7
目を覚ますと、葵は知らない部屋のベッドに横たわっていた。
(…あれっ?ここどこ?)
周りに人の気配はない。
腕時計を確認すると、日付を跨ぐ直前であった。
必死に記憶を呼び起こすが、サークルの新歓コンパで誤ってお酒を飲んでしまった後、翔と話していた場面で記憶が途切れている。
(もしかして、立花先輩の部屋っ?!)
そう思って、ガバリと起き上がったが、すぐにそうでないことがわかってしまった。
(…違う、誠の部屋だ…)
葵がこの部屋に入るのは初めてだったが、部屋は見覚えのあるもので溢れていて、そこら中に誠の気配を感じた。
葵はどうして誠の部屋にいるのかわからなかったが、まだアルコールが抜けていないためか思考はぼんやりとしていて、うまく考えがまとまらない。
それなのに、なぜか葵は穏やかな気持ちになっているのを感じていた。
あれだけ避けていた誠の部屋にいるというのに、この部屋から出ていこうという考えは微塵も湧いてこない。
もしかしたら、この懐かしい空気のせいなのかもしれない、と葵は思った。
ふと、壁際の棚を見ると懐かしい写真を見つけた。
(…あの写真、持ってきたんだ。)
もう記憶がないくらい小さい頃の葵と誠が、こちらを見つめている。
昔から無表情なのは変わらないな、と思った葵の口は自然と笑みを浮かべていた。
もう、物心がつくずっと前から、葵の隣には誠がいた。
どんなことも一緒に経験して、ともに成長してきたのだ。
わかりづらい誠を、一番に理解してあげられるのは葵であった。
抜けている葵を、一番に助けにきてくれるのは誠であった。
いつから好きだったかなんて、もうわからない。
ただ気付いたのが遅すぎただけなのだ。
誠が隣にいなかった人生なんて、葵には想像すらできない。
この一ヶ月あまりで、葵は痛いくらいにわかってしまった。
どんなに誠を避けても、ぐちゃぐちゃになった感情を怒りとしてぶつけてみても、誠はいつも葵の中心に居座っているのだ。
(誠への想いを消すことなんて、始めから無理だったんだ。)
(例え誠がこの先、私以外の人と歩む人生を選んでも、私は心のなかでずっと誠を好きなままでいればいい。)
懐かしい空気のおかげでそんな考えが浮かぶと、葵はふっと肩の力が抜けるのを感じた。
自分の行き場のなかった想いに居場所をつくると、今までのもやが晴れたように少し前向きな気持ちになってきたのだ。
気持ちの整理がつくと、葵はもう一度現状把握をしようと記憶を探ったが、誠の部屋にきた経緯はまったく思い出せなかった。
(覚えてないけど、迷惑をかけてしまったことは確実だ…)
数時間前の自分を反省しながら、まずはこの部屋の主に謝罪を述べなくては、と思った葵はまだ気だるい身体をベッドから降ろした。
立ち上がって伸びをすると、チャリンっとジーンズのポケットから何かが落ちた。
(そっか、ポケットに入れっぱなしだったんだ。)
葵は床に落ちた合鍵を拾い上げ、じっと見つめると、テニスコートでの誠の様子を思い出した。
――それは、渡した意味がわかった上での答え?
――わかってないんだったら、それは葵が持ってて。
(…『合鍵を渡した意味』って何なんだろう…)
普段は感情を表に出さない誠が、珍しく怒りを露にしていた。
葵は、この合鍵にはそんなたいそうな意味があるのだろうか、ともう一度じっと見つめてみたが、答えは見つからなかった。
少しすると、ガチャンっと玄関のドアが開く音がした。
誠が帰ってきたことがわかった葵は、一刻も早く謝らなくてはと、急いで寝室の扉を開けて出ていった。
「おかえりっ!」
誠は急に飛び出してきた葵に驚いた様子だったが、元気そうな姿を見て安心したのか、ふぅと息を吐いた。
その様子をみて、誠がそこまで怒っていないことがわかった葵は、このままの勢いで謝罪してしまおうと口を開いた。
「ごめんなさいっ!!…その、私、お酒飲んじゃったみたいで、全然覚えてなくて申し訳ないんだけど…誠に迷惑かけちゃったんだよね…?」
「それは別にいいよ。はい、これ。」
そう言って、誠はいま買ってきたらしいペットボトルの水を差し出した。
「あっ、ありがと。」
水を受け取ると、久しぶりに避けずに誠と接した葵は、今まで通りの二人のやり取りが出来ていることに心のなかでホッと息をついた。
(そうだよ、私たちってこんな感じだった。)
安心すると、葵はハッと置いてきてしまったであろう咲のことを思い出した。
「あっ、そういえば、コンパ付き合わせちゃった咲に何の連絡もしてないっ!」
「咲って連れの子?それなら大丈夫。」
何が大丈夫なのかはよくわからなかったが、伝えておいてくれたのだと解釈した葵は、またお礼を言って、後で咲に連絡をしておこうと思った。
「あー、立花先輩にも迷惑かけちゃったんだろうな…今度謝りに行かなくちゃ。」
最後に会った記憶がある翔にも、迷惑をかけてしまっただろうと思った葵は独り言のつもりでそう呟いた。
「……それ、本気で言ってんの?」
その一言を聞いて、急に眉間に皺を寄せた誠は、葵が聞いたことがないくらい冷淡な声で言い放った。
一瞬で凍りついた空気に、葵はどうしてそうなってしまったのかわからず、動揺して目を泳がせた。
「…なんか、まずいこと言っちゃった?」
恐る恐る問いかけると、誠は先ほどと同様の冷たい声で答えた。
「葵はあいつの部屋に連れ込まれそうになってたんだけど。」
「…連れ込まれるっ!?ただ、体調悪くなった私を気遣ってくれただけでしょ?そんな言い方したら失礼だよ。」
誠のあまりに批判的な物言いにあんまりだと思った葵は、つい反発した言い方をしてしまった。
「葵は何にもわかってない。」
そう呟いた誠は、急に葵の腕を掴んで、ぐっと引き寄せた。
一瞬の出来事にまったく反応できなかった葵は、気付いたら誠の腕の中に囚われていた。
「…ちょっ、なんのつもりっ!?」
「一人暮らしの男の部屋に着いて行くのがどういうことかわかってる?」
ようやく鈍感な葵でも誠の言いたい事がわかったが、いま誠に抱き締められる理由は見つからなかった。
「わかった、わかったから!これからは気をつける。だから離してよっ!」
「…じゃあ、もしもあいつが同じ事してきたら、一体葵はどうするつもりだったの?」
なかなか腕を解こうとしない誠に、葵は口で抵抗しながら、言葉とは裏腹にどんどんと鼓動が高鳴るのを感じていた。
(…気付かれる前に、はやく離れなきゃっ。)
そう思った葵は、なるべく平静を装って誠を説得しようと試みた。
「…そんなの突き飛ばしてでも逃げるから!でも今こうしてるのは、誠でしょ?突き飛ばす必要ないんだし、離してよ。」
「…俺も同じだよ。」
少し間が空いた後、自嘲するかのようにぼそっと呟いた誠の一言に、葵は抵抗できなくなってしまった。
「逃げれるもんなら、逃げてみなよ。」
そう言った誠は、ぐいっと葵の顎を持ち上げた。
二人の視線がぶつかると、いつも色のない誠の瞳に明らかな欲情の色がみえた。
その瞳に捕らえられた葵は、完全に動けなくなってしまった。
(…キスされるっ。)
そう思った葵は、ぎゅっと目を瞑ると、頬に涙が零れ落ちるのを感じた。
しかし、いつまでたっても唇の感触は降ってこなかった。
「…送る。」
突然、誠はそう呟くと、腕の拘束をほどき、葵を置いて玄関へと向かっていってしまった。
いま起きた事が信じられず、葵はしばらくその場に立ったまま動けなかった。
バタンっと玄関のドアが閉まる音で我に帰ると、ぐいっと頬の涙をぬぐい、自分の鞄を掴んで誠を追いかけた。
無言のまま誠の少し後ろを歩く葵は、送る必要もないくらいの十数メートルの距離が、何時間かのように感じた。
やっと葵の部屋の前に着くと、いつもはどんなことでもハッキリ言う誠が、珍しく口ごもった様子で葵の方を見ていた。
それがわかってしまった葵は、言葉を促すように、じっと誠の目をみつめた。
「………葵には、はやく気付いて欲しい。
…だから、今日のこと謝るつもりはない。」
そう言った誠は、葵の返事を聞くまいとするかのように、足早に自分の部屋の方へと戻っていった。
自分の部屋に入った葵は、ふらふらと覚束ない足取りでボスンッとベッドに倒れこんだ。
今日一日でいろいろなことがあり過ぎて、完全に葵にはキャパオーバーだった。
何も考えず、このまま眠ってしまいたかったのに、まるで葵に纏わるような表情で口にした誠の最後の一言が、葵の脳裏にこびりついて離れなかった。