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屍装騎士③

 刃翼を生やした棍棒を、スタヴローギンは――螽兜(しゅうと)は、くるりと一回転した。幾多の街路に数多の命を砕き散らした、これが! これこそが! 死の扉を開く鍵! 屍操騎士(アームドライダー)螽兜の絶対撲殺打撃武装、ウォードクラブである!


「さて……君の扉を、こじ開けるよ」

「あ――」


 まばたきすら挟む余地なき僅かな時間で、螽兜はレオニードの眼前に移動していた! ウォードクラブの一振りでレオニードの両足を刈る振り払い! 直撃を受けた左腓骨がへし折れ、腓腹(ふくらはぎ)から突き出す! 勢い止まらずレオニードはその場で腹と背中を結んだ軸に対して高速自転開始!

 レオニードの腹めがけ、螽兜はウォードクラブをまっすぐに突き込んだ。未だ自転止まらぬレオニードの汚いコートが、刃翼に巻き付く。螽兜はレオニードごとウォードクラブを高く掲げ、振り下ろした。レオニードの身体は地面に強く叩きつけられた。


「くっぐっ、があああッ!」


 反撃の魔銛、射出! 螽兜はバックジャンプで数メートル後退――その距離こそが魔銛(マセン)死地(キリングフィールド)! 片膝立ちのレオニード、魔銛による飽和攻撃敢行! 一撃ごとに射撃反動で後退し、飛び出した左腓骨が肉を引き裂いていく!


「これは……ちょっと厄介だね」


 絶え間ない連射の一つ一つをウォードクラブで弾きながら、螽兜は左腕をレオニードめがけ突き出し、手首をスナップした。直後、素早く腕を畳む。


「ぎッ!?」


 レオニードが、なにかに引っ張られたように受け身も取れず倒れる。


蚕糸(シェルク)


 螽兜の左手首には、山繭蛾(ヤママユガ)型魔物の絹糸腺(けんしせん)吐糸口(としこう)が埋め込まれている。一日に八グラムのみ精製される絹蛋白質を、吐糸口より高圧で射出! 張力五百キロ、断面直径コンマゼロゼロ二ミリメートル! 絶対不可視の、これが! これこそが! 屍装騎士螽兜の狡猾武装、蚕糸であった!


 螽兜が左腕を振り上げた。レオニードの胴に巻き付いた蚕糸は螽兜の力を容易に伝達! 哀れなる魔銛つかいの体が宙に浮く!

 再度の左手首スナップにより、糸が巻き取られる。浮塵子(ウンカ)型魔物の脚部に存在する歯車状機構を仕込んだ巻き上げ装置だ! これにより、レオニードの肉体が螽兜めがけて急速接近!


 ウォードクラブを放り捨て、螽兜は右拳を強く握り込んだ。手の甲から五本の鉤爪が飛び出す。狼爪(ヴォールク)! 狼型魔物の残虐爪撃(そうげき)を可能とする超近接格闘武装!


 蚕糸の巻き上げと右拳の一撃! 尋常ならざる相対速度でレオニードと狼爪が激突! 五本の爪がレオニードの(ろく)を容易く砕き、肺腑(はいふ)に達した!

 狼爪が、黒い血の尾を曳きながら抜かれる。レオニードは声も上げずその場に倒れ伏した。螽兜はレオニードの髪を掴み、引きずり起こした。


「さあ、ほら、立って。立つんだ、レーシャ」

「ぐ、あ、うう……」

「いや、やっぱり座っていた方が楽かな」


 髪を掴んだまま、レオニードの顔面を地面に叩きつける。衝撃に、レオニードの手足がびくんと跳ねた。リリャは顔を背けた。


「いいかい、レーシャ。最初にいくつか前提を共有しよう」


 螽兜がレオニードをレーシャと愛称で呼ぶ声は、身内のように甘ったるい。


「まず一つ」


 ウォードクラブの一撃が、レオニードの右腕肘関節を焼き菓子のように砕いた。


「がああああああッ!」

「これで君はもう魔法を使えないね、レーシャ。これが一つめだ」

「あああああっ! ああああっ、がっ、ひゅっ、ああああああッッ!」

「次に、ぼくがどうしてわざわざ生身の姿を晒すのか、ちょっと考えてもらいたいんだ。どうだい?」

「ぐぅううう、い、痛い、痛いぃいいっ!」

「よろしい。その通り、これは決意と覚悟の表れなんだよ、レーシャ。こうして屍装騎士の正体がばれてしまったからには、絶対にそいつを殺さなくちゃならない。つまり、君はあとちょっとで間違いなく死ぬ。これが二つめ」


 螽兜はへし折れた肘を爪先で蹴った。レオニードは掠れた悲鳴を上げた。


「よし、これが最後だ。君みたいに、ぼくの根城を襲ってくる連中は過去に何人もいた。今はみんなユーク海に沈んでるよ。なんでそうするかっていうと、手っ取りばやいからなんだ。君たちが誰かを殺したり犯したりする。ぼくは押っ取り刀で駆けつけて、君たちをしばく。それってお互い疲れない? ぼくと君とで完結した方がシンプルでいいよね」


 レオニードは答えない。ぐったりと横たわり、青ざめたくちびるから鋭く短く弱い呼気を吐いている。立て続けに刻まれた無数の外傷によるショック症状だ。


「さて、これで前提を共有できたね。それじゃあ質問に入ろう。君は一人で来たの? 仲間には知らせずに?」


 しばらく返事を待ってから、螽兜はウォードクラブでレオニードの頬を突いた。レオニードは怯えきった表情で何度もうなずいた。


「なるほど……そうか、レフ・ペトロフは言葉つかいだったっけ。どういう原理か分からないけど、君はレフの魔法を受け取り、襲撃者の正体を知った。そこの移民の女の子みたいに」


 ウォードクラブの先端がリリャを指す。リリャは小さく悲鳴をあげた。


「そして、一人で来たわけだ。黒髪団のだれにも知らせずに。もう少し考えるべきだったよ、レーシャ。移民に多額の寄付を繰り返す篤志家スタヴローギンは、黒髪団の獲物としてぴったりじゃないか」


 螽兜は首を振り、ため息をついてみせた。


「君たちは、移民とそれに与する者を誅殺するんだろう? コザースクのばかげた失業率は、綿モノカルチャー経済だからじゃなくて、移民のせい。行政が棄民同然の政治をしているのは、偉大なる第十六皇子が遊びほうけているからではなくて、移民のせい。犯罪率が高いのは、格差が解消されないのは、君が女を抱けないのは、ひとつ残らず移民のせい。違うかい?」


 レオニードの呼吸が浅く短くなっていく音を、螽兜はしばし聞いていた。やがて満足したようにうなずいた。


「リリャ、ちょっとこっちにおいで。さっきの話の続きをしよう」


 それは鋭い命令だった。リリャは一歩、進んだ。世界がぶにゃぶにゃした不定形のものに変じてしまったかのようで、足元がおぼつかなかった。視界が涙ににじんでいた。喉の奥、嘔気は巨塊のようだった。だがリリャは歩き、レオニードの前に立った。


「黒髪団は知っているね。移民をむやみに殺しまわる犯罪者だ。つまりレオニード・セルゲーヴィチは、君が殺すべき相手だ。そのうえ虫の息ときている。もしも君がぼくの相棒(ナバールニク)とやらになって世界中のろくでなしを殺し尽くしたいっていうのなら、はじめての相手にちょうどいいんじゃないかな」


 レオニードがリリャを見上げる。苦痛と恐怖が顔貌に深く刻んだ皺の谷を、涙が流れていく。荒い息と汗の臭いをリリャは感じる。


「貸してあげるよ」


 螽兜がウォードクラブの持ち手をリリャに差し出した。リリャは手を伸ばせなかった。ただレオニードの顔から目を離せなかった。いくらか後に自分が死んでいることを未だ呑み込めず、羽化しそこねた蝉が殻の中でもがくように体を震わせていた。


「よろしい。あのね、リリャ」


 ウォードクラブをくるりと一回転する。


「殺そうと思うことと殺すことの間には、冷たい冬があるんだ」


 振り上げる。振り下ろす。鍵穴に、合わない鍵を突き立てるように。

 刃翼が頭蓋に食い込む。雪崩れるように、髪が、皮膚が、骨が、内側へと落ちていく。灰色の柔らかいものがはじけて飛び散る。黄色い組織が、赤い液体が。内側から押し出された二つのまるいものが。

 

 数秒前まで人体の一部だったものが飛散し、リリャの頬に当たる。それはまだあたたかく、やわらかい。たちまちのうちに、冷たくなる。


 リリャは走った。悲鳴を上げて走り、門を越え、塩が噴く荒野に飛び出した。誰も追っては来ないことなど分かっているのに、立ち止まればなにかに追いつかれそうで、恐怖に追い立てられて走った。

 つまづいて、乾いた砂と塩を巻き上げながら転がって、つっぷした。塩と泥の味が口の中に拡がった。リリャは声を上げて泣いた。堅く握った拳を繰り返し地面に叩きつけた。

 

 ◇


 〝月の海のこどもたち”院は、塩の噴く荒野にぽつんと建っている。

 この辺りは、かつて内海の底だった。いま、海岸線はずっと遠くにある。綿畑の灌漑用水として、ユーク海に流れ込む大河をせき止めたせいだ。

 環状運河から弾き出されたひとびとは、荒野のあちこちにあばら屋を建て、孤立している。畑の一枚も起こせないような塩だらけの土地の夜、生活のかすかな火がまばらに点る。


 ひびだらけの暖炉(ペチカ)には生木が突っ込まれ、ゆがんだ鉄蓋から煙が漏れだしていた。酸化しきった魚油のオイルランプは、かぼそい炎と真っ黒な煙を立ち昇らせていた。

 子供たちも部屋も、例外なくひどい臭いがしていた。大人たちがいたころでさえ、蒸し風呂は十日に一度しか使えなかった。今となっては誰も風呂を焚こうとなど思っていない。いくら清潔にしようと、どのみち身にまとう衣服はぼろ布同然で、腐った脂のにおいがしていた。


「さあ、みんなあつまってください。今日も文字の勉強ですよ」


 孤児たちが身を寄せ合う一室の中心には、リリャがいた。ぼろぼろの本を床に広げている。父と母の死体を飲み込んだあの火事から、たったひとつ持ち出したものだ。表紙といくつかの頁は焦げている。


А(アー)Б(ベー)В(ヴェー)……ウルリカ、べーじゃなくてヴェーですよ。下くちびるをこう、ぎゅっと噛むんです」


 文字が読めるのはリリャだけだった。そしてコザースクでは、読み書きさえできれば仕事に困らない。


「ヴァシーリーのヴだよ。分かるかい? コザースクのいちばんえらい人さ」


 年長のワルワーラがリリャを補佐し、噛んで含めるように教える。彼女は煙ばかり吐くペチカに難儀しながら、料理を作っているところだった。

 うなぎの罠は空っぽだったが、鯉が二匹も獲れた。それをぶつ切りにして、塩味をつけた湯で煮た。アブラナの若葉も散らしてある。その日に採れたものをなんでもスープにして、孤児たちは食いつないでいた。


「ほら、ごはんにしよ。リリャ、本どけて」

「はーい! さ、みんなお行儀よくしてくださいね! えらい子には寝るときお話をしてあげます」


 リリャがぱんぱんと手を打てば、孤児たちはたちまち車座になる。欠けた器に、ワルワーラがスープを注いでいく。

 スプーンは無い。子供たちは汚い手指を椀に突っ込んで、鯉の身をつまむ。ここを出ていくとき、大人たちは価値のありそうなものを何もかも持ち去った。残されたのは煮炊き用の錆びた釜と壊れかけの食器だけだった。


 スープは塩と泥の味がした。鯉はひどく臭かった。誰も文句は言わなかった。泣き言はとっくに出尽くしていた。


 食事が終わったら、布団を敷く。綿はすっかりひしゃげていたが、床に横たわるよりすこしはましだった。

 オイルランプが消えて、ペチカの蓋の隙間からわずかな光が漏れる夜だった。頼りない炎の熱は這いよる冷気と隙間風に散らされて、子供たちは身を寄せあった。


「今日はね、地球のお話です。地球ってわかりますか? わたしたちが今いるところです」


 まっくらやみを見あげながら、リリャは話をはじめた。子供たちがみんな寝付くまで話をするのが、リリャの仕事だった。


「コザースクのこと?」

「いいえ、コザースクよりずっとおっきいんですよ、ロキ」

「わかった! クリェートカだ!」


 クリェートカ大公国の一地方行政区画がコザースクだ。なるほど、いい解釈だなとリリャは思って、微笑んだ。


「コザースクもクリェートカも、地球の上にあるんです。そして地球は宇宙の中にあって、くるくる回っているんです。だから、昼と夜があるんですよ。太陽に向いている方と、向いていない方がありますからね」


 リリャは腕を伸ばして、ひとさし指を回した。


「ずっと太陽の方にいたらずっと昼なんだね」

「そうですよ、ノエル。それに地球は、太陽のまわりをまわっているんです。太陽から遠くなったら春で、近くなったら冬です」

「わかった! ずっと春だ!」


 思ったことをそのまま口に出したような短絡的な言葉に、リリャは声をあげて笑う。


「きっとそうです、オンニ。春があるところあるところに向かって歩いていけば、きっとずっと春なんです」

「そっかあ。はやく春だといいな」

「そうですねえ」


 夜の寒さを思い出したのか、ちいさなオンニがくっついてきた。べとつく髪をなでながら、リリャはスタヴローギンの言葉を思い出した。思うことと殺すことの間にある冬のことを。その先には、春があるんだろうか?

 寄付について語ったときに見せた韜晦は、本物だった。本質的な優しさを不器用に覆い隠す、あれはスタヴローギンの本性だろう。そしてレオニードを躊躇なく殺してみせる屍装騎士(アームドライダー)の残虐性も、きっと本物なのだろう。その二つが簡単に両立するとは思えなかった。


「春かあ。おぼえてないや。おぼえてたいなあ」


 オンニはまだ四歳だ。物心ついたときには孤児院にいて、彼がおぼえているのは秋の冷たさと冬の寒さだけだった。


「すぐに春ですよ。そしたら、たくさん鯉を獲りましょう。えびもハクレンも。みんなで木を切って船をつくって、サメを釣るんです」

「サメが釣れたら、おぼえてるね」

「もちろん、ずーっと忘れません」


 コザースクの冬は長く冷たい。何人が生きて春を迎えられるだろうか。リリャはオンニを強く抱きしめた。オンニはくすくす笑いながら身をよじった。


「だからさ、どこにでも行けるんだよ、あたしたちは。春のあるところまでだって。地球は丸いんだろ、リリャ」


 ワルワーラの声はやわらかい。


「そうですよ、ワリューシャ。どこにだっていけます」


 リリャはワルワーラを愛称で呼んだ。闇の中から手が伸びてきて、リリャの指先に触れた。冷たくて、あたたかい。

 やがて子供たちが寝息を立てはじめた。ワルワーラが起き上がり、ペチカに薪を突っ込んで布団に戻った。リリャはワルワーラに抱きついて、耳を胸にぴったり当てた。


「あのね、ワリューシャ」

「うん」

「わたし、ニコライ・ドミートリエヴィチに会いに行きました。レフ・ペトロフ殺しの」


 息を呑む音。ワルワーラの鼓動が跳ねる。


「思い出しちゃったんです。お父さんとお母さんが殺されたこと。だから、わたしも……」

「リリャも、殺したかったんだね」

「ごめんなさい、ワーリャ」

「謝ることじゃないよ、リリャ。コザースクじゃ、誰でも誰かを殺したがってるんだからさ」

「ワリューシャも?」

「このワルワーラ・マクシヴォノヴァもさ。妹は首をくくっちまった。混血だからって理由でばかにされてね。両親はあたしを置いてユーク海の向こうに逃げた。ここの大人たちは、寄付されたお金も補助金も懐に入れていた。みんなまとめて(クーコルカ)のえさにしてやりたいよ」


 ワルワーラは冗談っぽく言って、語尾を笑いでくるんだ。


「愛したい人より、憎い人の方が多いもんさ。愛はゆっくりあたたまるけど、憎しみはいちどきに燃えて、ずっと心を焦がすからね」


 リリャは次の言葉を待ってしばし黙った。ワルワーラは何も言わなかった。


「え、終わりですか?」

「説教されたかったのかい? それでも誰も殺しちゃいけないだとか?」

「あ、うー……そうかもしれないです」


 ワルワーラは笑った。


「あんたにはあんたの春があるんだよ、リリャ。それはあたしが決めることじゃない。もしもあんたが気に食わないだれかを殺して、殺して、殺しつづけて……その最後に自分が殺されて、それでも満足だったら、そこがあんたの春なんだ」

「ワリューシャは厳しいです」

「ばか言いなさんな。ワリューシャはいつだってあんたに優しいよ」


 背中に手を回されて、額にくちづけをされて、リリャの心はあたたまる。 


 直後。


 全てが、一瞬にして吹き飛んだ。


 リリャは、東から高速で迫る巨大な魔力を感知した。次いで、金属を擦るような音があっという間に近づいた。ワルワーラに警告しようとしたとき、それはもう直上にあった。

 衝撃が建物の上半分を吹き飛ばし、粘土のような分厚い塵埃と砕け散った木材が降り注いだ。


 突風が吹き込み、子供たちは家具や破片といっしょに床を転げまわった。真っ暗闇の中で幾つもの悲鳴が上がった。

 闇に光が点った。壊れたペチカから転がり出た火が、建物を舐めあげたのだ。


「あ、う……」


 木材の直撃を受けたリリャは数秒、失神していた。目覚めると、ここがどこで自分が何をしているのか、見失っていた。


「リリャ! オンニ、アンテロ、ノエル! クリスタ! 生きてるかい!? 返事して!」


 ワルワーラの金切り声が、リリャを失見当識から現実へと引き戻す。


 燃える家屋が、惨状を照らしていた。


 喉に破片が突き刺さり、血だまりの中に横たわるクリスタ。


 右目を潰され、泣きわめくアンテロ。


 下半身を梁に押しつぶされたノエル。


 炎が死体を照らしている。

 父と母がそうだったように。


「あんたも立つんだよ、リリャ!」


 泣きじゃくるオンニの手を引いて、ワルワーラが叫ぶ。その左腕が、だらりと垂れている。指先から滴る血が、床を奔る火に触れて一条の煙となる。


「生きてる子! 立って! すぐにここを出てください!」


 リリャは叫んだ。いつも通りのきびきびした声を出そうとして、半狂乱で。

 だがリリャの声は子供たちにいくらかの理性を取り戻させた。混乱と激痛にのたうち回る一つのかたまりであった孤児は、苦しいものがより苦しいものに手を差し伸べ、痛いものがより痛いものに手を差し伸べた。燃え上がる孤児院から生き残りたちが飛び出し、冬の暗闇に地獄が在った。


「おっとぉ、生きてるじゃん結構」

「多いなー。何人か殺せばよくね」

「いや、全員連れてくよ」

「大将は?」

「どっか飛んでったよ。今日のうちに五六軒やっときたいって」


 揃いのコートを着た五人が、孤児たちの前、弛緩した空気をまとっていた。簡単ではあるが面倒で退屈な仕事に向かう時のように。

 事実、彼らはこれから、簡単ではあるが面倒で退屈な仕事を始めるのだ。

 移民の子らの虐殺を。


 リリャは、ワルワーラは、〝月の海の子どもたち”院の孤児は、膝をついた。絶望は重く、柔らかく、子供たちの意思を(ひし)いで潰した。

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