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1,見過ごすわけにはいかない

 あー、いけない。遅刻遅刻!


 食パンを口にくわえながら急いで走る。ラブコメでは定番の始まり方だ。一度やってみたかった。そして、一度この台詞も言ってみたかった。あとはかわいいヒロインが曲がり角で同級生の王子様と出会い、恋に落ちるという流れが残るのみだ。だが、残念ながら俺は男だ。


 名前は渡辺剣人。冒頭からいきなり寝坊をかましてしまっている少しお茶目な男。厄介なことにこれはただの寝坊じゃない。今日は人生で一度きりのイベント、高校の入学式なのだ。前の日に入学式が楽しみで寝られなかったわけじゃない。春休み中、十時に起きて夜中の二時に寝るという怠惰を繰り返していく内にその生活に慣れてしまい、朝起きれない体へと変貌してしまった。でもギリギリ登校には間に合う時間には起きれているわけで、それのおかげでラブコメの主人公に今なろうとしている。この寝坊によってこの先、さえない男が美少女とぶつかって恋に落ちることというシチュエーションを期待して、曲がり角のところで少しスピードをつけてターンしてみる。......そりゃあ何もないよね。期待なんてしてなかったさ。いらぬことは考えずに早く駅へ急ごう。


 改札口を通ってから電車に乗るまでを、最短ルートで突き進むのが勝負の分かれ道だ。一度でも間違えてしまうと遅刻は確定する。決して小さな駅じゃないが大丈夫、こんなこともあろうかと下調べはすでにしてある。中央出口の改札から入り、駅ナカコンビニの横にある階段を下る。しばらく道なりをまっすぐ行って、七番ホームにつながる階段をさらに上がれば到着だ。初めてなら迷いながらで一本は電車を乗り逃してしまうだろうが、今の時代はネットで構内地図を調べることができる。これによるイメージトレーニングで戦略を練って、攻略法を編み出せるのだ。ありがとう文明の利器!


 戦略は上手くいった。ホームへ着くと同時に食パンは食べ終え、無事に時間通りの電車にも乗ることができた。やれやれ、慌ただしいもんだ。初日から朝早くから走り続けて汗だくだし、初日から新生活の洗礼を受けた。これが高校生というものなのか。先が思いやられるな。


 程なくして電車も到着し、勝負に打ち勝った俺は堂々と胸を張って中に入った。電車の中は冷房が効いていてとても気持ちいい。凱旋してきたかのような気分だ。今のところいいことが全くないが、以前まで家から十分歩いたら着く中学校に通っていた時には、こういった感覚は味わえなかった。まあ、これはこれで悪くない。ようやく落ち着いたころに周りを見渡すと、同じ制服を着た学生がちらほらいる。何か人数が少なくないか?遅刻しているわけじゃないんだぞ?ほとんどの人は余裕をもって一本二本前の電車に乗っているのだろうか。それもそうか。学校生活をしばらく送って慣れてきてくると始まりのチャイムギリギリに登校する生徒も増えてきてくるが、新学期早々、しかも入学式という門出の日に遅刻しかける人はあまりいない。反省はしないといけないが、この同じ空間にいる同志には親近感がわくものだ。同級生か上級生かはわからないけれども、君たちのことは仲間と呼ばせてくれ。朝から一人でドタバタしたが、これからどんな華々しい青春が始まるのかと思うとウズウズする。寝坊をするような不束者ですが、皆様、どうぞよろしくお願い致します。


 同じ学校の生徒はあまりいないが、この空間を多く占めているのはスーツを着たサラリーマンだ。期待に胸を膨らませた新入生とは対照的に顔がうつむいているサラリーマンがほとんどで、しっかりと前を向いている人もいるかと思うとどこか目の焦点が合わず遠くを見つめている。年をとっていくとこうなるのだろうか。さっきまでウズウズした気持ちだったのに、楽しめるのは若い今のうちだとでも言われているような気分になる。これが朝の電車の空気か。世の社会人方、お勤めご苦労様...と心の中で唱えていたとき、ある一角が目に入った。鬱蒼とした車内を、あの一帯だけ中和しているかのようなキレイな女性が立っていた。


 長い黒髪でキリッとした目つき、加えて長身で目を引く凛々しさも持ち合わせている。同じ学校の生徒なのだろう、女性用のブラウスをそれはもう丁寧に着ていた。着られているブラウスも喜んでいるように見える。あの人の周りだけ違う空気が流れているみたいだ。パンを食わえて走っている時の曲がり角であの人にぶつかりたかった。そして、そこから仲良くなって一緒に甘酸っぱい青春を過ごせればなあ...。と妄想を膨らませていたのだが、よく見てみると何か様子が変だ。綺麗な立ち姿ではあるが、顔を赤くして少しうつむいていた。さっきまで凛々しく立っているように見えていた姿は、こわばってガチガチに固まり立ち尽くしているような印象に変わっていた。同じ新入生なのだろうか。新生活初日で緊張しているのかもしれない。かわいい子だな。仕方がない。俺が一肌脱いで彼女の緊張をほどいてあげよう。何せ今日から高校生だからな。どんなことでも臆さずできる気がする。そう思いながら彼女に近づいていったが、近づくにつれてめちゃくちゃ恥ずかしくなってきた。そうだ、俺はただの人見知りだった。新生活初日だからといっていきなり今日から性格が変わるはずもない。調子に乗ってしまった。まあ、あの人の近くまで行って俺も癒されておこうか。


 もちろん下心なしでさりげなく近寄っていった。ん?何だこいつは。先約の人がいたようだが、不自然すぎる。電車の混み合う時間は少しずれているから、世間でいう朝の通勤通学ラッシュアワーではないにもかかわらず、扉付近にいるその女性の背中に陣取るように一人のサラリーマンのおじさんが突っ立っているのだ。もしやと思い、彼女の腰あたりに目を向けると家族を養うために働かせ続けているだろうそのサラリーマンの手の甲が、女性のお尻に届かせようとしていた。なんてことだ。つり革の奥に見える「チカンはアカン!」の広告が目に入らないのか。これは危機的状況だ。このまま見過ごしてしまうと、入学式という晴れ舞台の日に痴漢にあうというトラウマが彼女にでき、学校に行けなくなり絶望の人生を送ることになるかもしれないし、このサラリーマンもサラリーマンで痴漢を遂行してしまうとこんな事のせいで会社をクビになって養育費を支払い続ける人生を送ることになるかもしれない。だが大丈夫。痴漢はまだ実行されていない。人見知りだどうとか言ってられないな。二人を救うためには、何としても未遂で終わらせないといけない。ここは一つ、人助けでもしようじゃないか。朝から高校生は忙しいな、本当に!


 運良くちょうど高校の最寄り駅へ着こうとしている頃合いだったので、俺はそっとその二人に近づき、周りには気づかれないようにこう言った。


「よう、おはよう!今日から高校生だな。遅れるといけないから早くいこうぜ。」


「え、ちょっと。」


 言い終わると同時に電車の扉が開き、俺はその女性の手を引っ張って鮮やかにサラリーマンから離れていった。扉越しに見るとおじさんが呆然と立ち尽くしていた。「邪魔をしやがって」というよりは、「俺はなんてことを考えていたんだ、救ってくれてありがとう」とでも言わんばかりの表情を浮かべているように見えた。


 そして、その人は手を汚すことなく会社へ向かって電車に運ばれていった。何と華麗な救出劇だ!初日早々人助けをしてしまった。さっきまでとは打って変わって、気持ちのいい朝である。胸の鼓動の高まりが収まらない中、隣にいる女性がじっと俺の顔を見ている。あの状態で顔を赤くしていたということは、痴漢されそうなことに気づいていたのだろう。入学初日にこんな思いをするなんて、さぞ怖かったに違いない。その状況下で俺が来たわけだから、彼女にとって俺はヒーローのようなものだ。もしかして俺に惚れた?まさにラブコメの主人公じゃないか。


 だが、俺も大人だ。そこまでのことは求めていない。一人の女の子を救えただけで満足なのだから。で、その女の子はというと、しばらく俺の顔をじっと見つめてからぶるぶる震えだした。ここは男らしくひと声かけてあげよう。


「さっきは、危なかっ」


「な、なななななんてことを...」


「え?」


 なんてことを?どういう意味だ。思っていた反応と違う。どうも感謝の気持ちを表しているわけではないようだ。もしかして、無理に彼女の腕を引っ張ったのがまずかったのか?感情のアップデートが速い子なのだろうか。それか思いがけないことが起ころうとしていたからパニックになっているのかも。こんな経験は初めてだったろうし、落ち着いていられないのも無理ない。


「あともう少しだったのによくも邪魔してくれたな!」


 やっぱりおかしい。可憐な見た目なのに、これほど語気を荒げるなんて。パニックではなく怒りであることは間違いないようである。恥ずかしいしセクハラだと言われてしまいそうだが、ここはこの人から聞きださないと邪魔と言われた意味が分からない。うやむやにしてはいけない状況だ。


「えっと、あの、おしり触られそうだったんだよ?」


 女性に向かって「おしり」というワードを発した時、自分の中で緊張が走った。周りに勘違いされないように小声で聞こえないように言ったが、これじゃあまるで俺の方がセクハラをしているみたいじゃないか。そもそも女性と話すことなんて滅多にないことなんだぞ。ダンディに名前も伝えずにさっそうと立ち去ろうかと考えていたのに計算が狂う。どういう返答が返ってくるのかと待っていると、その女は鼻息を荒くしながらこちらを睨みつけて、こう言い放った。


「そんなことは分かってる。私にとってはウェルカムなのだ。朝の楽しみを...よ、よくも邪魔してくれたな!」


 こいつ、関わったらダメなやつだ。


「もういい。ここで君の説教をしていても時間の無駄だ。これからは人の気持ちを考えた行動をするように!」

 

 そう言ってその女は俺にお礼も言わずに、それどころか俺が間違ったことをしたかのようなひどい言い草で立ち去って行った。こんなのおかしいだろ...。それに人の気持ちを考えろってなんだ。普通の女子は痴漢されるのは嫌なはずだ。いや、全員そうだと思うのが当然じゃないか。人の気持ちを考えて起こした行動がこの結果だ。しかし、ああもはっきりと言われると悪いことをしたのかとも思えてもくる...。いや、冷静になれ。あれは異常者だ。俺は間違ったことはしていない。


 自問自答している内にハッと気づいた。今、入学式に向かう途中なんだった。呆然と立ち尽くしていたが、周りを見渡すと同じ制服を着ている学生はどこにもいなかった。初日から遅刻するような悪目立ちはしたくない。納得はできないが、とりあえずさっきのことは忘れよう。人は見かけによらないということが身に染みて分かった。綺麗な人なのにもったいない。関わらなければ心の内を知ることはなかったのに。遠くから見ているだけでよかったな。そういえば、名前も言わず去っていかれた。名前を言わずに去るのはかっこいいことだと思っていたが、とんだ幻想だったようだ。高校生としての洗礼、不条理をひしひしと受けながら急いで学校へと向かった。


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