第9話 ヴィクトリアの誘惑(レイヴン侯編)(1)
今日のヴィクトリアは朝から気合が入っていた。
いつもはどんなドレスでも構わないというように侍女の選んだものを着ていたが、今日は自らドレスを手に取り最もセクシーなブルーのドレスを選んだ。
化粧も普段より倍の時間をかけ、リップの色には特に拘った。
大抵はベイビーピンクのような淡い色のリップをつけるが、今日は赤の色味が強いローズピンクをつけた。指にはドレスに合わせてアレキサンドライトの宝石をあしらった指輪をはめた。
「どう?マリー、変なところない?」
「変というより、ものすごくそそられます!」
「本当?なら完璧ね。」
私は妖艶な微笑みを浮かべた。
「本当にやるんですか、お嬢様。この前『寝屋の日』が終わったばかりなのに…。」
マリーは不安げな表情だ。
「心配しないで。うまくやるから。」
はやる気持ちを抑えつつ、私は庭園へと向かった。
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執務室では今日も皆、淡々と務めをこなしていた。
ただ時折カティーサークが思い出したかのように笑みを浮かべるので、誰が最初に声をかけようか騎士たち三人は様子をうかがっていた。明らかにヴィクトリア嬢と何かあったような感じではあったが、だからこそいつものように軽く話題にはできなかった。
口火を切ったのはアレックスだった。
「殿下、率直に聞きますね。その、どうだったんですか?ヴィクトリア嬢とは。」
カティーサークはちらりとアレックスを見ると「お前が考えるようなことはない。」と落ち着いた様子で答えた。
「全然?何も?」
アレックスは念を押して聞いた。
カティーサークは何もなかったと答えようとして、ふと彼女の髪にキスをしたことを思い出した。
「少しは…あった。でも本当にお前が想像するようなことは何もない。」
アレックスは何か知ってるとでも言わんとばかりに食い下がった。
「殿下は本当にそれでいいんですか?」
するとサグレスがすかさず「アレックス、立ち入りすぎだ。」と制した。
カティーサークは確かにあの時引き留めれば良かったと後悔もしたが、ヴィクトリアとゆっくり距離を縮めるのも悪くないと思った。
会えなかった10年分をこれから少しずつ取り返していけばいいと…。
と、その時クロンが窓の外を見て目を細めた。
「あそこにいるのって、そのヴィクトリア嬢ですかね?」
皆が一斉に窓の外を見やった。
遠くの方にいたが確かにそれはヴィクトリア嬢だった。
「一緒にいるのは…先ほど殿下に謁見したレイヴン侯でしょうか…。なんか変な取り合わせですね。前から面識でもあるんでしょうか。」
いぶかしげにクロンは言った。
カティーサークは瞬間的に彼女が放った昔の言葉を思い出していた。
忘れたくても忘れられない心に突き刺さったままの言葉を。
まさか…。
カティーサークは悪い胸騒ぎがした。
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レイヴン侯は青みがかったグレーの髪が特徴的な落ち着きのある紳士だった。
ヴィクトリアとは9歳離れているものの、端正な顔立ちで実際の年齢よりも若く見えた。
当然ながらご令嬢方に人気があるが、今まで浮いた話が一切ない人だった。
実は自分に送られてきていた求婚相手の肖像画の中に、レイヴン侯がいたことをヴィクトリアは覚えていた。レイヴン侯が私の肖像画を見て一目惚れしたと添えられた手紙に書いてあった。
私は偶然を装いレイヴン侯に声をかけ、人目を避けるように庭園の隅へと誘った。
もちろんレイヴン侯の求婚のことも手紙のことも知らないふりをした。
ヴィクトリアとレイヴン侯はバラの生い茂るアーチベンチに腰を下ろし会話を続けた。
「それにしても、まさかこんなところでヴィクトリア嬢に会えるとは思ってもみませんでした。」
「私もです。レイヴン侯のお噂は故郷にも届いておりましたわ。」
「それは良い噂かな?それとも悪い方?」
「もちろん良い方ですわ。」
私はうっとりとするような目でレイヴン侯を見つめた。
やっぱり思っていた通り、紳士的な方だわ。
この人ならきっと穏やかな結婚生活が送れるに違いない。
そう思った。
「それにしてもお美しい。サン・ビセンテに絶世の美女がいると聞いていましたが本当にその通りだ。」
レイヴン侯は少し顔を赤らめた。
私は伏し目がちに「そんな…。」と答えた。
彼は明らかに目の前のヴィクトリアに惹かれているようだった。
「皇太子妃候補になられたとか。これだけの美しさなら殿下もさぞ…」
とレイヴン侯が言いかけたところで私は言葉をさえぎった。
「やめてください。私は殿下のような方よりも、もっと年上の落ち着いた…レイヴン侯のような方のほうが好きですわ。」
私はレイヴン侯の右手にそっと自分の左手を重ねた。
明らかにレイヴン侯は動揺した。
重ねた手から彼の熱が伝わるようだった。
「また、そんな…。年上といっても私はヴィクトリア嬢より10近くも上ですよ。」
と言いつつレイヴン侯は何かを期待するような目を向けた。
「それは私が幼いということですか?」
「いえ、そういう意味では。」
私はあえて物悲し気な表情をした。
「そうかもしれません。実は…この前、殿下と…その寝所を共にする日があったのですが、一切手を出してはいただけなくて…。きっと私が幼いせいなんですわ。」
するとレイヴン侯は真っすぐに私を見つめた。
「そんな!私だったらすぐにでも、その…あなたはとても魅力的ですよ。」
「本当に?」と言いながら少し顔を近づけた。
「ええ。」と言ったレイヴン侯は私だけを見つめていた。
「殿下はどうやら私のことがお気にめしていらっしゃらないわ。ですから正妃にはならないと思うんです。もし、正妃が決まって私が妃候補からはずれたら、その時は私をもらってくださる?」
「もちろんです。逆に私でいいんですか?」
「あなたがいいんです。」
そう言うと私は先ほど重ねていた手の指を絡めた。
「何か…口約束だけではない証がほしいわ。」
私はさらに顔を近づけレイヴン侯の唇に視線を向けた。
そして右手でレイヴン侯の首筋をなぞり耳を触った。
「ヴィ、ヴィクトリア嬢…。これ以上は…、もし殿下に知られたら…。」
レイヴン侯の耳に熱が帯びるのを感じた。
「大丈夫ですわ。殿下含め皆、王宮内にいますもの。」
そうして私はレイヴン侯にすり寄り唇を少し向けて目を閉じた。
レイヴン侯の指先が私の頬に触れ、唇の近くに息がかかるのを感じた。
私は遂にやったわと思った。
あとは妃候補から外れるだけと思ったその時だった。
後ろからものすごい勢いで腕を掴まれ引っ張られた。と、同時に鋭く光る剣の先がレイヴン侯の首元を狙っていた。
「それ以上動くと首に突き刺さるぞ、レイヴン侯。」
低く怒りに満ちたその声には聞き覚えがあった。
そして耳元で聞こえたその声にゾクリとした。
「ところで、ヴィーはここで何してるんだ?」
ここで『ヴィー』と呼ぶ人を私は一人しか知らない。
「…殿下、どうしてここに。」
私は驚きとともにか細い声を出した。
「俺がどうしてここにいるかじゃなくて、君が何をしていたか聞きたいんだが。」
これ以上ないくらいに冷たい声だった。
「二人を部屋に連れていけ!話はそれからだ。」
私は護衛兵に掴まれながら皇子宮へと戻った。