第8話 寝屋の日(3)
カティサークが部屋に来てから2時間ほどが過ぎたが、ヴィクトリアを追い出す気配は微塵も感じられなかった。
いつ追い出されるのだろうと身構えていたヴィクトリアだったが、ただ会話を楽しんでいる様子のカティサークに肩の力を抜いた。
最初は後宮での生活や騎士たちの話をしていたが、やがて昔行ったことのある様々な領地の話になった。他の領地にあまり行ったことのないヴィクトリアにとってそれは興味深く、聞くのはおもしろかった。
そして話題は私の故郷サン・ビセンテに移った。
「君の故郷にも昔行ったことがある。」
「そうなんですか。王都と比べるとかなり田舎でしょう?」
「確かに人口は少ないが自然が多くて美しい所だった。」
「そうですね。海や森に湖もあって、美しい景色がたくさんありますわ。」
私はサン・ビセンテのセルリアン・ブルーの海を思い出した。
部屋に飾ってある風景画の海の色がどことなく似ていて懐かしかった。
カティーサークもヴィクトリアの視線を辿ってその風景画を見つめた。
「そうだな…。実は昔、君に一度だけ会ったことがある。君は『謁見の間』で初めてお会いすると言っていたが。」
「私に…ですか?」
それはあり得ないと思った。
皇太子に会っていたら絶対に覚えているはずだ。
「ちょうど10年前に一度だけ、一緒に湖に行った。俺はその時、君のことをヴィーと呼んでいた。君は俺のことをカティと…。覚えてないか?」
カティーサークの瞳が揺れていた。
ヴィーというのは確かに私の愛称だ。
近くの湖にも何度か足を運んだ。
けれども皇太子と湖に?私が?
カティという名に微かに聞き覚えがあったものの、絶対に皇太子と会ったことなどあるはずがないという強い感情がヴィクトリアの記憶に蓋をした。
「…すみません。小さかったので。」
「そうか…。まぁ、いい。ずいぶん昔の話だ。ただ、その時のようにこれから君のことをヴィーと呼んでもいいか?」
「それは構いませんわ、殿下。」
「ヴィーも俺のことをカティと呼んでくれて構わないぞ。」
「それはさすがに恐れ多いですわ。」
「…そうか。それは残念だ。」
カティーサークは寂しく微笑んだ。
私は私に一度会ったことがあると言うカティーサークをじっと見つめた。
一体誰と勘違いをしているのだろう。
それとも本当に会ったことがあるのかしら…。
しっとりとしていた皇子の金色の髪はすでに乾き、少し屈むとさらりと前に落ちる様はヴィクトリアを少しドキリとさせた。
そして時折見せる笑顔の奥にブルーの瞳が鋭く光っていた。
きちんと着ていたバスローブは時間とともに緩み、その隙間からは色気ただよう男の筋肉を覗かせていた。
カティーサークはそんなヴィクトリアの視線に気づいたのか耳を赤くした。
「少し暑いな。ちょっと風に当たるか。」
そう言い部屋の外のバルコニーに出た。
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外の風は心地よかった。
満月ではなかったが十分な月明りであった。
広い庭園の周りは林で覆われており真っ暗だった。
私はその真っ暗な林をぼんやりと眺めた。
すると林の一部分が微かに光ったような気がした。
「あそこには何かあるんですか?」
私は微かに光ったところを指差した。
「あそこか。あそこには小さな丸い池がある。昔見た美しい湖に似せて俺が造らせたものだ。」
カティーサークは懐かしくも切ない表情を浮かべた。
私は目を凝らして一生懸命見たが、やはり暗くてよく見えなかった。
夜の風にヴィクトリアのピンクの髪がたなびいていた。
するとカティーサークはそっとヴィクトリアの髪に触れた。
私は髪に触れられたことに気づいたが、あえて振り向かなかった。
振り向いてはいけないような気がしたからだ。
「綺麗な髪だ。」
そう囁くとカティーサークはヴィクトリアの髪に軽くキスをした。
「もう夜も深い。そろそろ寝ようか。」
カティーサークはヴィクトリアを熱く見つめ部屋の中に戻った。
最後まで振り向かなかったヴィクトリアはカティーサークの熱い視線には気づかなかった。
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部屋に戻るとカティーサークはベッドに腰かけていた。
そして両手を組み私の方に視線を向けた。
私はその様子を見てびくっとした。
まさか、まさかと思うけれどもその気になっちゃったわけじゃないわよね。
今までの令嬢は部屋に帰されたって聞いてたから安心してたけど、今夜はどうしようみたいな感じで迷ってるとか…?
もともと女性遊びの激しいプレイボーイだもの。
正妃選びで慎重になってるとはいえ、一か月はもう我慢の限界なのかも…。
いや、でもそれは私が困る!
出来れば清らかな体で旦那様を迎えたい!
何とかしなきゃ!
私は勇気を出して声をかけた。
「殿下、横になってください。」
ヴィクトリアは促すように近づいた。
「えっ、あぁ。」
カティーサークは自身の動揺を悟られまいと極めて平静を装った。
先ほどから、いや部屋に入った時からずっと心臓の鼓動は速かった。
自分を見つめる金色の瞳に艶やかな唇。
薄手のナイトドレスは所々の体のやわらかそうな曲線を浮きだたせ、ヴィクトリアの肌色をぼんやりと見せていた。
もう、限界だと思った。
「殿下、目を閉じてください。」
そう言うとヴィクトリアはカティーサークの目を手で覆った。
カティーサークの思考回路はヴィクトリアの言われるがままになっていた。
ヴィクトリアは思っていたよりもカティーサークが素直で安心した。
ここで抵抗されたり、いきなり体を引き寄せられたらもう諦めるしかなかったからだ。
「明かりを消しますから、そのまま目をつぶっていてくださいね。」
ヴィクトリアは部屋の明かりを消し、扉の前に立った。
カティーサークは言われた通りに目をつぶっているようだ。
まぁ、今までの令嬢も部屋から追い返しているし問題ないだろう。
もしそうじゃないなら、引き留めるはずだ。
「殿下はお疲れのようですから私はこれで…。おやすみなさい。良い夢を。」
ヴィクトリアは微笑むと扉を開けた。
特に何か言われる気配はなさそうだ。
やっぱり部屋から出て行っても問題はきっとないだろう。
そもそも私は気に入られてないはずなのだから…。
そうするとヴィクトリアは呆気なく部屋を出ていった。
ベットに横になったまま、カティーサークは呆然としていた。
静寂だけが残る部屋で彼は何が起こったのかわからなかった。
ただそこにはヴィクトリアの残り香だけが漂っていた。
彼はその甘い匂いに酔いしれながら、彼女と過ごした時間を反芻するように思い出していた。




