、ソフィアはかつての同僚からの手紙で知った。その足跡がコザースク付近で途絶えたことも。
逃亡犯が、よもやごろつきの集まりの頭目と化しているとは。
「常日頃から、コザースク司法騎士団の動きには注意していてね。なにしろソフィア・イワノヴナはぼくを捕まえたくて仕方ないらしいから」
場を支配した螽兜が、悠々と語る。
「そんな彼らが、ガヴリラ・ラドムスキーを秘密裡に探しはじめた。いずれ会えるとは思っていたよ。どうだい、ガーニャ。こっちでは食べごろのおじさんをもう見つけた?」
「……フはっ」
ガヴリラは獣が牙を剥くように笑った。性的指向を嘲笑われた人間が普遍的に示す感情、それは凄まじい怒りだ。
「殺すわ、おまえのこと」
「よろしい。どちらが先に相手を殺せるか、競争になるね」
螽兜はウォードクラブをくるりと一回転した。
「さて……君の扉を、こじ開けるよ」
ガヴリラが突っかかった。両腕を畳んで拳を握り、前傾姿勢で踏み込む。ウォードクラブの突きを潜り、低姿勢から良く伸びる右フックを放る。屍装鎧の上から衝撃が透り、裂けかけの肋骨を軋ませる。
仮面の下で激痛に顔を歪ませながら、螽兜は狼爪の裂くような掻き下ろしで応戦。ガヴリラは上体を反らして掻き裂きを避けながら前蹴り。爪先を螽兜の鳩尾に突き入れる。
屍装鎧の上から効かせる打撃である。ガヴリラが戦場魔法拳法を習得しているのは間違いのないことであった。
矢尽き刀折れた戦場にて生き残るための徒手格闘術。魔力によって身体能力を引き上げるバフは、戦場魔法拳法のどの流派においても基本の技とされている。突き、蹴り共に未熟な打ち込みは、独学ゆえのものか。それでも、屍装鎧に身体を蝕まれた螽兜には充分であった。
螽兜はウォードクラブを放り捨て、自らも戦場魔法拳法の一流派、ゴラーヤルカにおける構えを取った。眼前に拳を掲げ、やや後背し後ろ足に七分の体重を乗せる。ゴラーヤルカは威を乗せた左の蹴り技での必殺を旨をする。ここにも、屍装騎士の短期即殺思想が現れていた。
「おらッ!」
ガヴリラの右ローキック。持ち上げた脚で受け、被害を最小限に抑える。意外な手応えの無さに苛立ったのか、ガヴリラは右ローを連発した。受け切る。四度目に、右のミドルキックが来た。最小限の歩幅でバックステップ、避ける。
螽兜は無理に攻めない。構えを崩さず、ガヴリラの周囲をゆっくりと回った。
愚かな快楽殺人鬼は、一つの致命的なミスを犯した。魔法の誇示だ。
〝月の海の子どもたち”院を、今また黒髪団の塒を破壊した一撃鏖殺の音速撃。この魔法には、急駛の名がふさわしかろう。
急駛こそがガヴリロの武器にして最大の急所である。音速撃の攻略さえ為れば、ガヴリラを殺せる。そして螽兜にはその手立てがあった。
「ガーニャ! どうしたんだい? ぼくは君の好みではない?」
故に、螽兜は誘う。ガヴリラが魔法を放つその瞬間を。醜悪な犯罪者は、自らの速度によって無様に絶命するであろう……!
「フはっ」
ガヴリラは哂う。攻め気を見せたかと思えば、一転、螽兜に付き合ってじりじりとすり足で動く。
螽兜は踏み込んで牽制の左ローキックを射出した。ガヴリラは大きく飛びのき、踏み込んで左のジャブを打った。小刻みに突かれる拳の一つ一つを、螽兜は左拳で叩き落としていく。
連星のような円運動が、やや続いた。打っては離れが繰り返された。
均衡が、破られる。
ガヴリラが長射程の右回し蹴りを放つ。螽兜はスウェイで回避。ガヴリラの体がくるりと一回転し、鋭い左後ろ回し蹴りがバネじかけのように放たれた。鉈のような踵が螽兜の脇腹に深く突き刺さる。肋骨の割れる音を螽兜は聞く。が、この一撃は貰うつもりだった。螽兜は右肘を突き下ろし、左膝を突き上げた。ガヴリラの脚は今や竜の顎に挟まれた無力な贄! 食い千切る!
確かに、読み勝った筈であった。踵が脇腹に埋め込まれるのと、足首を挟み砕くのと、それは同時に遂行された筈であった。
だが、肘は膝を、膝は肘を打っていた。鱗を持たぬ魚のように、ガヴリラの足首がぬるりと滑ったのだ。
一瞬の困惑を断ち切ると、眼前にガヴリラの分厚い右拳があった。咄嗟に差し入れた掌ごと顔面を強く打たれ、螽兜はよろめいた。身体反射のみで繰り出した左ローキックがガヴリラの膝裏を捉え――ずるりと、滑った。
「魔法……」
リザヴェータの渺鎧に似た、防御の魔法であろうか? 攻撃を寄せつけぬ、魔力の膜のようなものを螽兜は感じる。撥無とでも呼称すべき魔法を、ガヴリラが有している?
一人の者に魔法は一つ。急駛と撥無、二つの魔法を持ち合わせているなど、あり得ないと断じて構わないほど確率の低い事象であった。疑惑と混乱は、一度植え付けられれば思考の一部を陣取る。螽兜の注意力が、ごくわずかに奪われる。
そのごく僅かの効果を、ガヴリラは待ち受けていたのだ。
不意にガヴリラが身を低くし、両の腕を眼前で交差した。急駛が、一撃鏖殺の音速撃が来るのだと、直感的に理解した。発動までに最低でも0.3秒。これほどの隙があれば、避けるのは容易だ。
だが螽兜は深く腰を沈めた。受けるのだ! 受け切って、衝撃を自らの裡に留めるつもりなのだ! 何の故に!? そう、螽兜の背後には、子供たちが、司法騎士団がいる! この状況に追い込むことこそガヴリラの狙い! 読み勝ったのは、脂喰いであった!
「よし、おいで」
それでも螽兜は、両腕を大きく広げて強がった。
ぎぃぃぃいいいいいいいイイイイ――
奇妙な音だった。乾いた破裂音の後、金属を引っ掻くような不快な響き。
衝撃が襲った。
幾つかの骨が裂け、砕けた。筋肉が凄まじい勢いで断裂し、加熱し、融解した。急駛の一撃は致命的な暴力として螽兜の体を破壊しにかかった。
高速飛翔体と化したガヴリラを受け止め、踵で石畳を砕きながら後退しているのだと、螽兜は遅れて理解した。
抱え込んだガヴリラの体を、力づくで地面に叩きつける。ガヴリラの体はぬるりと地上を滑り、螽兜から離れていった。
螽兜は膝をついた。いま感じているものが痛みなのか熱なのか冷感なのか、分からなかった。それほどの威力だった。
「フはっ! すっげ! 腕折れちまった!」
顔に脂汗を浮かべながら、ガヴリラが笑う。
「で? ウソだろコイツ、まだ立つのかよ。やべえな屍装騎士」
「約束……したろ? どっちが先に殺せるか……競争、だって」
仮面の内側に吐血の華を咲かせ、螽兜は相手に見えぬ笑顔を作った。
「落ち込むわ。俺これで殺せなかったことねえんだけどな」
「ぼくも、まだ君が生きて動いていることが残念でならないよ」
「フはっ」
ガヴリラは哂った。
「俺は失敗した。アンタはガキを守った。もう戦う理由ねえな?」
「君がどう思おうと、ぼくは君を殺すよ」
「すげーなアンタ」
再びガヴリラは深く腰を落とし、腕を眼前で交差した。次の一撃、螽兜は間違いなく絶命するだろう。
「じゃーな。次は殺すわ」
石畳を砕いて、ガヴリラの体が跳ねる。斜めに打ちあがった肉体は、衝撃波を後に残して西へと飛び去っていった。
潮っぽい夜風が破壊の現場に寂幕を連れて来た。多くの悲惨と死が突然の裡に断ち切られ、ただ一人を除いて、誰もが言葉を失っていた。
「参ったね。久しぶりに後れを取った」
よろめきながら、螽兜は西の空を見上げた。蟲貌の視線がわずかにさまよい、リリャをかすめた。ワルワーラの屍を抱いて、リリャは意志を込め、螽兜を観返した。
「すこし休んだら、ガヴリラを殺しに行くよ。約束したからね」
「かわりに、ころす……」
うなずいた螽兜は、手首をスナップして蚕糸を射出、建造物の屋根飾りに絡めて巻き上げた。マントがはためき、咎人狩りの姿は夜闇に飲み込まれた。
リリャはふらふらと立ち上がった。歩きだした。
「リリャ?」
ソフィアが名を呼ぶ。リリャは歩く。背後には庇護と安寧と弔慰と共感があった。進む先には死と荒廃と隔絶があった。
「ソーニャ。みんなを、それから……ワリューシャを、お願いします」
ひとたび殺意を抱いた人間にとって、春は、あたたかな庇護の下に無い。ただ殺すことと殺さないことの間に横たわる冬を越えた者のみが、至るのだ。
リリャはまっすぐに歩き、
「うひゃ!」
二歩目でつまづいた。足元を、螽の幼体がちょろちょろと這っているのだ。
「え、え? なんですか?」
螽はリリャの脚を登ろうとしてひっくり返り、歩脚をばたつかせた。リリャは苦笑して、螽を抱き上げた。するとこの恐るべき魔物は、甘えるような響きで関節を鳴らしたのだった。
「そっか。あなたも、奪われたんですね」
リリャは螽のごつごつした斑の表皮を撫でた。螽は歩脚をリリャの服に突き立て、かき寄せた布に頭部を突っ込んだ。暗闇にやさしさを求めるように。