屍装騎士⑤
コザースク司法騎士団長ソフィア・イワノヴナ・ロマノヴァは、捜査線上にとある組織を浮かび上がらせた。
重犯罪都市コザースクでは幾つもの犯罪組織が鎬を削っており、司法騎士団はリソースの多くをそうした団体の監視に振り向けていた。
その内の一つが、黒髪団の不審な動きを捉えた――正確な表現ではない。黒髪団についていた団員の死体が、夜のコザースク河に浮かんだのだ。
〝月の海の子どもたち”院の調査に当たっていたソフィアは、その情報を孤児院襲撃事件と結びつけた。ことを起こそうとした黒髪団が、邪魔な司法騎士団員を排除したのだろう。それは単なる直感だったが、捜査を進めていく内に裏付けられた。
環状運河の最外縁、コザースク河に面した廃墟はかつてチョウザメの集積場だった。だが、河を堰き止めたことで産卵のための遡上が不可能となり、ユーク海のチョウザメは絶滅した。
高い天井の、だだっぴろい建物だった。取り壊しの予算が付かず、パレットや木箱、小舟などが放置されている。割れた石畳から葺いた草は枯れ果て、ソフィアに踏まれると侘しくかさかさ鳴った。
ソフィアは団員に案内され、それを見た。
封をされた木箱の蓋を、バールでこじあける。箱いっぱいに詰められたおがくずの中から、紐でぐるぐる巻きにされた一匹の小さな魔物が顔を出した。それを見た瞬間、ユーリは嘔吐した。
「螽の幼体か」
ソフィアは集合記憶的な恐怖に身を震わせた。彼女自身は首都ヴィセーリツスクの出で、螽の大行進を一度しか経験していない。その一度で、生涯に及ぶ心的外傷を抱くには十分だった。
小山か丘にしか見えぬ巨大な魔物が動き出すとき、最初にコザースクを襲うのは津波だった。瓦礫や木々と共に押し寄せる黒い水は、行き先にあるもの全てを砕き、飲み込む。水面では廃油が燃える。
更地となったコザースクに、螽が上陸する。関節を軋ませ、歩脚を波打たせて。
ソフィアは、この激甚螽害対応に当たった時の記憶がほとんど残っていない。あまりにも辛く、あまりにもめまぐるしく、あまりにも人が死にすぎた。
だが螽害は、見方を変えれば商売の機でもあった。螽は移動しながら、卵を産み落としていく。たいていは恨みを持った住民に叩き潰されるが、残されたものを持ち帰って無事に孵化せしめれば、好事家が信じられぬほどの高値で買い取る。コザースクから離れれば離れるほど幼体の価値は上がり、首都ヴィセーリツスクでは一時、投機対象ともなった。
コザースクでは、有精卵を所持している者、飼育している者、生体移動に関与した者を問答無用で監獄にぶち込んでいる。最長で六百年の禁固刑だ。生きて陽の光を浴びることは二度と無い。
「うえっ、最悪、最悪でしょ、これ。なんで、こんなモンが」
ユーリはえづきながらも憤りをあらわにした。
「考えられない。なぜ黒髪団が?」
「いや、ほんと最悪です。こんなの……コザースク人のやることじゃないでしょ」
「そうでもあるが、螽の幼体は値打ちものだ。無能な無職の寄せ集めが仕入れられるものではない」
「しかも、一匹二匹の話じゃないスからね」
集積場を一回りしたチモフェイが戻ってきた。
「ここだけで六匹スよ。連中、ヴィセーリツスクにでっかい家でも建てるつもりなんスかね」
もとより黒髪団は、掃いて捨てるほど存在する犯罪集団のうち、ほとんど無視しても差し支えないような規模の組織だった。クリェートカ大公国でも群を抜いて失業率の高いコザースクの若者は、たやすく過激思想に染まる。若さと貧しさが結びついたとき、破壊的な怒りが生じるものだ。そしてコザースク司法騎士団の人員と予算は限られている。
つまり黒髪団の散発的な移民殺しは、相対的に言ってたいした犯罪行為ではなかったのだ。ゆえに、監視も薄かった。だから簡単に出し抜かれ、螽の保有を許してしまった。
裏で絵を描いた者がいる。そいつはコザースク行政に精通し、どうすれば司法騎士団の目を盗めるのか熟知している。
「どうするつもりなんスかね、連中は」
コザースクの闇の奥で、邪悪な何かが蠢動している。ごくまともな司法騎士団員であれば、死んでいようと生きていようと誰も困らない孤児たちの捜索ではなく、この大規模組織犯罪の追及に人員を投入するであろう。そしてソフィアは、これまで一度もまともな司法騎士団員ではなかった。
「今なによりも重要なのは、攫われた孤児たちの行方だ。この件に関しては、連中を鎖で繋いでからじっくりと聞いてやる」
司法騎士団長は、引き続き地道な捜査を続けることを躊躇なく決めた。
「ユーリ、チモフェイ。全個体を押収しておけ。私は一度戻ってイワンたちと合流し、孤児の捜索に当たる」
「えっえっ、すげーいやなんですけど……あああすみません! すんませんっした! やります! やりますから!」
「集めて、どうするんスか? ヴァシーリー様にでも献上します?」
「いまさら市長の機嫌を取ったところで予算は増えん。そうだな……慣例で言えば、焼却処分だ」
ソフィアはおがくずの中でもがく螽をじっと見つめた。紐で縛られた魔物にできるのは、関節をこすり合わせて威嚇音を放つことだけであった。ソフィアは目を伏せた。
「すまない。お前たちは、何も悪くないんだ」
謝罪の言葉に意味など無い。それでもソフィアは口に出した。そして廃墟を後にした。
邸宅法廷に戻ったソフィアは、待ちかねた様子のイワンに出迎えられた。短躯の誠実な団員は、夜風が吹き付ける中、彼女の帰りを門の外で待っていたのだ。
「団長! 環状運河の端ですぜ!」
イワンは馬上のソフィアに駆け寄りながら叫んだ。時にイワンは、急ぎすぎるあまり端的すぎる話し方をする。ソフィアは頷き、続きを促した。
「ニシンの荷卸しをやってる連中に当たったんでさあ! 寒い時分にやりゃあ凍ったまま運べるってんで、あの連中は夜中に働くんです。夜鷹の姉ちゃんも協力してくれやした。怪しい動きがあった廃墟を、三つにまで絞り込んでやす」
「それぞれに人は付けたんだな」
「へい。非番の連中を叩き起こしやした。クズどもをぶちのめせるってんで、みぃんな今か今かと待ってやすぜ」
「よくやった、イワン。急ぐぞ」
「へい、団長!」
焼け落ちた孤児院の中に、見知った顔の死体は無かった。
「リリャ、ワルワーラ……待っていろ。必ず助ける」
凍り付いた夜の路地、嚇怒と確信に満ちたソフィアを乗せ、白馬が駆ける。
◇
火が消えて、ひと塊の影となったアントンが孤児たちの前に在る。
「殺す。うすぎたねえ腐れ移民頭に螽をねじ込んで脳をグチャグチャにしてやる」
リリャは死をもたらす闇から目を反らさなかった。怒りをこめて殺意と相対した。そうしながら、手で探った。火かき棒が、この近くにあるはずだった。
冷たい金属に、指先が触れた。握ろうとした手に、しかし、あたたかいものがかぶさった。
「リリャ」
ささやき声が背中越しの暗がりから聞こえた。ワルワーラの声だった。
「はい、ワリューシャ」
立ち上がったワルワーラが、火かき棒を手に走り出した。アントンが手を伸ばし、ワルワーラに掴みかかろうとする。リリャはアントンが歩き出した瞬間、軸足に飛びついた。
アントンの体がわずかに揺れて、それで十分だった。ワルワーラはアントンの横を駆け抜けると、ドアノブめがけて火かき棒を振り下ろした。ノブはたやすくへし折れた、気圧差が風を呼び込み、扉が内側に向かってゆっくりと開く。ワルワーラはわずかな隙間に指をこじ入れ、扉を開こうと――
その体が、跳ねた。
火かき棒が手から滑り落ちた。ワルワーラの足は前後も左右もばらばらな数歩を歩み、その体がどさっと床に落ちた。穴の開いた首から、血が噴き出した。
「あっぶな、危なかったぁ……」
安堵の息を漏らすのは、ヴェルホーヴェンスキーだった。彼の手には、たった今ワルワーラの首筋に突き立てられたナイフが握られている。
「いや、間に合ってよかったよ、ほんと。ときどきすごいんだよな俺って」
興奮から早口になったヴェルホーヴェンスキーは、ワルワーラの死体を無造作に担ぎ上げ、部屋の隅に放った。仰天した螽の幼体が、壁やひっくり返ったテーブルに何度もぶつかりながらちょろちょろし、リリャの足元で止まって歩脚を波打たせた。
リリャは静かに呼吸をしていた。自分が、そうするつもりだった。鍵を壊してこの場から逃げ出し、司法騎士団を呼ぶつもりだった。十中八九は死ぬだろうとも分かっていた。
ワリューシャはリリャの意を汲んで、代わりに、そうした。だから、死んだ。
直視しろ。
祈るな。
怒りをくべて、憎悪を燃やせ。
死を薪にして、呪いで心を焼け。
殺す。
この連中を、殺す。
「何はともあれ、これで状況は落ち着いたわね。仕事よ、仕事」
リザヴェータが、アントンが、ヴェルホーヴェンスキーが、孤児たちに迫る。怯えた螽が、きいきいと鳴いている。リリャはその背を、思わず撫でている……
卒然! 部屋に投げ込まれた物体が窓ガラスを粉々に砕き散らした!
誰もが一斉に、投げ込まれたものを注視した。
リリャにも見覚えのある頭部だった。
「ヒッ!? シガリョフ!?」
ヴェルホーヴェンスキーが悲鳴を上げる。
孤児たちを攫った五人のうち、一人の男の生首だった。
鈍い刃物でゆっくりと引き裂かれたらしいずたずたの断面が、黒髪団の方を向いていた。
「アントン! ヴェルホーヴェンスキー!」
リザヴェータが叫んだ。アントンが窓を、ヴェルホーヴェンスキーが扉を向いた。恐怖と警戒。部屋の空気が張り詰める。
三十秒――六十秒――何も起こらない。浅く乱れた呼吸音だけが闇に響く。
それは、古い建物の喘ぎだったのか、梁に住み着く生き物が立てたのか。天井からぎしっと音が聞こえ、黒髪団はとっさに上を向き、床板が裂けて尋常ならざる禍々しさの腕が突き出した!
「ひィいいいいッ!?」
腕はヴェルホーヴェンスキーの右足を掴むと、裂けた床板に引き込んだ。リザヴェータとアントンが駆け寄り、ヴェルホーヴェンスキーの肩を掴んで引っ張り上げようとする。
「たっ、助け、いぎっ、ぎぃいいいいいッ!」
ヴェルホーヴェンスキーは絶叫した。階下、床板を伝わって、奇妙な音がする。肉で挟んだ木材を、鋸で挽くかのような異音……!
「あああああっ、早く、早ぐぅうう! なくなる、俺の、なくなっ、俺のがあああっ!」
アントンとリザヴェータは渾身の力でヴェルホーヴェンスキーを引く。ぴくりとも動かない。凄まじい膂力がヴェルホーヴェンスキーの肉体を逃がさない。
「あ」
怖気を震う怪音とヴェルホーヴェンスキーの悲鳴が、ぴたりとやんだ。その途端に抵抗が失せ、ヴェルホーヴェンスキーの体がすっぽ抜けた。黒髪団の三人は、もつれあって後ろに倒れた。
「ちょっと、大丈夫なの!? ヴェル……」
リザヴェータは絶句した。
ヴェルホーヴェンスキーの右足は、太腿の半ばから切り離されていた。鼓動に合わせた出血が、あっという間に弱まっていった。アントンとリザヴェータは、自失したままヴェルホーヴェンスキーを看取った。
「なに……なんなの、これ……」
血に濡れた髪をかきあげて、リザヴェータがうめく。
「やつだ」
アントンが吐息と共に声を漏らした。
「やつが、来たんだ。蟲貌の夜魔が……! 咎人狩りが……!」
ぎぃいいいい。
不吉な音を立てて、扉が内側に開いた。アントンとリザヴェータは死体を放り捨て、立ち上がった。
「ロジオン?」
アントンは警戒を緩めず、とば口に立つ男の名を呼んだ。孤児を攫った黒髪団の、最後の一人であった。
「何をしている。おまえ、見張りはどうした」
と、ロジオンがアントンに飛びかかった――否! ロジオンの手足は慣性に置き去られ、後方へと無意思になびいている! 即ち、何者かがロジオンの屍をアントンめがけて投擲したのだ!
「くそっ!」
死体に飛びつかれたアントンは、しかし重さに耐え、踏みとどまった。絡みつく手足を振りほどこうともがき、
ぞん。
奇妙な音を立てて、なにかがアントンの首筋に食い込んだ。
「えっ? あっ?」
くすんで光る薄い鉄刃。
リリャはその刃物を見たことがあった。父と向かった市場で、肉屋が手にしているのを見たことがあった。
だからリリャは、それを……片刃の骨切鋸を、見たことがあった。
び、ぢ、ぢ、ぢ、ぢ。刃がゆっくりと挽かれた。ぎざつく鉄の歯がアントンの血肉を掻き裂き、頸動脈に肉薄した。
「いっぎっ、ひっ、ひっ、ひぃいいいいいッ!」
鋸歯は一往復で血管を挽き切った。首から血が噴き出し、アントンはロジオンの死体ごと横転した。
そしてそこに、彼が立っていた。
長いくせ毛は真っ黒で、瞳も黒い。ひざ丈のインバネスも細身のパンツも、柔らかそうな革のブーツも黒い。
黒ずくめの男は、垂れ目でリリャの橙眼を覗きこんだ。
それから、にっこり笑った。
「ここだと思ったよ。なにか燃えているのが、窓から見えたんだ」
ちょっと考えて、スタヴローギンはこう付け加えた。
「鍵も壊れていたから、すんなり入れたしね」
笑顔をリリャに向けたまま、スタヴローギンは骨切鋸を放った。喉に刃が突き刺さったリザヴェータは壁まで吹っ飛び、物言わず倒れた。
スタヴローギンは部屋をぐるっと見まわし、その視線がワルワーラのところで止まった。後悔とも怒りとも哀しみとも取れる表情。だがスタヴローギンはすぐにやわらかな笑顔をリリャに向けたのだった。
「昼間は言いすぎたと思ってさ。お詫びの品……っていうわけじゃないんだけど、謝意の表れに、これ受け取ってほしくて」
スタヴローギンはリリャの前にしゃがんで、インバネスから<<めのう>>のバレッタを取り出した。両手に乗せて、冗談めかしたうやうやしさで差し出す。
「ニコライ・ドミートリエヴィチ……」
安堵が、感謝が、怒りが、哀しみが、涙となって下瞼の堰を切ろうとする。リリャは強く目を閉じる。ぜんぶ、違う。ワリューシャが死んでしまったと泣きつくことも、どうしてもっと早く来てくれなかったのかと憤ることも、無力な自分に差し伸べられた救いの手を考えなしにつかむことも、ぜんぶ、リリャの怒りを、殺意を、憎悪を、薄めてしまう。
リリャは目を開く。バレッタを受け取ろうと手を伸ばし、その中途で、息を呑む。
魔力が、流れている。
「まだ生きてます!」
スタヴローギンが飛びのいて、骨切鋸が空を切った。
「けほっ、げほっ……ああもう最悪……みんな殺されちゃったし」
リザヴェータだった。喉を押さえ、むせている。
「おかしいな。死んだと思ったのに」
「そりゃ……悪いことしたわね」
「うれしいよ。君のことをもう少しいたぶれるなんて」
「最悪。反吐が出る。アンタ、篤志家のスタヴローギンでしょ?」
リザヴェータは嫌悪をむき出しにして、骨切鋸を構えた。
「そういう男だったなんてね。見る目変わっちゃうわ」
「まいったな、誤解されてしまったみたいだ。ぼくは君たちをとことん追い詰め、なるべく苦しめてから、考えつく限りもっとも残酷なやり方で殺したいだけなんだよ。性別や年齢がどうあれね」
引きつり笑いを浮かべ、リザヴェータはスタヴローギンと相対する。
「魔法です! 身を護るようにまとわりついているんです!」
リリャの慧眼は、骨切鋸からリザヴェータを守った魔法について感得した。
「チッ……クソガキ」
「非常に重要な戦術的情報だよ、ありがとう。リリャ、君は子供たちを連れて逃げるんだ。今日のところは、代わりにぼくが殺しておくから」
「あァ? できるとでも!?」
「公平な戦いをしようか、リーザ」
スタヴローギンは、鍵束から焼けた人骨の鍵を取った。手の中でくるりと一回転し、ベルトのバックルに差し込む。
「纏身」
ゆるく両腕を広げたスタヴローギンの肉体が、蔵置されていたそれに呑み込まれる。
風にはためくマントの下には、魔物の筋皮を継ぎ接いだ、斑の全身鎧。
頭の流れに沿って、焼銅の触角。触角と一体化したフェイスグリルの奥、相互理解を絶対的に拒む螽の複眼。
腰に巻かれたベルトには、鍵束。じゃらり、じゃらりと音を立てる金属に交じって、特異な数本。焼け焦げた人骨を削り出したもの。
棍棒には、ウォード錠に似た二枚の刃翼。
「アンタだったのね」
重犯罪都市コザースクには、化生の噂がある。
塩混じりの黄砂が月を銅く染める夜に現れる、蟲貌の夜魔……人はそれを、悪霊と、〝螽”の化身と、咎人狩りと、あるいは――
「最悪だわ……屍装騎士、螽兜」
――あるいは、屍装騎士と呼んだ!