二話「目醒め」
五月晴れの元、四人はベンチに座り風呂敷を広げた。紗彩は既にパンを食べていたはずだったが、未だ腹は満たされぬとばかりに弁当をかきこんでいる。
「しかし、こうして揃って食べるのは久しぶりだな」
先程のパン屋で買ったらしいサンドイッチをつまみながら蓮はしみじみと笑みを浮かべた。
「そうだな」
最初は何となく顔が合わせづらかった。それから自分が二人に嫉妬していることに気づいて余計に会いづらくなった。そして妹に追い抜かれ、気がつけば列の最後尾。一人、見えぬ両親の背を追っている。
「……アンタ、まだイフリート目指してんの?」
セリナは真剣な瞳で、真っ直ぐに疑問をぶつけた。取ろうと思えば嫌味にも取れるが、その瞳が頑として許さなかった。
何より、この一色セリナという女が、冷たいやつではあっても、他人の夢を笑うような奴ではないことを零児は何よりも知っている。
セリナは本気で心配しているのだ。
「もちろんだ。俺は絶対にイフリートになる」
そもそも魔素受容体がない。伸び代だって見えない。絶対に無理でも、可能性がゼロでも、それでもなお、零児に諦めるという選択肢は無かった。
「そこまで断言されちゃうと私はもう何も言わないわ」
目を伏せてやれやれと笑うセリナ。釣られて蓮も小さく笑った。
「これ笑うとこじゃないからな!?」
「呆れ笑いよ」
「尚のこと酷くないか!?」
平穏な五月下旬の午後。
公園の花壇に咲く七分咲きの紫陽花も笑っているようだった。
「それじゃあ俺は買い物行ってくるから。午後の授業も頑張れよ」
校門の前で零児はフラフラと手を振る。心なしかどこか満ち足りたような顔をしていた。
ブンブンと凄まじ勢いで手を振り返す紗彩に苦笑しながら零児は歩き出す。
その時だった。
「おや? 久しぶりだね。兄さん」
零児の前に少年が現れた。
曲がり角を曲がってくるだとか、家から出てきたとかじゃなく、その場に浮かび上がるようにして少年は現れた。
小学生くらいの外見に、どこにでも売っているようなパーカーとジーンズ。そんな平凡な出で立ちをしているにも関わらず、零児はこれまで味わったことのない程の恐怖を覚えていた。
「キャァァァァ!!!」
そして校舎の方から紗彩の悲鳴が聞こえる。恐怖に竦む足を無理やり動かして零児は校舎へと向かった。
そこにはケモノがいた。
恐らくは狐。しかし体躯はクマやカバのそれであり、発達した顎からは鋭い牙が覗いている。
魔獣。遭遇するのは両親を殺されたあの日以来二回目だ。
三人は既に訓練用である小太刀型魔装を展開し、魔獣と睨み合っていた。訓練生とは言ってもイフリート。常日頃から心構えは出来ているらしい。
「零児は下がって! 訓練用じゃ足止めが限界だから、早く逃げなさい!」
「あ、ああ!」
押し寄せる無力感を押し殺しながら背中を向けて走る。背後からは魔力の収縮する、いわゆる魔術が奏でる快音が幾度となく鳴り響いた。
(俺には何も出来ないのかよ!)
零児は走る。
どこへ向かうでもなく走る。
走ろうとしたのだ。
「あれ……?」
視界が黒く染まり、身体中が何かに縛られているかのように動かない。腕が、足が破裂せんばかりに痛み、骨がどうしようもなく軋む。
あまりの激痛に、零児の意識はしだいに遠のいていく一一
『名前が必要だね、君の名前はそうだなぁ』
男の声が、聞こえた。嗄れかすれており、聞き覚えはない。なのに何故か懐かしく心の奥に染み渡っていく。
『そうだ。バエルというのはどうかな? 君の力にピッタリだろう。というわけで今日から君はバエルだ! うむ! 我ながらいいネーミングだね』
誰だとかを気にするまでもなく、この声の主を零児は知っているような気がしていた
「バ……エル……」
その一言。それがキーであり、撃鉄。
いわばきっかけであり、要因だった。
身体に何かが満ちていく。それは感じたことのない感覚だったが、使い方を知っているような気がした。
無我夢中だった。
ふと視界の端に倒れふす三人が映る。意識を失っているのか、ピクリとも動かない。
怒りが、身体を支配していく。
零児はそして、もう一度叫んだ。
「バエルッ!!!!!」
激昴とともに、雷が身体を撃ち、辺りのコンクリートが巻き上げられた。宙を舞う瓦礫片の間をまるで糸のように紫電が紡ぎ、それは吊るされた人形のように浮遊していた。
まだ意識を失っている三人に襲いかかろうとしていた魔獣がギョロリとその首を回して睨みつける。そしてその魔獣はやがて目の当たりにした。
それは白銀。鎧にも似ているが、明らかにそれとは一線を画している。美しく、華麗であるがどこかに荒々しさを含んだ独特の出で立ち。
無論、魔獣に知性などあるはずもないが、魔獣は本能で察した。
『殺される』
魔獣は駆ける、一匹でも多く仲間のいる方へ。
「逃げるのか……!」
零児は静かに怒りながらそれを追う。走るわけでもないままに、追うというよりは追い詰めていく。
そしてやがてグラウンドに差し掛かると、そこには百匹をゆうに超える数の魔獣がひしめき合っていた。
「お前らが……」
拳は雷を纏う。弾けた電撃が校舎の窓を吹き飛ばしていき、そして降り注ぐガラス片のシャワー。その一つ一つが眩い閃光に照らされた刹那だった。
「お前らのせいで!!!」
駆け出したのは雷だった。それは瞬く間に大地を赤く融解させながら駆け抜けた。抉られた地表はまるでクジラが泳いだ直後の波間のように、扇状に傷跡を残していた。
傷跡に一切の生命は無く、ただ消し炭だけが漂っていた。柔らかな西風がやがてその灰を散らしていく。
いわゆる扇の持ち手、傷跡の先で黒色の返り血を滝のように浴びた白銀は立ち尽くしていた。それは汚泥の中でひとしきり遊んだ白鳥のように醜さと美しさが同居していた。
「終わったのか?」
息を切らしながら、肩で息をする零児。しかし一一
「いいや、まだ終わっちゃいないさ。兄さん」
再び浮かび上がるようにして少年は現れた。
先程のようなどうしようもない恐怖感は、強い怒りによって麻痺しており、もはや恐ろしいまでに平静だった。
「お前は誰だ」
低い声で零児は凄む。しかし、少年は柳に風でケラケラと笑ったままだ。
「誰って酷いなぁ。僕だよ僕、覚えてないの? 十年前に会ってるはずなんだけどなぁ」
その時、零児の脳裏に十年前の惨劇がやけに鮮明に思い浮かんだ。
大型の魔獣が辺りのイフリートを一人残らずなぎ倒し、やがて父親と母親二人だけになった。なにも出来ないまま、守るような二人のその背を見つめる。そして、その向こう、魔獣よりもさらに向こうに居た。
ぼうっと影のように立っている少年が一人。
それは、間違いなく一一
「まさか、お前が……?」
「待ってくれよ。そんな親の仇みたいに見ないで欲しいな。あの木偶共はただのフェイク、偽物なんだからさ」
「その、薄汚い口を閉じろ……!」
静かにしかし激しく、零児は声を荒らげる。
「おいおい、まさか兄さんは自分の記憶を失っているのかい? これだから新人類共は嫌いなんだ」
「黙れぇぇぇぇぇ!!!!」
先程と同じかそれ以上の速度で零児は少年に突進する。それと同じくして少年は囁くようにその名を告げた一一
「パイモン」
水平に、地面を削りながら迫るはずだった突進は少年を目前にして逸らされた。次の瞬間、零児ははるか上空で雲を眼下に見下ろしていた。
「まさか、力の使い方も忘れてるの? 僕達の本当の両親も? やるべきこと、成すべきことも? 僕との思い出も? みんなとの思い出も? 」
いつの間にか零児のさらに上空に空いた黒い穴、少年はそこから覗き込みながら肩をすくめた。
「記憶消去か、洗脳か。いずれにせよ、これで決心がついたよ。僕は絶対に新人類を許さない」
「お前はなんだ……? 何を知っている?」
「僕はパイモン。終焉摂理弍型、終焉摂理空間魔獣パイモン。僕は全てを知っている、けど教えない。兄さんが自分で思い出すのを待つよ。全てを教えることは親切にならないしね」
パイモンと名乗った少年は、再び黒い穴の中にその姿を隠すと、次の瞬間にはすでに倒れている三人の側にいた。
「とりあえず、この三匹の雌を殺すよ。ショックで兄さんも全部思い出すかもだし」
空中に残った小型の穴からパイモンの声が耳鳴りのように響く。目を凝らしてみると、地表ではパイモンが既に手刀を構えていた。
「じゃあね」
パイモンは手刀を勢いよく振り下ろす、自由落下は間に合わない一一
(俺は助けられないのか……?)
両親に逃がされ、蓮にセリナに紗彩に逃がされ、そして今、ようやく力を手にしたというのに。
(もっと……力を……!)
加速する自由落下、振り下ろされる手刀。
(もっとだ! もっと、もっともっと!)
手を、伸ばす。ひたすらに手を伸ばす。全てを、何もかもを手に入れんと手を伸ばす。
「全部寄越せよ! バエルッ!!」
そして紫電は一一迸る。
「嘘でしょ?」
次の瞬間、手刀が振り下ろされるよりも早く零児は潜り込み両腕にてそれを受け止めていた。
パイモンが信じられないといった苦笑を見せながら後退する一方で、零児は鬼のような形相で歯を食いしばっていた。
「まだだ……もっと寄越せよ、もっとだ!」
かつて白銀だった鎧は既に黒色に染まり、先程の優美さなどは彼方の地平へと失せていた。代わりにあったのは、地獄絵図のようなおどろおどろしさと、暗い闇のような禍々しさだった。
「グッ……ガァァ……」
「あーあ、暴走までしちゃって…… なるほど、力の使い方だけを思い出したけど、コントロールはできてないみたいだね」
もはや、人とは呼べない様相の零児から距離をとり、パイモンは静かに笑う。
「暴走してまで守りたいのならそうしてくれて構わない。ただ、一つだけ言わせてもらうよ。兄さんがそいつらの味方をする限り、僕達は兄さんの敵だ」
覚悟を決めたようなパイモンの真っ直ぐな瞳が零児を突き刺す。
「ガァァァ……」
野生の獣のように低い呻き声を漏らしながら、パイモンを睨む。それは先刻消し炭にした魔獣達とと完全に同じものだった。
「またいつか、そう遠くない日のうちに会おうね」
背後に黒い穴を浮かべると、パイモンはその中に飛び込みその姿を消した。
地面に膝を付いたまま、獣は天を仰ぐ。
今にも泣き出しそうな曇天は、重く広がっていた。